自怪:状況についての自問自答

 テキストを書き終え、ファイルを保存する。区切りのように丸めていた背を伸ばせば、肩や首の関節が予想より派手な音を立てた。


 三割くらいは終わっただろうか。ファイル内に保存されたテキストデータを眺めながら、納井先輩から伝えられた前提──大体三十話という適当な物言いとあまり変わらないメールの文面──を思い返す。とりあえず手を付けてみたが、思ったより手間がかからないというのが感想だ。一話が五分程度だという分量のせいもあるだろう。ここから大長編の長話が来ない限りは、約束の期日年末の忘年会までには余裕を持って終われそうだ。

 それでも今後不慮の事故や予想外の事態に巻き込まれてしまえば作業時間が確保できるとは限らない。気分が乗るかどうかと課題の状況次第になるだろうから進められるときに進めておくのがいいのだろう。

 小物なので受けている仕事があるとそちらに意識を取られ続けてしまう。普段印刷所から請けているの内職のようにテストの問題やアンケートの回答なら別にいいだろうが、怪談のことをずっと考えているというのも不健康だろう。何より縁起が悪い気がする。

 噂をすれば影がさすということわざがある。人間相手を想定されたであろう文句が果たして怪談にも適用されるかどうかは不明ではある。だが、考え続けることで実現されるという前向きな文言が現状に反映されるととても困るのも事実だ。


 手元のマグを呷って、いつの間にか飲み切っていたことに気づく。


 順調ではあるが、それはそれとして問題は発生している。名乗っていないやつと知らない先輩の存在についての二点だ。聞いた内容をほぼベタ打ちでいいということではあったが、それでも引き受けた以上は最低限の体裁は整えるべきだろう。

 そうは言ってもそれぞれ一話だけだから、全てまとめて出してから確認を取ってもいいだろう。

 一つ目が酒井サカイ先輩の存在だ。変換候補がそこそこあるので、暫定的に一番最初に出てきたものを当ててはいるが、正しいかどうかの保証がない。

 宮塚の話の内容的にはサークルの先輩らしいと予想はできたが、飲み会ぐらいにしか参加しない幽霊部員であるところの俺には思い当たる顔がない。精々が宮塚の語った内容から推察される、派手な衣服に耳元だけはじゃらじゃらと飾り立てたのっぺらぼうの証明写真じみた絵だけが脳裏に貼りついている。先輩と敬称がついているのだから年上だろう。ともかく該当する漢字が不明だということだけだ。サークルに関係のない人間だったらそれこそカタカナでも漢字でも良かったが、身内サークル員だとしたら正しい氏名を表記する必要がある。

 世の中何が理由で恨まれるか分かったものではない。小学校のときに学校文集で『齊藤』を『齋藤』と記載されたことで自分の存在が軽んじられたと教室の窓ガラスを割り暴れ回ったやつがいた。そんな過激なやつは滅多にいないと分かってはいるが、叩き割られ無惨に砕けたガラスにぎらぎらと照っていた冬の日射しの強さは未だに俺の記憶の中に鮮やかに焼き付いている。


 名乗りがない話も問題ではあるが、対処はさほど手間でもない。それこそデータの名称に注釈でもつけておけばいい。宣言通りに井坂先輩が張り切ってひどい名前をつけてくれるはずだろうから、それを後から挿入して終わりだ。その場の連中への呼びかけからして、およその学年は推察できるがそこまで俺が頭を使う義理もないだろう。

 ただ、この話を語る人間に俺は全く心当たりがない。その点については多少の引っ掛かりがある。

 何度か繰り返して声を聴いているものの顔が思い浮かばない。ぼんやりと思い当たるものさえない。ただ人らしい背丈と形だけを整えた影法師じみた灰色のものが浮かぶばかりだ。


 外見の不確かさに反するように、その声には奇妙な気配があった。


 低い、端に僅かな荒れの滲むくせに妙な甘さがある。忘れ難いようでいて、聞いて五分もすると思い出せなくなるような、そんな妙な声だった。


 覚えのない声が紛れ込む──現象だけなら怪談じみたものなのかもしれないと、ふとそんなことを思った。

 心霊番組の恐怖映像ではありふれた演出だろう。それだって一瞬か一言で違和感を見せるのが主であり、五分以上もべらべらと喋り続ける怪奇現象などあるわけがない。怪異の分際でそこらの口下手より語りが上手いとあっては生身の人間の立つ瀬がない。


 PCの画面に目を向ける。

 開かれたままのフォルダ内にはテキストデータが並ぶ。タイトルと更新日時が書かれただけのただのデジタルデータであり、それは納井先輩から送られてきた音声データも同じことだ。内容にほぼ差異はない。情報の記録及び出力形式が異なるだけでしかない。

 たかが文字列に不安感を覚えるのは自分が内容を知っているからであり、つまるところ先入観と思い込みの結果でしかない。

 体験者ならばともかく、俺はただの記録者でしかない。語られた怪談を音声から文字へと変換するだけの機関であり、当事者ですらないのだ。

 だから。

 打ち込む文字が連なってどのような怪異を語ろうと、それに対して何の責も関係も持ちえない。俺の立ち位置はそういうものであるはずだ。


 つまり俺がこのテキストや記憶に残る話の輪郭や耳に纏わりつく声の残滓にぼんやりとした不安を感じているのは、そういうもの怪談或いは与太話に長く触れたせいでしかなく、そこに特段の意味や因果は存在しない。たまたま点けたテレビで放送されていた心霊特番をただ眺めていただけの視聴者と同じでしかない、傍観者でしかないのだから、無闇に怖がる権利すらないだろう。


 始めたばかりでこの状態というのも我ながら呆れるが、怪談としては質がいいということの証明だろう。天文研というサークルで扱うべきかどうかは疑問が残るが、部誌の一コーナーとしては十分過ぎる予感さえする。この手のものがまだしばらく続くと思うと少しばかり不安が浮かぶが、大学生にもなって正面からおばけを怖がるほど臆病ではないはずだという自負もある。流行りもの以外で積極的にホラーに触れたことがないので、娯楽としての恐怖との付き合い方の間合いが上手く分かっていないのだ。

 どのみち請けた仕事ならば、早く仕上げて叱られることはあるまい。早めに納品して約束通り先輩から食事なりなんなりの報酬を受け取るのが精神衛生上にもいいだろう。締切りより早めに上がったのなら、多少の無理も通してもらいたい。一升瓶に加えてクラフトビールの詰め合わせでも頼んでみようか。


 とりあえずは進捗と確認も兼ねて、打ち合わせをしておくべきだろう。問題点の共有も報酬の交渉もその時にやればいい話だ。

 餌を目の前にぶら下げて、PCの時刻表示に目を向ける。まだ夜の八時を回ったばかりだ。明日は土曜日なので、遅くまで起きていても問題はない。少しくらい根を詰めてもいいだろう。急ぐ予定がないとはいえ、進められるときに進めておくに越したことはない。

 俺は手元のマグカップが空になっているのに気づき、珈琲を淹れようと立ち上がる。


『それこそ記録してなんぼってところ、あるからね』


 ふと脳裏を過った曖昧な声に足を止めるが、それ以上は当然のように何もない。 

 続きの作業は何か勢いのある曲でも流そう、そうすればこの耳に纏わりつく声も押し流せるはずだ──そう安直なことを考えて、俺はPCに背を向けた。

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