公怪:自問自答自縄自縛
句点を打ち込み、いつの間にか止まっていた息を吐く。
文章を打つのは泳ぐのに似ているというのはどこで読んだ文章だったろうか。熱中するといつの間にか息を止めていることには、打ち込みのバイトをするようになってから気づいた。長いセンテンスを打つとその傾向が強くなる、気もしている。
これも文章の癖になるのか、それとも書き手の癖で留まるのだろうか。ふと先日の波川とのやりとりを思い出して、マウスを握る手が強張った。自分にしか書けない文章、というと何だか自意識過剰の文学青年崩れのような物言いになってしまうのが何となく嫌だが、句読点の調子や漢字使用の密度などを根拠にするのならばまだ主張としても格好がつきそうだ。するといよいよ
どうにもならない思考を投げ出すように息をついて、書き終えたファイルに保存をかける。一瞬でデータの更新日付は最新のものに変更される。
たった数クリックで済む作業だ。そして、これで俺の役目は終わる。
音声ファイルを聞き終え、
椅子に凭れるようにして伸びをする。凝り固まった肩と首が、自分でもおののくくらいに派手な音を立てる。
弛緩して微かに痛む首筋に、手をやった。その瞬間だった。
「なあ
申し訳なさそうな、甘えるような、泣きつきながら舌を出すようなざらつく声が、耳元に注がれた。
無茶で無体な真似だと知っていながら、その無理を押し通せることを見透かした調子だと思った。
振り返るが、当然誰もいない。背後にはいつもと変わらない様子の雑然と本や雑貨が詰められた本棚があるだけだ。
分かっている。以前より声が明瞭になってきているように思えるのは、いよいよ俺の正気が危うくなっているからか、それとも向こうの実在が増しているからだろうか。どちらであってもろくでもないのに変わりはない。
今回の書き起こしに関連するものをまとめていたファイルを開く。音声ファイルと話のテキストデータ。
ずらりと並んだアイコンを、更新順に整列させる。
一番下に、見慣れないmp3データがいた。
ファイル名は合宿_サカイ先輩と設定されている。
納得した、というよりは再確認したような気分だった。聞き覚えがある。何度も呼ばれていた名前だから、当然だろう。
それが自分の名前だと主張するなら、そう受け入れるしかなかった。
音声ファイルがあるなら、聞かなければならない。テキストとして打ち込んで記録しなければならない。
それが俺の請けた仕事だ。仕事として引き受けた以上は、終わらせる責任がある。
確実におかしなことが起こっている。今すぐに投げ出さないとひどいことになる。そんなことはとっくに分かっている。
それ以上に、俺はもうどうしても逃げられないのだということも知っている。
エアコンは送風口から生温い風を吐き出している。あの頃は冷房だったな、とどうでもいいことを思い出す。一つの季節が過ぎる間、怪談を聞いて打ち込んでいた。ただそれだけではあるが、関係としてはそれで十分なのかもしれない。
どのみち俺が判断することではないし、それを決めるのは向こうの裁量なのだろう。
イヤホンをもう一度耳に装着する。カーソルをファイルの上に乗せる。
一度だけ、長く息を吐いた。
俺は最後の仕事に取り掛かった。
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