怪説:夕暮因縁会談

「顔色悪くない? 色白とか地黒とか通り越して土みたいな顔してるけど」


 泥団子の方が艶があるからお前負けるぞとコーヒーを片手にそれなりの罵言を明るく吐いて、波川なみかわは俺の目をじっと見た。

 平日夕方のファストフード店、店内は適度に混んでいる。机の上にはコーヒーとポテト。雑談のお供としては定番であろう品が雑に並んでいる。

 投げつけられた罵倒に答える気にもなれず、コーヒーが冷めるまでの繋ぎにポテトを齧る。しなびた指のようだと嫌な想像をしてしまい、味のしないままどうにか飲み下す。


「何、進捗やべえとかそういうやつ? 卒論終わんない先輩とかたまにそういう顔してたりするけど」

「いや、もう少しで終わる」

「じゃあ良かったじゃん。今十月だし、じゃあ全然締切り余裕だし」


 明るい波川の声に頷く。ファイルの内容的にも残数的にも、あと数話で──下手をすれば一話で終わるだろうことは予測とある種の確信がある。手をつければこれまでの慣れもある分、すぐに終わるだろう。

 それでも俺は作業を中断している。締切りに余裕があるというのも手を付けずに放置している言い訳にもなるだろうが、それ以外の要因がある。


──余裕があるの、いいことだからな。なあ、平枝ひらえだくん。


 波川ではない、ざらついた声。覚えのない呼びかけに反射的に振り返る。

 時間帯のせいだろう、店内の席は制服姿の高校生で埋まっている。時折音量を調整し損ねたように雑談の切れ端や笑い声の尻尾のようなものが響くことはあるが、誰もが自分のテーブルでそれぞれの内輪話に勤しんでいる。

 この店内で俺に呼びかけるやつは、コーヒーを手にしたままこちらを怪訝そうに見つめる波川ぐらいしかいないはずだ。


「……今、俺のこと呼んだか」

「締切り余裕だしってもっかい言ったほうがいい?」

「そうじゃなくて、平枝くんって」

「なんでお前に君づけしないといけないの。意味分からん」

「じゃあ、俺のことを呼んだ声とかは聞いたか」

「ここでお前のこと知ってんの俺しかいなくないか」


 空耳だろうよと波川が首を傾げる。想定していた通りの答えに俺は曖昧に頷く。

 分かっているのだ。あの声が波川のものではないことも、恐らく俺にしか聞こえていないだろうことも予想通りだ。

 空耳、あるいは幻聴というべきなのだろう。俺にしか認識できていないものである以上は、実在の証明はできない。一人にのみ認識され、その存在を証明できないものは妄想とでもいうべきだろう。

 だが──確かに聞こえたあの声に、俺は覚えがある。姿も名前も知らないが、馴染みのある声だ。

 素性も身元も何一つ分からない、忘れ難いくせに曖昧な、あの声だ。


「何かなあ。あんまり危ないこと言い出すなよな。祟りかなって思っちゃうじゃん」

「祟られてんのか、俺」

「俺にそれ聞くの? たまに聞くじゃん、怖い話書いてたら怖い目にあったとか」


 波川の骨張った指がかつかつと机を叩いた。こいつの癖なのだろうか。

 BGMとも人の声とも異なる雑音が一定の拍子で店内のざわめきの中に溶けていく。


「一時期の実話怪談系のあとがきなんかその手の多かったもん。書いてる最中に高熱が出たとか事故ったとか耳潰れたとかの突発的不幸。あ、大概の不幸って突発かもしんないけど」

「俺のもその類だって言うのか」

「まあ、みんながみんなってわけじゃないだろうけど。──何、なんか心当たりとかあんの?」

「知らない声が聞こえる、っぽい。呼ばれることがあるような、気がする、けど気のせいだと思う。全部」

「……じゃあ気のせいなんじゃないの」


 俺の迂遠な物言いに呆れた声で答えてから波川は続けた。


「でもお誂え向きって感じではあるよな、怪談書いたら聞こえるはずのない声が聞こえるようになったって。それ自体で怪談として一本書けるやつじゃん」


 そのままにんまりと笑う。

 俺はどうにか口の端を吊り上げることに成功した。


「俺ばっかりその、祟られるってのもおかしいだろう」

「何で。書いてんのお前なんだから、そりゃお前だろ」

「怪談会はサークル主催だろ。本命はそっちになるんじゃないのか」

「使用者責任みたいな話してる?」

「俺は……頼まれたから書いただけだろ。お前の理屈を通すなら、そっちにも何かないと、釣り合わないんじゃないのか」


 道連れを求めるような物言いだと思った。

 波川は少しだけ黙ってから、俺の背後に視線を投げて続けた。


「サークルに責任があるかどうかはさておいても、別にな。特に変なこととか起きた覚えもないけど」

「ないのか」

「あー、こないだ飲み会んときに石田が人数合わないって愚痴ってたけど、そんなのはいつものことだし」


 俺の顔を見ながら、何でもないような口調で続ける。


「や、いつもお世話になってるとこで飲んでるから。分かるだろ、いぬいさんとこ」


 店名を聞いて脳裏に浮かぶ建物があった。春先の飲み会で行った覚えがある。サークルで長年利用しているようで、料金や人数などの融通が利くらしいとは納井先輩から聞いたことがあった。例会帰りに突発的に行われる飲み会などではよく使われているらしいが、俺はその手の集まりにあまり顔を出したことがない。


「人数、合わなかったのか」

「ん、どうせ団体コース予約だからね。一定数を上下しなきゃ別に大丈夫なんだけどさ。幹事役は大変だよな」


 他人事の調子で言い添えて、波川は続けた。


「あとこれは俺が馬鹿なんだけどさ、サークル企画の行事とか出るじゃん。それでこう、相手が思い出せないことがたまにある」

「何だそれ」

「ほら、プラネタリウムとか行くわけよ。天文研だからさ、学祭でプラネタリウムやるからその参考みたいな名目で。そんで一緒に座った相手とこれ男同士で見るのとか中々ない経験ですよねとか秋の空って地味過ぎませんみたいな話をした記憶はあるのに、誰と話したのかを全然思い出せない」


 ド忘れってあるんだねと波川はひらひらと手を振る。

 その語りに一瞬嫌な符号じみたものを読み取りそうになって、慌てて思考を逸らす。何か違う話題はないかと、波川との直近の会話の履歴を思い出す。


「……そういやお前が前言ってたやつ、どういう理屈だ」

「何、話飛ばしたね、いきなり」

「文章がベタ打ちでも面白い、みたいなやつ。内容が理由か」


 前言ってただろうと問い詰めると、波川はしばらく眉間に皺を寄せてから不意に表情を緩めた。


「ああ。そういやそんなこと言ったな。えっとな、内容とかじゃなくて……出力機器の癖みたいな話、かな」


 出力機器という言葉は分かるが、そこからどう繋がっていくのかが分からない。

 コーヒーの容器──まだ十分に熱が残っている──を手にしたまま黙っていると、波川がかつりと指先で机を叩いた。


「ん。内容は一緒だとしてもさ、変換の癖とかそういうのが出るって話なんだけどね。例えばさ、お前『できごと』ってどう書く?」

「え? ひらがな」

「なんでそれを選んだの」

「あー、漢字だと字面が重たくなるから、とか、だな」


 そういうことだよと嬉し気に波川が続けた。一方的に納得されてもこちらはあまりぴんと来ない。

 波川は右目だけをやけに細めた非対称な表情で口を開いた。


「そういう感覚はさ、平枝個人のものだってこと。勿論当て字をやたらと使うのはよくないとか常用漢字表が基準にするのが書類の基本とかそういう知識もあるだろうけど、今回の原稿はそういうのないんだろ」


 頷く。好きにやってくれていいと言ったのは納井先輩だ。


「漢字の使用率とか、候補が複数ある中でどの字を使うかとか。そういうあたりって、結構個人で差が出ると思うんだよね、俺は」


 少しだけ波川が頭を下げる。俺の目を下から覗き込むようにして、続けた。


「それこそさ、できごとの例を引っ張るけど。知識の有無とかこれまでの経験──お前なら入力バイトがまさにどんぴしゃなわけだけど──みたいなさ、個人の構成要素って基本的に被んないじゃん。一分一秒一瞬一刻、乱暴に言っちゃえば全員違う世界を見続けているわけだから」

「そんなに差があるのか」

「全部同じって方が無茶があるだろ、極論二人で映画を見に行ったって座る席が違うんだから。そういう細かな差異が積み重なり続けるんだから、最終的には膨大なことになるだろうよ」


 要は認識って共通できないよなってことなんだよと呟いてから、波川はまた何度か机を指先で叩いた。


「信号機、分かる?」

「馬鹿にしてんのか」

「してない。信号機を文学的かつ簡潔に説明しろって言われたらさ、どうするって話」


 俺の反応を待つように波川は目を細めたままこちらを見ている。

 その目がやけに黒いのは光の加減だろうと思うことにした。


「……進むべき安全なタイミングを、適切かつ一方的に提示する機械」

「ん、そうだな。その表現も通る、と思う。厳密なあれこれはともかく」


 コーヒーを一口啜ってから、波川は続けた。


「お前は『進むべき瞬間を提示するもの』と表現した。だけどここで『止まるべき時期を警告するもの』って俺が表現しても、間違いではないし同じものの話をしている。分かるよな」

「……おう」


 どう反応すべきかが分からない。とりあえず内容は把握したという意志表示を込めて頷いてみせる。


「嘘は言ってない、っていうか両方ある機能だからね。赤が点いたら止まれだし、青が点いたら早く歩けって指示を提示するのが信号機だ。表現した人間がどちらの機能に着目したかの差しかない」

「俺と波川の趣味の差が出た、みたいな理解でいいか」

「すっごく雑に言うとね。俺には信号機が足止めをするものとして印象付けられているのかもしれないし、お前には進むべき合図を教えてくれるものとして受け取られているのかもしれない。その辺の差異はほら、俺とお前のこれまでの人生の違いみたいなもんが少なからず影響しているし、そっちの方が面白い、と俺は思う」


 言いようが迂遠だが、内容としてはどうにか理解できる。

 俺と波川の共通点など、偶然同じ大学を受けて同じ学年になり同じサークルに入ったというだけのことだ。後の諸々など何もかも異なっている。生まれた場所も親の組み合わせも関わってきた人間も違う。精々人間で男だという大雑把な属性ぐらいしか重ねることはできないだろう。

 そんな何もかもが異なる人間が同じ答えを出せるはずがない、という話なのだろう。


「勿論信号機について俺もお前も嘘をついてるわけじゃない。でも、抽出した一面が違う。その一面を選ぶのに当たって、個人の趣味とかそういうのがどうしても反映されてしまうんじゃねえかな、ってこと」


 一度、息継ぎのように短く息を吐いてから、


「だからさ、同じものを認識して書いても、書いた人間出力担当が違えば出てくるものは違うんじゃねえかなっていうのが、俺の主張。どうだろう」

「まあ……そうですね」


 一区切りついたとでも言いたげに、波川が視線を逸らす。普段話している内容とは異なる長話であったせいだろう。どう反応すべきか分からず、咄嗟に出た言葉はよそよそしい敬語だった。

 オリジナリティというと大袈裟だけども、それに類する話ではあるだろう。個々の条件が微妙に異なれば、その微妙な差が累積することで成果物には明確な違いが現れるということか。


「そう考えるとさ、お前のやってる記録っていうのもなかなか責任重大だと思うわけよ」

「責任があると」

「だってさ、今の話を踏まえると『お話』をのは、その文章を書いた人間ってことになるわけだからさ」


 店内の室温は平均的で快適な温度に保たれている。

 それなのに、背を冷え切った手で撫でられたような気がした。


 波川の言っていることは理解できる。情報を入力しても、それを認識し出力する機構の仕様によって得られるものは変化する。赤という単語ひとつでさえ「テーブルクロスに零した紅茶の染み」「沈む寸前の夕日」「精肉売り場の割引シールが貼られた肉」と、幾らでも形容のしようがある。

 対象をどう認識しどう表現することを選ぶかは、およそ個人に依存するのだ。


 その理屈で言うと、ただ打ち込んだだけの俺にも形を与えた責任があると祟られる因縁があると言っているようなものではないか?


 答えるべき内容を思考からうまく掬い上げられず、俺は黙ったまま波川を見つめる。

 波川はいつの間にか空になったらしいカップを骨張った手で弄びながら、


「とりあえずそういう理屈で、俺は楽しみにしてるってこと。頑張んなよ平枝」


 手遅れになる前に提出しとけよ、と添えられた言葉の不吉さにどうにか表情を変えずに済んだ。

 いつもと変わらずにこやかなくせに真意の掴みづらい軽薄な声で言って、波川は心底から愉快そうに目を細めてみせた。

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