俺の大事な地下闘技場が同じクラスの前の席の女子に荒らされているんだが

第82話 猿飛乱子・恋子 VS 鳥山凛子

『甲賀流・猿飛派』の真髄はその速度にあるという。

　元来、女性向きに組み上げられたその技術体系は、女性特有のしなやかな筋肉の伸びと、それを活かすための速度を十分に発揮出来るように調えられている………と、乱子が言っていたそうだ。

　言っていたそうだというのも、乱子は『総国に伝えといてね』的な感じで恋子に伝言しただけなので特に興味のない恋子も『らしいよ』程度にしか考えておらず、俺も別に教えて欲しいと言ったわけでもないので『ふーんそうなんだ』と聞き流していた。

　しかし、現実にその真髄を目の当たりにすれば嫌でも思い出されるというものだ。

　とは言え、余りに速すぎる。

　まさに瞬（まばた）きと瞬きの間の出来事だ。

　その一瞬、彼女は一体何歩移動したのか。

　そして、いつ攻撃体勢へと移行したのか。

　俺には全く見えなかった。

　突進から踏み込み、その小さな体の中で圧縮されたエネルギーはうねるような全身のバネで上昇へのベクトルを得て右拳へと伝わり、その拳は真上へと解き放たれて婦長の顎を捕らえ、そのまま打ち抜き去った。

　秒という単位よりも細分化された時間感覚の内に完了した起承転結………撃ち抜かれて仰け反った婦長の頭部を見た者の９割以上はその時点でほぼ勝敗は決したと感じたと言う。

　しかし、残りの俺を含めた１割にも満たない人間は違う。

　とてもそんな暢気（のんき）な気分にはなれなかった。

　婦長はその一瞬にも満たない時間の中で、完璧な防御を完了していたからだ。

　まず、婦長は乱子の右拳が届く寸前に顎に掌を添えてそれを緩衝とした。

　そこで打撃力を削ぎ落とした上に衝撃の方向を逸らし、散らしきれなかった破壊力は頭部を脱力して仰け反らせ、霧散させてしまったのだ。

　だから婦長の瞳は打たれた後もずっと乱子を見ていた。

　打たれた時も、打たれてからも、婦長は乱子から意識を離していない。

　それが意味するのはつまり、乱子の攻撃が全く効果を現していないということだ。

　凄まじい反応速度と技術だ。

　乱子の攻撃も婦長の防御も、一流格闘家の水準を優に超えている。

　これが彼女達の修めた『甲賀流・猿飛派』の忍法体術なのか……！

　乱子の初弾が空振りに終わったと同時にふたりの距離はほぼゼロとなり、その視線が衝突した瞬間、今度は乱子が弾き飛ばされる様に後方へと吹っ飛んだ。

　何事かと見れば、婦長は右腕を豪快に振り上げて無防備をさらした乱子に思いきり体当たりをぶちかましたのだ。

　ダメージの散らしようの無い『全面接触 』は衝撃のほぼ全てを乱子へと伝えきり、彼女の小さな体はそれを正面から受け止めざるを得なかったのだ。

　漫画のように吹っ飛び、ゴロゴロと転がった乱子だが即座に起き上がり顔を上げた。

　流石の反応速度だが、彼女の眼前には婦長の足刀が正（まさ）に目と鼻の先に迫っていた。

　鳥山婦長は体当たりで乱子を吹っ飛ばしたと同時に転がる乱子を全力疾走で追いかけ、乱子が顔を上げるタイミングに合わせて中段の足刀蹴りを放っていたのだ。

　十分な加速を上乗せされた容赦の無い顔面蹴り……そんな凶器が、問答無用で乱子の顔面に叩きつけられた！！

　その伸びやかで優雅な蹴りは、まるでバレリーナの跳躍。

　爪先まで滑らかなその麗しき穂先は、狂暴な刃物さながらに研ぎ澄まされた足刀。

　その速度もあって、俺には乱子の顔面が頭部ごと刈り落とされた様に見えた。

　………俺だけじゃない。所々から短い悲鳴が上がっていた。

　悲鳴の原因はふたつ。

　ひとつは婦長の蹴りが乱子の顔面をまともに捉えた事。

　そしてもうひとつは、その蹴りの着弾（インパクト）の瞬間、乱子の頭部が有り得ない動きをしたからだ。

　なんと、彼女の頭部が頚椎を軸にぐるんと一回転したのだ。

　まるで玩具のように、蹴られた力と勢いをそのままに一回転して衝撃を去（い）なし、再びぐるりと元の場所に戻ったのだ。

　そんな動きをすれば、普通は頚椎が捻れて折れるか潰れるか………いずれにしても、笑っていられる状態にはなり得ない。

　しかし、乱子は笑ったのだ。

　実に楽しそうに、嬉しそうに、艶っぽく笑ったのだ。

　これもまた、彼女達の体術なのだろう。

「……お前も笑ったらどうだ、凛子！」

　乱子が叫んだ。

　その表情は、久しぶりに見るあの愉悦（かお）だった。

「っ！？」

　鋭い表情を崩さなかった鳥山婦長の顔が引き攣る。

　渾身の飛び足刀を受け流された事より、その蹴り足をがっちりとホールドされた事に驚異を感じたのだろう。

　そしてその足を捕ったまま、乱子は叫んだ。

「恋子！　出番だ！！」

　瞬間、その顔付きがふっと変わった。

「待ってましたぁ！！」

　生き生きとした活発さが見て取れるその表情（かお）は、恋子のそれだ。

　人格の切替（スイッチ）！！

　彼女達は状況に応じて人格の……いや、流儀（スタイル）の入れ替えを行っているのだ！

　それは鳥山婦長にとっては驚異に他ならない。

　なにせ、二対一の状況と変わらないからだ。

　そんな状況に釘を刺すように、恋子がいたずらっぽく笑った。

「卑怯とか言わないでね！　鳥山さん！！」

　目にも止まらぬ早業とはまさにこの事だ。恋子の体捌きは流石の一言で、瞬く間に鳥山婦長をリングに引きずり込み、膝十字固めを完成――！

「ふふっ」

　一瞬、何事かと戸惑った。

　笑い声？

　誰が笑った？

　今の声は………！

「そうね、あなたの言う通りね！　乱子！！」

　婦長だ。鳥山婦長が笑ったのだ。

　笑ったと同時に恋子と婦長の距離が一気に開いた。

「ッ！！」

　婦長はほぼ決まりかけた膝十字を難無くすり抜け、跳ねるようにして立ち上がりバックステップ。

　恋子と十分な距離を取り、勝負を振り出しに戻したのだ。

『『『おおおおおッッ！！！』』』

　会場は大歓声に沸きに沸いた。

　恋子も『さっすが鳥山婦長っ！』と嬉しそうに笑っていた。

　婦長も笑っていた。

　普段は見ることの無い、たおやかでも淑やかでもない、色っぽい艶笑だった。

　試合開始僅か１分。

　その間の攻防で、誰もがいまだかつて見たことの無い名勝負の予感に震えていた。

　勿論俺もその一人で、恥ずかしながら興奮を抑えきれないでいた。

「おい犬飼！　こんな試合は滅多に見られるものじゃないなぁ！」

　俺は隣にいた犬飼の背中をバンバン叩きながら思わず声を上げたが、犬飼の反応は俺の興奮とは真逆のものだった。

「………そうでしょうか」

「は？　なんだって？？」

　あまりの歓声に犬飼の声が聞き取れなかった。

　だから、彼はもう一度繰り返した。

「本当に、そうでしょうか………」

　余りに弱々しい彼の返事は、会場の大歓声に掻き消されて俺に届くことはなかった。