第94話 涙の後に、もう一度

 だるまと総国の試合の後、リングの整備等も兼ねてしばしの休憩を挟む事となった。


 そこからの有仁子さんの手際は流石の一言に尽きた。


 休憩開始のアナウンスと同時に大量の缶ビールやつまみ、軽食の類いを満載した移動販売の台車が何台も会場内に現れ、有仁子さんの下僕達が総出で一斉に商売を始めたのだ。


 これはもう確実に準備されていた事は疑いようもなく、我々が休憩を拒否することなど端から頭になかったとしか言い様のない周到さと品物の数であった。


 休憩は20分程度との事だ。

 その短時間で幾ら稼ぐのか興味深いところだが、私にはこの限られた時間でやらなければならない事があった。



 私は有仁子さんの下僕に案内を頼み、総国の控え室にやって来た。

 先述の『やらなければならない事』の為だ。


 控室へと続く廊下の手前で有仁子さんの下僕は「あちらになります」と言い、一礼して下がっていった。


「……お気遣い、痛み入る」

 下僕がここで去ったのは恐らく有仁子さんの計らいだろう。

 やはり、彼女は商売人としても人間としても才媛だ。

 私は有仁子さんの気遣いに感謝した。



 私は一旦呼吸を整え、気持ちを落ち着けてから控室の安っぽい扉をノックした。 


「私だ、総国」 

 彼の応答までに僅かな時間があったが、

「……開いてるよ」

 との事なので、遠慮なくドアを開けた。

 部屋に居るのは総国だけだった。


 突然の訪問だったが総国は特に慌てる様子もなく、拳にバンテージを巻きながらいつものように安っぽい突っ込みを入れてきた。

「お前なぁ、試合直前に対戦相手のところに来る奴があるか? 緊張感のない……」


 彼の言う事も尤もだが、私はそれを笑い飛ばした。

「ははは、緊張するような間柄でもなかろうて。お前だってそうだろう、総国」

「俺は緊張してるよ。お前は強いからな」

「フフ、ご謙遜」


 私は総国のおべんちゃらを鼻で笑い飛ばし、近くにあったパイプ椅子に腰を下ろした。


「先程の試合、実に見事な戦いぶりだった。お前の金山がよもや此処までの物とは。正直に言って脱帽だよ」

 私はお世辞など言わないたちだ。

 総国が私の賛辞をどのように受け取ったのかは分からないが、彼はただ一言『それはどうも』と軽口の様に答えた。


「しかしお前も中々のひねくれ者だな、総国」

「何がだ?」

「お前が撲真流を選んだのは愛子へのアピールだ。だるま相手にわざわざ打撃に特化した流儀を選択することもないだろう。関節技や寝技主体の武術を選べばもっと楽に勝てた。だが、お前は敢えて不利とも思える殴り合いをあのだるま相手に挑み、圧勝した。お陰様でさっきから身体が火照って仕方がない。愛子も同じ気持ちだろうて」


 私が自分の身を抱くようにしておどけると、総国は微かに笑った。

「いや、だるまクンは試合開始からずっと寝技を警戒していたからな。だからその裏をかいてやっただけだよ」

「ふふふ。嘘が下手だなぁ」

「嘘じゃない」

「だとしても半分は嘘だ。お前がどう考えていようとも、愛子へは伝わったよ。伝わってしまうんだよ」


 私は一寸間を置き、パイプ椅子から立ち上がって総国に歩み寄った。

 その一寸の間……自分でも感じていたこのもどかしい感情は、嫉妬ジェラシーだ。


「総国。私は甲賀のしのびである以前に、ひとりの武芸者だ」

「……?」

 何の話かと総国が小首を傾げたが、私は構わず背筋を伸ばし、ゆっくりと、確かめるように彼を見つめた。


「だから逃げも隠れもしない。正々堂々と、真正面から……」

 そして総国の正面に立ち、その細いようで逞しい頬を両手で包み込むようにして引き寄せ、彼の唇を奪った。


 一瞬だ。


 閃光のような一瞬。


 そんな一瞬の、まばたきのような接吻キス


 総国は事が済んだ後にようやく私のくちづけを認識したようだ。

 まだまだ修行が足らんな。


 だが、そんな一瞬では物足らないと感じてしまう私も、まだまだ未熟者だ。


「何故か、と問うなよ総国。これはけじめだ」

「けじめ……?」

 私の感触が残っているのか、彼は戸惑うように唇を震わせ、同じ様に戸惑う視線を私に向けていた。

「そうだ、けじめだ。これが最後になるだろうからな」

「最後って、お前……」

「この期に及んで四の五の言うな、総国!」


 私が一喝すると、彼は全てを悟った様に神妙な面持ちで私の二の句を待った。


「……前にも話したが、私と恋子は愛子の一部だ。我々は三人で一人。だが、それは愛子の将来の為には障害にしかならない。猿飛愛子は世界で唯一人でなければならない。私も恋子も、その結論に相違無い。そして愛子も逃げてはいけない。そのためには総国、お前の力が必要なのだ。分かるか総国。いや、分かってくれ総国。」


 総国はもう何も言わなかった。

 何も言わず、一度だけ頷いてみせた。


 私はそれを了解の意思と受け取り、安堵した。

 その安堵故か、気持ちが緩んだが、気が付くと私は彼にこの小さな身体を寄せていた。


 彼はそれを受け止めるだけで、抱き締めてはくれなかったが、私にはそれで十分だった。


 これは私の希望だったのだ。

 せめてこれだけは。これぐらいは、という希望だったのだ。


 その時初めて、私は自分の気持ちに正直になることが出来た。


総国おまえに出逢えて良かった。楽しかったぞ総国。……ありがとう」


 それだけ告げると私は弾むように彼の胸から離れ、出来るだけ可憐に笑んでみせた。

「では。さらばだ、総国」

 総国は何かを言いかけたが、私はそれを待たずに控室を後にした。



 これでいい。

 これが最善なのだ。


 ああ、視界が滲む。


 鼻の奥が熱い。

 息が詰まる。


 肩が震え、瞳から溢れる涙がゆらゆらと揺れている。


 一体いつ以来だ?

 こんなに切ない涙は。


「……恋子の事を、言えないなぁ」

 可愛く笑えていただろうか、なんてまるで生娘の様な心配をしてしまう。


 だが、今はそんなことを考えていてはいけないんだ。

 そのためのけじめだ。

 その勇気を、私は総国から貰ったのだ。


 私は深く息を吸い込み、腹まで落として大きく吐き出した。

 そして胸を張り、吠えた。

「……いざ!」


 すべての迷いを振り払い、覚悟の一歩を踏み出したその瞬間。

 その一歩は私のものだけではなかった。

「……恋子」

 隣には恋子が居た。

 そしてもう片方の隣には……

「……愛子」

 愛子が居た。



「……さあ、行こう。愛子、恋子!」


 私は上を向いた。

 この涙、零すまいと。


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