暗怪:逃避的雑談日和
「最近どうよっていうか、顔色すごいけど病院とか平気なのお前」
晩秋の午後、日が射してもどことなく冷やかな空気に馴染む程度には地味な格好をしている。いつも入手経路の分からない奇天烈な柄のシャツやスカジャンを着ているような納井先輩がそう見えるのは上着のせいだろう。学生食堂の適当な席に着いてグレーのコートを脱いだら色合いこそ地味になったが何だかよく分からない柄のシャツが出てきたのだからどうしようもない。
落ち着いた黒地にぎらぎらとした銀色の蛇だか鎖だかを見分けるのも面倒になるような上品と悪趣味のどっちつかずを彷徨うような柄のシャツの納井先輩は、学食のテーブルに肘をついてへらりと笑った。
「同じこと、波川にも言われました。そんなにすごいですか、顔」
「前に原がレポートとバイトと家庭の事情でぎりぎりしてるときがそんな感じの顔色してたな。三日ぐらいろくに寝れてないとかで、艶出しした泥人形みたいだった」
体は大事にしなよとどことなくおざなりな口調で言って、先輩はどろりと机に突っ伏す。学生食堂はピークの時間帯を過ぎているせいかひと気はないが、あまり行儀のいい振る舞いではない。
「起きてくださいよ。先輩こそ何ですか、泥みたいな格好して。ここ食堂ですよ」
「あー、今なんか結構しんどくてな。ゼミもだし卒論もだし、それこそサークルの年末年始のあれこれが来るし……」
お前も三年になれば分かるよと何のひねりもない泣き言を零して、ゆっくりと伏せていた顔を上げた。両目を何度か眠たげに瞑ってから、ようやく黒目が俺の方を向いた。
「でさあ、
前回のようにまた違う名字で呼ばれたらどうしようかと身構えていたが、当たり前のように正しい名前で読んでもらえたことに安堵する。当然のことではあるが、このところの状況からして些細なことにも過敏になってしまっている自分がいるのだ。
臆病だと言われたら返す言葉もないが、実際自分が当事者になるとそう思わざるを得ない。映画で派手な刀傷を見ても何とも思わないが、自分が怪我をする分にはささくれ程度でも嫌なのが人の常だろう。
「予定より遅れてはいます。ただ、締切りには間に合います」
「まあ、急かす気はそもそもないけどね。正直今寄越されても手出せるキャパが俺にない」
「そんなに忙しいんですか」
「忙しいっていうか、実質はそこまでじゃないのかもしれないけどやるべきことを考えるとどう考えても日程が無理筋じゃない感があるっていうか、まだ開き直れる十二月ならともかくっていうかここまで忙しくなる予定なかったんだけど何だろうなこの状況はさ……」
ずるずるとまた顔が俯いて、言い訳とも愚痴ともつかない内容がだらだらと口元から吐き出される。
こんな有様の人間に初手で驚かれるほど自分の顔色が悪いという事実がどうにも信じがたいが、案外そういうものなのかもしれない。渦中にいる人間にはその渦の全容を認識することができない。自己の客観視なんてものは、人間が一番苦手なもののひとつだろう。
「先輩はじゃあ……忙しい以外は何かないんですか」
「何。こないだサークルの飲み会から二次会ででろでろ飲んでたら俺だけお姉さんに煙草売りつけられたとかならあるけど」
「飲み会行ってるじゃないですか。そういうのではなくて、その」
あからさまに口ごもった俺に、先輩が怪訝そうな目を向ける。無理もない。こんな手垢のついた焦らし方をされたら、俺でも同じ反応をする。
最近妙なことはあったかと、波川に尋ねたのと同じことをこの人にも聞くべきだろうかという疑問と、それを口にすることへの躊躇がある。
怪談会に関連して
ただの下請けでしかない俺が
「いや、何でもないです。雑談しようとして、失敗しました」
「……あそう。やっぱ疲れてんじゃないの、お前も。健康管理はちゃんとしなよ、平枝くん」
気だるげに投げられた言葉に愛想笑いを返す。
問うのを踏み止まったのは、ただただ怖かったからだ。
もし同じような体験が帰ってきたら、困る。一人なら妄想、二人なら気の迷いで済ませられるが──三人目が出てきてしまったら、虚妄が質量を増してしまう。藪をつついて
こちらの恐れとは別に、先輩はだらしなく机にもたれたままぼんやりとどこか遠くを見ていた。背後の大窓から差し込む光は晩秋らしく淡く、先輩の目は夏の夜に見たときと変わりなく黒々としている。
空調の唸り以外聞こえないような沈黙をどうにかしのごうと、今度こそ普通の雑談を試みることにした。
「先輩このあと帰るんですか」
「いや、図書館寄ってく。次のゼミ発表で使う資料が地下書庫行かないといけないんだよ」
「じゃあ早く切り上げた方がいいですかね、俺確認したいこと終わりましたし」
「あー……そうなんだけど、嫌だからもうちょっと相手してくれ。お前のせいにして、まだこうやって駄弁ってたいっていうか課題のこととかそういうやるべきことに思考を向けたくない」
ぐったりと頬杖をついたまま、先輩はそんなことを嘯く。明らかに邪悪な魂胆を隠す気もない当たり、相当疲れているのだろう。日々適当に生きているだけの先輩でもここまでやられるのだなと珍しいものを見た気分だ。
ともかく先輩かつ発注主の要望には応えておいた方がいいだろうという打算のもと、どうにか雑談の種を意識の中から探り出す。
「そういや先輩、俺まだ先輩の話聞いてないんですけど、結構ぎりぎりまで喋んなかったんですね」
「あー、だってなあ、みんなちゃんとした怖い話持ってきてたし、俺なんかのは添え物でいいかなって。ほとんどトリみたいなもんだったよ結果的に」
「何話したんです」
「それはお前、聞いてのお楽しみだよ。ここで話すわけないだろ」
ムードってものがあるだろうと呆れたような口調で言って、先輩は区切るように息を吐く。そのタイミングを狙ったように机上に放置していたスマホの画面が点灯して、俺は意識をそちらに向ける。
「まあ、ちゃんと聞いて書いてくれよな。言ったろ一蓮托生だって」
──道連れはいた方がいいもんな。
一蓮托生、の声音に重なるように、知らない声が聞こえた気がした。咄嗟に先輩の方へと視線を向ける。
伏せられていた目はいつの間にかこちらをまっすぐに見ていた。
何もかもが手遅れだと決まった夜のようなただ黒々とした中に、俺が映っていた。
「俺の話、お前が書いてくれるんだろ。俺は話した、お前は書いた。そうするとさ、取れるじゃん釣り合いみたいなもんがさ」
何がですか、とは問わずにおいた。
念を押すように呟かれた言葉の意図を読まないように、俺は目を逸らす。
窓から差す午後の日射しは色のない明るさだけを投げかけて、既に夕暮れの朽ちた気配を帯びて翳り始めていた。
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