第36話 愛と恋

 それは金曜の午後の授業中に起きた。


 俺がいつものように真面目に授業を受けているふりをしていると、目の前に座っていた猿飛が突然視界から消えたのだ。


「……っ!?」


 一瞬の思考停止。


『がたん!』と椅子が鳴る音を聞いて、ようやく彼女が椅子から落ちて床に倒れ込んだのだと認識した。


「おい猿飛! どうした!?」

 俺は誰よりも早く猿飛に駆け寄り声を掛けたが、周りの愚民共は何事かと戸惑うばかりで糞の役にも立たない。


(やはり経験の差はこういった場で目に見えるのだな……)


 前にも少し話したかも知れないが、俺は容赦なく厳しい父の指導の元、日本が突如紛争地域になったとしても自力で生き抜いていける程度の様々な訓練を受けている。


 金沼家の嫡男たるもの、その程度は素養と嗜むべし、という父の教え故だ。


 山、海、砂漠等でのサバイバルは当然の事、人命救助の訓練も嫌と言うほど繰り返した。

(特にヒマラヤ山脈での越冬訓練はキツかった……)


 過酷を極めた父との様々な訓練を思い出すと吐きそうになるが、今はそんなことはどうでもいい。

 猿飛は意識を失っている様子だが、呼吸や脈拍に目立った乱れは無かった。命に関わる危険な状態ではなさそうだ。


「先生、猿飛を保健室へ搬送する許可を!」

 俺が申し出ると、教師は何度も頷いた。

「あ、ああ。た、頼む」


 事態は一刻を争う。

 本来は保健委員に引き継ぐのが筋なのだろうが、その保健委員が誰なのか俺は知らない。

 そもそも、この状況で一番に名乗り出ない時点で保健委員としての資質は皆無。

 大切なパートナーをそんな腰抜けに預けられるものか。


 俺は教師の言葉が終わらないうちに教室を飛び出していた。


 授業中なので廊下に人の往来はない。

 俺は全力疾走で保健室を目指すが、その途中で改めて思い知らされた事がある。

(……軽い!)


 猿飛が軽いのだ。

 嘘のように軽い。

 おまけに華奢で、乱暴に扱えば壊れてしまいそうだ。


 女子ってこんなものなのか?

 それとも、猿飛が小柄だからか?

 俺には難解すぎる。


 だが、こんなに頼りない体で浜崎や鬼岩城、そしてあのだるまクンを倒したのは紛れもない事実だ。


 しかし、それは結果論でもある。

 猿飛の強さは本物だが、それはあくまでも変態ブーストあってのこと。

 猿飛そのものは、明らかに普通の女子なのだ。


 少なくとも、この体は戦闘には適さない。

 それなのに、彼女は明日、更なる強者とまみえる……俺は複雑な気分だった。



 初めて入る保健室は思ったより明るく、静かだった。


 俺のイメージでは怠惰な生徒や不良のたまり場的な所なのかなと一寸緊張もしたが、養護教諭はやさしそうな中年女性だったし、不良も仮病の怠け者もここにはいなかった。



「あの、猿飛の容態は……?」

 ベッドに横たえた猿飛を診る養護教諭の横顔に俺は問うた。

「うん、大丈夫。ただの寝不足ね」

「寝不足? じゃあ、猿飛は……」

「寝てるだけよ」


 力が抜けた。道理で呼吸も顔色も普通だったのか。

 俺としたことが、慌てていて大事おおごとだと勘違いしてしまったようだ。


 俺が安堵のため息と共にパイプ椅子に身を預けると、養護教諭は穏やかな笑みで言った。

「受験勉強で疲れているのね。勉強も大事だけど、睡眠も大事なのよ」

「承知しています。猿飛にもよく言っておきます」

「よろしくね。……この子は幸せ者ね。優しい彼氏がいて」



 はて、何の事かと真顔になっていると、養護教諭はあらやだうふふと意味深な笑みを浮かべた。

「その子を大事そうに抱えて、血相変えて飛び込んできたからだと思ったけど、違うの?」

「何を仰っているのか分かりかねますが……違うとは、何が違うのですか?」

「いいのいいの。なんでもないわ。ああ、若いって羨ましいわねぇ」



『彼女の目が覚めるまでいてもいいわよ。担任の先生には伝えておくから』

 そう付け加え、養護教諭は保健室から退出した。これから会議があるそうだ。


 養護教諭不在の保健室って大丈夫なのかどうかわからんが、とりあえずこの部屋には俺と猿飛の二人きりになってしまった。


 すぅ、すぅと規則正しく寝息を立てる猿飛。戦闘時の変態性など微塵も感じない、無垢な寝顔だ。


 ……魔が差したのだろう。

 俺はその寝顔にと思ってしまった。


 まるで陶器で造られた高価な置物のようなその頬に触れてみたい。


 湧いた感情はただ単にそれだけで、下心など微塵もなかった。

 純粋に、彼女を綺麗だと感じたのだ。


 だから俺はごく自然に猿飛に触れるため、右手をすっと彼女の頬に伸ばし――


「総国くん」


 突然、猿飛が囁く様に俺を呼んだ。

 同時に、薄くて暖かいてのひらの感触。

 彼女は頬に触れた俺の右手をしっかりと握り、こちらをじっと見つめていた。


 俺は本気のマジで心停止寸前の心持ちで脇汗だらだらだったが、次の一言で本当に死にそうになってしまった。


「……触りたいの?」


「あ、あの、いや、その」

 文句なしの挙動不審な俺に、猿飛はとどめを刺した。

「えっち」



 バクバクと早鐘を打つ俺のか弱い心臓。


 何か言わなければ何か言わなければ何か言わなければッ!


 と考えている時に限って何も出てこないものだ。

 そうやって二の句に窮していると、猿飛は薄っすらと艶っぽい笑みを浮かべた。

 まるで戦闘中のような、誘うようなあの笑顔だ。


「いいよ、もっと触って。嫌がってないみたいだし」

「……え?」


 理解が追い付かずにただ呆然とする俺を置き去りにして、彼女は続けた。


「あたしはね、恋子れんこだよ。愛子が『愛の子』なら、あたしは『恋の子』。でも、恋だからって『コイコ』はおばあちゃんみたいだから、恋子れんこって呼んでね」


 そう言ってにっこり笑う猿飛は、俺の知っている猿飛とは全く別の印象を感じさせる、猿飛とは別の『誰か』だった。

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