第32話 武の求道者達

 静寂が会場を支配していた。


 誰も声を上げない。


 いや、

 声を上げることが出来ない。

 それを許されないような、そんな光景だったのだ。


 猿飛は茎から萎れた花のようになってしまっただるまクンをじっと見詰めていたが、不意に彼に背を向けて一歩を踏み出した。


 わっ!


 観客席から声が上がった。


 それは猿飛の勝利を祝福する歓声ではなく、突然立ち上がっただるまクンへ向けられたものだった。


 反撃の奇襲か!?

 誰もがそう思ったが、リング上のふたりは動かなかった。


 猿飛はその歩みを止めただけで振り返らない。

 だるまクンも立ち上がっただけで、攻撃をしない。


 ただ、立ち上がっただるまクンの姿は今にも襲いかかりそうな、大きな熊の剥製のようだった。



 歓声は一度だけだった。

 その一度きりの残響が消えた時にようやく猿飛は振り返り、だるまクンと相対あいたいした。


 が、だるまクンはやはり剥製の様に動かない。

 生きているのか死んでいるのかすら分からないが、とにかく猿飛はだるまクンがもう動ける状態ではない事が分かっていたかのような、そんな悠々とした態度だった。



「『地下最強の生物』、か……」

 猿飛は独りごちる様に呟く。

「その渾名あだなは伊達では無いと言う事だな」


 最後の力を振り絞ってだるまクンを正面からじっと見詰めて、彼女は言った。

「敵ながら天晴あっぱれな奴よ」


 ぐらり。


 だるまクンの体がひとりでに揺れた。


 そして、


 だぁん!!


 と、大きな音。


 だるまクンは巨塔が横倒しになるように崩落し、そのままのリングの上に大の字になって倒れたのだ。


「……だるまよ。遊んでくれた礼だ」

 そう言って猿飛はみずから猿のお面を外し、完全に沈黙しただるまクンの顔にそれをそっと乗せた。

には、もう必要無い」



 そして彼女は顔を上げ、背筋を伸ばして胸を張り、右拳を高々と掲げた。

「私の名は猿飛愛子! 今この瞬間から、地下の王者は……この私だッッ!!」


 その行為の示すところは、ただひとつ!



「「「わああああッッッ!!」」」



 文字通り、割れんばかりの大喝采が猿飛の勝利を確たるものにしたのだ。



 かつてこれ程までに強敵之会が盛り上がった事は無い。


 大歓声。大声援。大喝采。

 そんな大袈裟な言葉でも足りない大音声だいおんじょうが、その全てが猿飛を祝福していたのだ。


 まさか、まさかあの体格差を撥ね退けて。

 まさか、まさかあのだるまクンに勝利するなんて。


 誰もが予想し得なかったこの勝利をなんでもない事の様にやってのけた猿飛は、余裕の表情のままリングサイドまで歩を進めた。


 そして行く手を遮る金網を一瞥し、近くに居た有仁子の下僕に視線を投げ、言った。

退けろ!」


 そのを受け、有仁子の下僕達は慌てて金網を撤去し、リングに雪崩込んでだるまクンを介抱した。


 下僕達の様子からしてだるまクンは気絶しているだけの様だ。猿飛はその様子を横目で見て「ふん」と鼻を鳴らしたが、その顔は穏やかだった。


 俺はまるで夢でも見ている気分だった。


 猿飛の何もかもが嘘のようだ。

 その強さも、その勇猛さも、その美しさも……神々しいまでの、その煌めきも。



 そんな彼女はまるで羽根の様にひらりとリングから飛び降りると、俺に向かって不敵な笑みを浮かべながら近付いて来た。

「総国」


 あまりにもはっきりとしたに、逆に違和感を感じなかった。

 だが突然の事に俺が反応出来ないでいると、彼女はフフフと可笑しそうに笑った。


「……また会おう」

 と、流れを無視するような事を言った途端、彼女はふらりとバランスを崩したようにふらついた。


「さ、猿飛!?」

 俺が慌てて駆け寄ってその体を抱き止めると、そこにあったのは頬を赤らめ、呼吸を荒くして恍惚の表情を浮かべたの気持ち良さそうな顔だった。


 ……ついさっきまで大河ドラマの武将の様な表情かおしてなかったっけ??


 俺がそう困惑していると、当の猿飛はそんな俺の困惑などつゆ知らずといった風にため息混じりに、

「はぁ~、スッキリしたぁ……」

 と、満足そうに呟いた。


 俺は全然スッキリしないんですが……と、彼女の豹変具合にさらに困惑を深めていると、今度はがくんと猿飛の体が重くなった。

「……眠ってしまった……のか?」


 俺の胸の中ですうすうと寝息を立て始めた猿飛。

「一体全体、何が何だか……」


 分からない。 


 しかし、これが終わりではなく始まりだということは直感していた。


 未だに鳴り止まない大歓声の中、何かとんでもないというか、わけの分からないが静かに動き出した事を感じながら、俺は腕の中で眠る小さな王者の肩を強く抱いていたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る