第83話 絆の最果て
これは一体感によく似た感覚である。
あるひとつの事柄を皆で共有する集団心理と言えば良いのだろうか。
途轍もないものを目撃している、という優越感もあるだろう。
今夜の強敵之会会場はここだけが飛び切りの特別な世界、という錯覚を皆が覚えるほどに盛り上がっていた。
地下の闘技場の歓声が地上に届かんばかりの熱を帯び、観客の興奮は酩酊ですらある。
今夜ばかりは、俺もその他大勢の観客のひとりに過ぎない。
何故ならば、主役はこの『渦』の中心に立つ『親子』なのだから。
「そうこなくっちゃ。鳥山さん」
恋子はこの勝負を心底楽しんでいた。
「稽古は怠っていないようだな凛子、偉いぞ」
乱子は満足そうに、この戦いを噛み締めている。
当然の様に、婦長も艶のある笑みを浮かべていた。
「楽しまなきゃ損ね。こんな楽しい相手はそうそういないだろうから」
鳥山婦長はそう呟くと、構えをやや前方へと向けた。
……打ち合う気か?
俺は、観客達は、会場の全員が、さらなる饗宴に期待して息を飲んだ。
会場に渦を巻く熱気が、まるで陽炎の様に風景を歪ませる。
その熱気の中心で、婦長はぽつりと呟いた。
「……愛子は?」
婦長が問うと、乱子が答えた。
「寝た子を起こすのは親の役目だろう、凛子」
そう返された婦長の瞳に一瞬影が差した様に見えた
「そうね」
だが、それもほんの一瞬。
婦長は大きく息を吸い、叫んだ。
「起きなさい、愛子! 起きて来なさいい!!」
やはり突っ込む気だ。
それも正面から!
その迅速で正確な重心移動は彼女の右足へと即座に伝わる。
あの挙動は………ハイキック!
だが、乱子は甘くない。
婦長渾身のハイキックを寸前で躱した乱子……のカウンターパンチを受け流し、投げに繋げる婦長の技……を見切って関節技で更なるカウンターに繋げる恋子……から逃れ際に蹴りを放つ婦長!
流れるように繰り広げられる高度な零距離戦闘に観客は酔いしれ、そして熱狂した。
俺も思わず歓声を上げてこのうねりの一部となっていたのだが、犬飼は違った。
「………総国様!」
苛立ちを隠しもせず、犬飼は柄にもない大声を上げた。
「間違っています! こんな事は……!!」
間違い?
一体何の事か。俺には彼が何を言っているのか全く分からなかった。
「なんだよいきなりうるさいな! 邪魔するなよ!」
俺は犬飼を一瞥して吐き捨て、すぐにリングで行われているドリームマッチに釘付けとなった。
打ち合いは急加速し、リングではアクション映画のワンシーンのような攻防が繰り広げられる。
それにつれて観客のボルテージもどんどん上がって行く。
耳が痛いほどの歓声だ。
その一瞬、
僅かに一瞬。
歓声に谷間があった。
婦長が攻撃を受けたのだ。
まるで破裂音の様な、嫌な音が婦長の左側頭部で炸裂したその一瞬。
婦長が猿飛のハイキックをまともに喰ったのだ。
あの鳥山婦長が、真正面からの打ち合いで相手からのクリーンヒットを喫したのだ。
おおっ! と沸き上がるどよめきにも似た歓声の中、俺の頭は妙に冷静にあり得ない、と呟いていた。
あの婦長が、あり得ない。
しかし、事実である。目の前で現実にそれは起きたのだ。
ぐらり。
婦長が
そして膝から力が消えてしまったようにがくんと崩れ落ち、婦長はリングに両手をついた。
………この試合、初のダウンだった。
何故。
何故だ?
俺は初のダウンに沸く辺りを埋め尽くす熱狂から急激に醒めていく自分を感じていた。
何故? という疑問と疑念が俺の浮わついた足元に絡み付くのだ。
今のハイキック。
軌道もキレも、見事の一言に尽きる。
しかし、雑だ。
大味すぎる。
そこには乱子が放つそれの優美さもなければ、恋子が放つそれの未熟さもない。
あるのは本能のままの自由奔放な……猿飛愛子の放つそれのような、純然たる『
それを、そんなものを、あの手練れ中の手練れである鳥山婦長が真正面から喰うはずがない。
だから、『何故』なのだ。
避けることも捌く事も婦長なら雑作もないあの蹴りを、彼女はまるで受け止めるかのように喰らったのだ。
何故。
そう感じた俺の顔と同じ様な顔を、犬飼もしていた。
しかし、俺達の疑問に満ちた数瞬は直ぐに破られる。
ダウンしたかに見えた婦長。
しかし彼女はリングについた両手を支点に体を支え、完全なダウンを免れていた。
それどころか、その姿勢のまま……そう、まるで相撲の立ち合いの様な格好で猿飛めがけて突進したのだ!
軌道はタックル。
しかし婦長の視点は定まっていない。
先のハイキックは婦長の意識を吹き飛ばしていたが、その意思を
試合はまだ終わっていない。
婦長がそう言っている気がした。
それほどに、今夜の婦長には鬼気迫るものがあったのだ。
その気迫は常軌を逸してさえいた。
「………まさか」
その
「犬飼、もしかして………」
俺は助言を求め、隣に座る犬飼を見やったが、彼の姿はそこにはなかった。
俺が見たのは、有仁子のもとへと向かう彼の後ろ姿だった。
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