第95話 この夜を忘れない

 ……前回まで乱子がに代わって司会進行をしていたそうだが、妙な事を口走ったりしてはいなかっただろうか。

 色んな意味で心配は尽きないが読者諸兄よ、今回からは再び俺が物語を進めていくので安心してくれ。


では、早速。



『金山』……正確には、正調せいちょう金沼流かなぬまりゅう兵法金山へいほうきんざんと称する、金沼家代々家伝の流儀だ。

 洋の東西、そして新故しんこを問わず、様々な武術を自由自在に操る金沼の秘奥。まだまだ極めるには程遠い、この得難き武。


『未熟な金山はその価値を損なう恐れあり』として、師である父からみだりな使用を禁じられていたが、もし、万が一にも使用するのであればその名に恥じぬものとせよと常日頃から父に言い聞かされてきた。


 だるまクンと戦うのなら撲真流だと以前から決めていたし、勝負の運びも大体予想できていた。実際、理想的な勝利を納めることが出来たので父の教えは守ることが出来たであろうが、猿飛相手にはどうだろうか。


 俺はバンテージを巻き終えた拳を検め、問題がない事を確認。

 傍らに畳んで置いておいた、犬飼に用意してもらった道着に袖を通した。


 この道着は俺が錬成道場へ出入りしていた頃のもので、一般的な空手等に使うものと同様のモノだ。

 当時はサイズ的にも大きかったが、今着ると丁度良い着心地だった。


 俺は道着と一緒に用意されていた黒い帯を腰に巻き、上から思いきり叩いた。

 下腹を叩きつける様にして、気合を入れたのだ。

 パァン! という乾いた音が控室に木霊した。



 打、投、極………猿飛はそのどれもに秀でたウェルラウンダーだ。

 俺の持ち得る金山でどこまでやれるか。

 果たして勝てるか………。


 いや、勝たなくてはいけないのだ。


 俺の脳裏をよぎる、恋子の見せた儚げな顔。

 乱子が見せる、自信に満ちた微笑。

 愛子が時折見せる、困ったような笑顔。

「猿飛………」

 俺は彼女達を想った。

 そして拳に力をめ、控え室を後にした。




 ざわっ。



 俺が控室から一直線に延びる長い廊下を経て会場の選手出入り口に着いた瞬間、本当に音に聞こえてざわめきを感じた。


 まだ俺は会場内に姿を現した訳では無い。

 その扉の外側だ。


 聞こえたざわめきは、人の心から聞こえてくる雑音ノイズだ。

 言い換えるのなら、それは胸騒ぎと表現出来るだろう。


 それとほぼ同時に、会場内にブザーの音が響き渡るのが扉の外からでもよく聞こえた。

 この音が『合図』であると、有仁子からはそう聞いている。

 約束の時がやってきたのだ。


 俺が顔を上げると、まるでそれを持っていたかのように分厚い扉が開かれた。


 瞬間、会場内から差し込んでくる眩い光に目が眩んだ。

 そして歓声の大きさに息を飲んだ。

 俺は眩しさに耐え、目を細めて前を見る。


 その頼りない瞳に飛び込んできたのは金網の外されたリングと、そのリングに立っている小さな……猿。


 その猿は、ジャージを着た『猿のお面を被った小柄な人物』だった。

 は、リングで俺を待っていたのだ。


 瞬間、ここでそのを初めて見た時の事がフラッシュバックした。



「……猿飛」

 この距離では、絶対に聞こえまい。

 それでも、俺がその名を呼ぶとリングの上の小さな猿は、こちらを見た。

 同時に、俺はリングへ向けて歩き始めた。


 ゆっくりと、だけど確実に縮まってゆく距離。


 次第に大きさを増してゆく歓声が心地よかった。


 今、この場この時この瞬間は、俺と猿飛だけの特別な時空だと感じた。


 歓声、拍手、口笛、足踏み……様々な音は空気を震わせて会場をびりびりと振動させた。


 花道を征く途中、視界の端に犬飼と鳥山婦長、それに有仁子の姿が見えた。

 あまりに視線が熱いので俺が婦長へと目をやると、彼女は立ち上がり深く頭を下げた。


 ……謝罪?

 まさか。


 俺は託されたのだ。

 それは希望だ。

 或いは、夢。


 だから俺は頷いて見せた。

 任せてくれ、と。



 俺達がリングの中央で向かい合うと、賭けのオッズが確定したようだ。

 観客の反応からするとかなりの金額が動くようだが、最早そんなことはどうでもいい。

 そんなことよりも、俺は彼女に会いたかったのだ。


「……顔、見せてくれよ」

 俺が言うと、彼女は躊躇うように、目線を逸らす様に俯くだけで俺の要求には応えてくれなかった。

 だから俺は一歩前へ出た。

 そしてもう一歩。

 そうすれば、彼女に手が届くから。


「……いいよな?」

「……」

 それに対する答えは沈黙。

 俺はそれを同意とみなした。


 だから俺はそのお面の端をつまんで、そのままゆっくり持ち上げるようにして……。


 彼女に会っていない時間なんて、ほんの数日だ。

 だけど、俺にとってはその何倍、何十倍にも感じる時間。

 だから本当に久しぶりに、俺はその顔を見た気がした。


 栗色のショートカット。

 小柄な体格に見合った小さな顔。

 ぱっちりと愛らしい瞳は既に潤んでいて、子供のように柔らかそうな頬は上気していた。


 そこにいたのは恋子でもなく、乱子でもない。

 そこには、猿飛愛子がいた。

 いてくれたのだ。


「……久しぶりだな」

 この瞬間のために用意していた言葉はいくつもあるが、結局こんな冴えない言葉が口をつくとは我ながら自分が情けない。

 だが、彼女はただ一言「うん」と、頷いてくれた。


 ああ、猿飛だ。

 彼女は、間違いなく猿飛愛子だった。


 彼女は何かを我慢するように下唇をきゅっと嚙み、頬を赤らめ瞳を潤ませている。

 余計な言葉を発さず、ただ呼吸を整える様にしつつも、その息の乱れは隠しきれていない。


 上目遣いで俺を見つめる猿飛。

 時折漂わせる視線が妙に色っぽい。

 俺は率直に、彼女を可愛いと感じた。 


 いや、感じていたのだ。

 最初から。



「金沼くん……」

 小さな口から必死に紡いだような声が、切ないくらいに俺の心の琴線を爪弾つまびいた。

「猿飛……」

 俺が応えると、彼女は心の高ぶりを隠し切れなかったようで、

「もう、わたし……」

 口端から零れ落ちそうな声と、蕩けた瞳で俺を見た。


 そんな瞳で見つめられたら、俺のほうがもう無理だ。

 我慢なんかできるものか。


「やるか?」

「うん!」


 直後――いや、ほぼ同時といっても差支えのない絶妙のタイミングだ。

 そんな瞬間と瞬間の間をくタイミングで、俺の横っ面で乾いた音が鳴り響いた!


『『『ッパアン!!』』』


 鞭が地面を叩くが如く鳴り響いたその音は、猿飛のハイキックが俺の防御ガードにぶち当たった音だ。


 相変わらず凄まじい速度と威力だ。

 備えていなければ反応できなかっただろう。いや、わかっていたから反応できたのだ。

 猿飛は見ればわかるほどに興奮していた。

 それがすべての答えである。


 彼女は我慢の限界を超えた限界で俺を待っていてくれたのだ。

 この俺を好敵手と認め、俺に期待し、興奮してくれたのだ。

 身に余る光栄だ!


「――有仁子ッ!!」

 俺が絶叫すると、有仁子はそれだけで察したようで即座にゴングを打ち鳴らした。



 破裂したように湧き上がる歓声の中、ついに俺たちの最終決戦が始まったのだった。


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