照怪:経過報告及び雑談

 テーブルの上に置かれたカップは無機質な照明の下で薄い湯気を立てている。


「進捗報告なんてもの、わざわざしてくれなくてもいいのに」


 唐沢は律義だねえと笑って、納井のい先輩はカップを手に取った。


「あの、先輩。俺平枝ひらえだです」

「……だよなあ。何で俺間違えたんだろうな」


 どこから出てきたんだろうな唐沢、と先輩はカップを手にしたまま首を傾げた。俺もどうにも答えようがなく、黙って視線を落とす。


 進捗報告がしたいと連絡したのが昨日の午後だ。幸いにも先輩に特に予定はなかったらしく、俺の講義終わりに合わせて適当な場所で落ち合おうということで話がついたのが今朝のことだ。平日水曜の夕方というファミレスにも飲み屋にも微妙な時間帯であることを鑑みて、最寄り駅の駅ビル内で営業しているコーヒーチェーンを会場に選んだのがつい先ほどだ。


 さほど混んでもいない店内で、適当なテーブルを選んで座る。

 報告内容というと仰々しいが、要は打ち込みの実作業中に発生した問題への対処法の確認がしたいだけのことだ。問題もそこまで大したものではない。

 名前を名乗っていない話の存在、名前の変換が分からない場合の対応、とりあえず十話──およそ三割は打ち込みテキストデータへの書き起こしが完了したということ。この三つだ。

 電話で済むと言われたらその通りだが、何となく音声だけでこの話を済ませるのが躊躇われたせいもある。メールで打てば跡が残るがそれも面倒だった。

 対面で、できる限り人の多い場所で話したいと思ったのは、扱っているのが怪談だからかもしれない。勿論そんなことは先輩には伝えていない。必要ないというのもあるし、何より馬鹿にされるのが目に見えている。


 納井先輩は俺の報告を一通り聞いてから、にこやかな顔をこちらに向けた。


「意外と順調じゃん。もう三割終わってんなら楽勝でしょ。仕事が早いのって最高」

「ありがとうございます」

「で、問題点ってことで報告してくれたのはあれだな、とりあえずはそのまま打ち込んでくれていいよ。どうせ校正とか編集とかで読み直すだろうし」

「不明なのも今のところサカイ先輩だけですけどね。心当たりとかあります?」

「俺は知らない。けど例会顔出さずに入会届だけ出してるタイプも結構いるし、逆に例会に顔出すけど入会届出してないやつもいるし、個人的な友人とかだったら尚更会う機会なんかないしな」


 納井先輩も顔が広い方ではあるが、全員と面識があるというわけでもない。酒井先輩とやらも宮塚の言葉を借りれば『結構レアい感じ』の先輩なのだろうから、それならば把握していないのも仕方がないのかもしれない。


「名乗ってないやつはさ、テキストのタイトルに名称不明ってことが分かるようにしといてくれればいいよ。こっちで勝手に書くから」

「確認とか取らなくっていいんですか」

「いいよ名無しは名無しで。先に言ったのに言わないやつが悪いから……適当な仮名つけるって宣言してるしね。それはほら、うちのサークルの伝統みたいなもんだから」


 学生らしい悪ふざけの類だろうが嫌な伝統ではあるだろう。勝手に名前を付けられるのはそれなりの嫌がらせだ。自分というものに別の表皮テクスチャを貼られるような所業だと思う。

 ともあれ俺には関係がないので、名乗らなかったやつの不運を僅かばかり憐れむ程度の興味しかない。

 冷房の中でもまだ冷めずにいるカップを手で覆いながら、俺は口を開いた。


「参加者の名簿とかないんですか。あったら俺の方である程度どうにかしますけど」

「ないよ。飛び入り歓迎だし、そもそも飲み会の余興みたいなもんだから……合宿の参加者名簿なら井坂さんに頼めば出せると思うけど、そこからより分けるのは無理だし、一瞬だけ来たOBさんとか地元の人とかだったら全然分かんない」


 そんなに管理が雑でいいのかと思うが、所詮学生サークルにそこまでのものを求めるのも酷だろうと思い至る。そもそも大学生の合宿に紛れ込もうとするやつもいるとは思えない。意味が無さ過ぎる。

 大学生の合宿、たかだかその程度だ。だが、設立してからそれなりに年数が経っている。どんなものでも長く続けば、何かしらの伝統じみたものは生まれる。

 何となく引っかかるものがあり、浮かんだ言葉をそのまま口に出した。


「長いんですか」

「何が。主語も何にもないとさすがに分かんないぞ」

「あー……怪談会の歴史が、です。久野先輩が喋ってたので」


 久野先輩の語りの内容が、怪談会にまつわる話から始まっていたことを思い出す。久野先輩自身がどうもからかわれていたような節があったため有耶無耶になったが、この怪談会がどういうものかという解説じみた内容を話していたはずだ。

 納井先輩はカップを手にしたまま目を見開いた。


「久野さんそんな話してたの?」

「聞いてなかったんですか」

「俺前半は結構出入りしてたんだよね。飲みもん取りに行ったり、随時面子集めたりとか」


 前半あんまり聞けてないんだよな──と、生白い顎を擦りながら先輩は続けた。


「まあね、長年やってるよ。ただ最近はその場で語ってそれきりって話だったから、勿体ないなって」

「なんか禁じ手らしいじゃないですか」

「そうだっけ?」

「久野先輩が言ってましたよ。記録すると変なことが起きるから、みたいな。だから撮影も録音もしなかったって」

「ああそれ。そういうの言う人もいたけど、そんなに信じてないんだよね俺」


 予想もしない言葉が返ってきた。

 思わず先輩の顔を凝視する。先輩は怪訝そうにこちらを見返して、口を開いた。


「そりゃ記録が途絶えてるっていうか、テープとか冊子とかで残ってないのは事実だけどさ。サークル活動と直接関係ないから重要度低いせいでしょ、そんなの。うち天文研サークルだし」

「伝統ある怪談会の記録を始末するってあるんですか」

「伝統あっても記録するかどうかは別でしょ。記録だって、一旦どっかで面倒になってそのまま何となく止めるってのも普通にあると思うけどね。観測班だってそんな感じでうやむやになった観測記録結構あるよ」

 

 久野さんは何て言ってたの、と先輩が問うた。

 

「すごく端折るんですけど、記録したらよくないことが起こって怖かったからみたいなことを」

「あー、俺が飲み会とかで聞いたのと一緒か。そこからちょっと疑っちゃうんだよな。だってそういう怪奇現象の記録も何にも残ってないから……先輩やOBさんたちがからかってんじゃないかなって思ってる」


 無茶苦茶を言っている。だが、納井先輩の物言いにも納得できる部分はある。

 被害があったがために禁止されたとして、その被害についての記録が抹消されてしまえば、そもそも被害の存在自体が曖昧になってしまうのだ。

 久野先輩が言っていた通り、諸共なかったことにされたのであればその証明は難しい。痕跡が残らない程に消し去るのが目的だったとしたなら尚更だろう。忘れるべくして忘れられたものが伝わっていないのは当然のことだ。


 忌まわしいからこそ遠ざけられ、その存在を忘れ去るように努める。

 不吉な事象に対しての反応としては当然であり適切だろう。触らぬ神に祟りなしという言葉もある。厄介ごとの存在そのものを知覚させずにおけば、興味を持たずに済む。悲劇を未然に防ぐには有効だろう。

 だが。

 祟りを忘れ、存在を忘れた──だからこそ、意図せず異物に触れてしまう者もいるのではないだろうか。


「どうした。真顔だな」

「いや……祟りとかあったら嫌だなって」

「あるわけないだろ」


 先輩は一瞬の躊躇すらなく言い切った。


「断言しましたね」

「そもそもあったら嫌だろ。じゃあないって言っといた方がいいじゃん」

「あるんですか」

「分からん。つうか、その辺証明すんの無理だろ。ある証明もできないけど、ない証明だって当然できないもの」


 先輩は僅かに目を伏せてカップに口を着ける。

 耳元のピアスに店の照明が跳ねて光る。シャツの色も夏らしい淡いブルーで、今日は比較的地味な格好をしているのだなとどうでもいいことを思った。


 先輩の主張も分からなくはない。というか、俺自身も馬鹿にできるような立場にいない。

 因果関係が見えにくいのか、そもそも存在しないのか、観測者俺たちの知覚し得ない位置で存在しているのか。

 結果としては同じことだ。理解できない以上は存在しない。例え明確な因果や関係が発生していたとしても、それが俺たちの手に負えない以上は意味がないのと同義だろう。


「祟りのあるなしは一旦置いといてさ。もうちょっと情緒とか信仰っぽい方向になるけど、プロのあれこれならともかく、大学サークルの素人怪談で祟るほどのことが起きると思う?」

「そりゃあ、まあ……あれですか、素人に髪切らせてもすごい髪型になるだけみたいな話ですか」

「大体そういうやつ。それに、あったとしても俺元気だし。合宿から半月経ってこれってことは遅いじゃん」

「書き起こしてる俺は現在進行形なんですけど」

「お前が祟られるのはないでしょ。ただ聞いたもんを書いてるだけなんだから」


 過失の割合は小さいんじゃないのと雑なことを言って、先輩は細めた右目で俺を見た。


「まあ、もし何かあったらそんときは俺も巻き添えだろ」

「そういうもんですか」

「あれだ、使用者責任みたいなやつ。たかが書き起こしのお前に来るなら、俺なんか立案者で参加者だぞ。まず俺だろ、やられんなら」


 ひらりと骨張った手が振られる。何かを払うような、招くような仕草だと思った。


「大丈夫だって。お前に何かあったら、付き合ってやるから。最初に言ったろ。一蓮托生だって」


 仕事振った責任くらいは取るよと言って、納井先輩はにんまりと笑った。


 俺はひっそりと息を吐く。とりあえず方針は決まったといっていいだろう。当面俺のすることは変わらない。音声を聞いて、テキストを出力する。引き受けたからには成果を出すべきだ。

 先輩の言う通り、ただの作業者に過ぎない俺に何事かが起きるような事態になれば、恐らくは先輩も無事ではいられまい。祟りを為すような連中にもそのくらいの分別はあってほしい。


 一人で穴に落ちるのは恨めしいし恐ろしい。だが、道連れがいるならまだマシだ。


 ようやく自分の手と同じ程度の温かさになったカップに口を着けながら、そんなことを思う。

 納井先輩は俺の心中など知らないように、スマホの画面をじっと睨んでいる。

 その耳元に穿たれたピアスがまた店の灯りに安い刃物のように光り、俺はゆっくりと目を逸らした。

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