第84話 おかえりなさい、さようなら。

 婦長のタックルは突き刺す様に猿飛を捉え、一気に寝技戦へと舞台を移す。


 婦長の視線はいまだ曖昧で、やはり意識が定まらないことは明白だったが、それでも婦長の技は鮮やかだ。


 タックルから素早く関節を捕りにいくが、猿飛もそれを巧みに躱しながら婦長の関節を捕り返しにいく。

 その最終戦に相応しい絶技の応酬は見る者全てを魅了した。


 寝技戦グラウンドならやはり恋子の出番なのだろうが、その激しい動きの中では彼女の表情は窺えない。


 超低空で繰り広げられる新たな攻防に会場は沸いたが、俺は徐々に冷めていく自分を感じていた。


 いや、と言った方が正しいのかもしれない。

 燃えるように熱い身体とは裏腹なこの感覚は不気味そのもので、一種の悪寒に近いものがあった。


 ふと、有仁子の側に立つ犬飼の姿が視界に入った。


 俺はそれを直視出来なかった。

 見慣れた彼の姿をまともに見ていられないのは、何故だ?


 ……わからない。

 なんというか、ぞっとしたのだ。


 思わず視線を逸らしてしまった俺が見る事が出来るのは、もはやリング上で繰り広げられる激しい攻防のみ。

 今はそれしかなかった。



 ……だが、空気が妙だ。

 何かが変わり始めている。


 会場は相変わらずの大歓声だが、どよめきが混ざりはじめていたのだ。


 猿飛の様子がおかしい。


 やはり、『雑』なのだ。

 動きに精細さが全く無い。

 激しく攻め続ける彼女の技に、いつものようなきらめく冴えも無い。


 寝技グラウンドいては乱子も認める恋子の鋭さが、正確さが、今の彼女には無い。

 その変化に、目の肥えた観客は気付き始めていたのだ。


 そんな乱暴にさえ思える攻撃の最中さなか、一瞬だけ彼女の顔が窺えた。


 俺はその表情に息を飲んだ。


 ――違う。

 戦いを楽しむ純粋な『喜び』とは違う表情かおだ。


 その表情からは、楽しさとは違う意味の『興奮』が見てとれた。


「……猿飛!」

 それは本当に、本当に久しぶりに見る、『猿飛愛子』の表情かおだった。


 頬を上気させ、艶のある微笑を浮かべ、興奮を隠そうともせずに、自由奔放に戦うその姿は久しく見ることの出来なかった『彼女』の姿だった。


 激闘の芳香に誘われ、恋子も乱子も押し退けて、ついに愛子が顔を覗かせたのだ。



 しかし、その変化も束の間。

 会場がワッと沸いた。


 婦長が猿飛の背後を捕った!

 そして難攻不落の裸締めが、遂に彼女を捕らえたのだ!!


 僅かな隙を素早くついた鳥山婦長。

 猿飛の背後に回り込み、そのまましがみつくようにして腕を首に回し、猿飛の頸動脈を締め上げる!!



『『『ウオオオオッッッ!!』』』


 歓声に力が入る。

 皆、クライマックスが近い事を肌で感じたのだ。


 しかし、猿飛に苦しそうな素振りはない。

 彼女は完全にハイになっているのか、その状況すら楽しんでいるようだった。


 それはこれまで幾度となく目撃してきた、紛れもない猿飛愛子の戦う風景だった。


 遂に、猿飛愛子が姿を現したのだ。



 突然訪れた決定的な状況に観客は様々な思いを寄せて歓声を上げた。


 ある者は婦長の勝利を信じ、またある者は猿飛の逆転に期待し、そのどちらでもない者は更なる激闘を待ち望んだ。


 俺はそのどれでもなかった。

 怖かったのだ。

 見てはいけないものを……とんでもないものを見ているのではないかと、恐ろしくなっていた。



 婦長は猿飛に体を密着させ、全力でその首を細い腕で締め上げる。

 リングの上で行われる一対一の戦いではよくある光景だ。


 だが、それはだった。


 俺にはもう、これを試合として見ることが出来なかった。


 婦長は泣いていたのだ。

 婦長は、泣きながら猿飛を背後から締め上げていた。


 いや、ちがう。


 違う!!


 婦長は、猿飛を抱きしめていたのだ。


 裸締めは完全に決まっていた。

 だが、いつまで経っても猿飛は落ちない。


 落ちるものか。

 決まるものか。

 数年ぶりに抱きしめた我が子の感触に、婦長は涙していたのだ。

 裸締めは形ばかりで、その実は抱擁だったのだ。


 母親が実の娘を……出来るものか。


 出来るわけが無い!!!



 絶句した。


 俺は自分の過ちにようやく気がついたのだ。

 その瞬間だった。


「すべくにいいいッ!!」


 突然、会場に木霊した怒号。

 何事かと、その場の全ての視線が集中したその先で、有仁子が絶叫していた。


「総国イイイイッッッ!!」

 有仁子は向かいのリングサイドから矢の様に飛んできたかと思うと、問答無用で俺を全力で殴り付けた。


「こンの糞馬鹿愚弟がァ!!!」



 『『『ッ!!!』』』



 殴り飛ばされた俺は後ろに大きく吹っ飛び、他の観客に埋もれる様にして倒れた。


「出来損ないの大馬鹿糞馬鹿野郎ォオ!」


 有仁子は周りの観客を押し退けて倒れた俺の胸ぐらを乱暴に掴んで捻り上げ、わなわなと震えた。


 怒髪天を衝くとはまさにこの事で、有仁子の下品な金髪が陽炎のように揺らめいて見えた。


 俺はいきなりぶん殴られたので避けることも防ぐこともままならず、無様に鼻血を垂れ流して呆然とするしかなかったが、不思議と痛みは感じなかった。

 きっと色々なものが麻痺していたのだろう。


 それより何より、真に呆然としたのは観客たちだったに違いない。

 それまでの熱狂が嘘のようだった。


 そんな、嘘のように静まり返ってしまった会場内に、婦長の嗚咽だけが微かに響いていた。

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