第31話 猿飛愛子の素顔

 俺の居る位置はだるまクンに対して真正面だった。

 だからお面を取られた猿飛の表情かおを見ることは出来なかったが、その瞬間のだるまクンの表情かおは良く見えた。


 猿飛はどんな表情をしていたのだろうか。

 それを一番近くで見ただるまクンののリアクションからは、それを想像出来なかった。


 よほど淫猥エロティックだったのか。そうでなかったのか……。

 いずれにしても、猿飛の素顔を見ただるまクンのリアクションはだった。


 彼は猿飛の素顔を見た瞬間、その厳つい瞳を丸く見開いて口を半開きにし、2〜3秒ほど硬直したのだ。


 不自然な沈黙だった。

 彼が感じたのは驚きか? 疑問か?


 ……或いは、か。


 数瞬の沈黙。

 しかし。


 「「「ドッッッ!!」」」


 鈍い音と共にその沈黙が破られ、だるまクンが前屈した。


 ワッ!!


 観客がざわめく。

 猿飛の右脚、そのすねの辺りがだるまクンの股間に深々とめり込んでいたのだ。


「アッ……がッ……!?」

 前屈の拍子にだるまクンの手から滑り落ちたお面がキャンバスにぱさりと軽い音を立て、猿飛は音も無くひらりと着地した。


 そして彼女は悠々とお面を拾い上げて再び装着したのだが、その間もだるまクンは前屈みになり股間を押さえ、無様に悶絶していた。



 先程、猿飛が放った金的は効果が無かったはず。

 にも関わらず、2度目の金的にだるまクンは悶絶し、喘ぎながら激痛に耐えている。


 彼自身も何が起きているのか良くわからないのか、痛みと困惑が入り混じった表情で猿飛を睨みつけていた。


 しかし、反撃などとても望める様な状態では無いことは誰の目にも明らかだ。


 猿飛は前屈みになって同じ程度の目線になっただるまクンに対して背筋を伸ばし、じっと彼を見詰めていた。


 その間の抜けた猿のお面がまるでとんでもない怪物の様に見えたのは俺だけだろうか。


 たっ。


 突然、軽い音と共に猿飛は小さく跳躍した。

 そして、


「「「ドゴッッッッ!!!」」」


 凄まじい音と共にだるまクンが後方に吹っ飛んだ。


 猿飛が放ったのは軽やかな『ローリングソバット』だったが、それを胸元に食らっただるまクンはリングを囲う背後の金網まで一度も着地せず、文字通り『吹っ飛んだ』のだった。


「「「ガシャァン!!」」」


 甲高い金属音と共にだるまクンの巨体が金網に激突し、彼は跳ね返される様にリングへと叩きつけられた。


「くッッッ!」

 しかしそこは流石、地下の王者。

 飛び跳ねる様に立ち上がって見せたが、それもつかの間。

「〜〜〜ッ!?」

 その巨体がぐらりと傾ぎ、彼は膝から折れる様にキャンバスへと転がった。

 その姿は、誰がどう見ても確かなダメージを負っている証拠だった。


 ウワッッッ!!


 短い歓声はその一瞬で終わった。

 想像を超える光景に誰も彼も理解が追いつかず、二の句を失っていた。


 だるまクンが、為す術もなくダウンを喫したのだ。



 くくく……


 静かなリングに笑い声が響いていた。

 笑っているのは、猿飛だった。


 猿飛は肩を震わせ、クスクスと笑っていた。

 初めは堪えるような笑い声。


 しかし、堪えきれずにそれはすぐに大きな笑い声になった。


「くくく……はは……アハハハッ!」


 そしてリングにへばりつくだるまクンを指差し、いかにも嘲る様に吐き捨てたのだ。


「だるまさんが転んだ……!」



 だが、地下の王は甘くない。

 嘲笑う猿飛の一瞬の隙を突き破る様に、彼は即座に立ち上がって反撃に転じていた。


 あの巨体がこれほど素早く動けるのかと疑いたくなる機動だった。

 気が付いた時には既に猿飛の制空権を斬り裂き、彼女をその鉄拳の射程に捉えていたのだ。


 あっ!?


 観客席からのその声は猿飛に向けられていた。

 彼女は全く防御態勢に入っていなかったからだ。


 あまりに素早く、虚を突いた反撃に猿飛は気がついていないのか!?


 だるまクンの怒りに任せた乱暴な拳が眼前に迫ったその瞬間、ようやくその危機を認識した様子だったが――とても間に合わない!!



 バッッ!!



 だるまクンの全力パンチが猿飛に打ち込まれてしまった!!




 ……ように見えた。


 実際はだるまクンの拳は猿飛を捉えること無く、その振り抜いた拳には何故か猿飛が身に着けていたジャージが絡みついていた。



 ???


 何が起きた?


 何が起きている?


 その疑問はだるまクンのそれではなく、観客達の疑問それだった。



 どんな手品を使ったのかは分からないが、猿飛はだるまクンのパンチが命中たる瞬間にすり抜けるようにジャージだけを身代わりにし、難を逃れた。


 それはTシャツ姿になった猿飛を見ればなんとか理解は出来る。


 それだけでも俄には信じられない早業なのだが、それよりも信じられないのはだるまクンの様子だった。


 空振りに終わった拳に絡みついたジャージを投げ捨て、リング上を忙しなく探し回る様に首を振るだるまクン。


 にも関わらず、背後にいる猿飛には全く気が付かないのだ。


 猿飛は特に何をするでもなく、ただそこに立っているだけだ。

 しかし、だるまクンはその存在自体が無い物であるかのように、彼女を見つけることが出来ない……!!


「あれは……まさか……」 

 俺がひとつの可能性に思い至ったと同時に猿飛が動いた。

「おい」

 彼女はなんでもないことの様にだるまクンに声をかけたのだ。


「ッ!?」

 その声にだるまクンは飛び上がる程驚いた。


 背中に冷水でもぶっかけられたのかと言うほどのリアクションで振り向いただるまクン。

 その振り向いた直後、というよりもそのには既に猿飛の掌底アッパーが彼の顎を真下から打ち抜いていた。


 ゴッ……!


 鈍い音。

 そして、


 ワッ!!

 短い歓声。


 それは純粋な驚きの声だった。

 なにせ、猿飛のアッパーカットを喰らっただるまクンの巨体がのだ。


 足底とキャンバスに、明らかな空間が出来た。

 あの小さな掌底が、あの筋肉の塊をのだ。


「……ッッ!!」

 猿飛の口から掠れた音が響く。

 彼女はその場で素早く身を屈めながら回転し、未だに宙空に舞うだるまクンの顎に目掛けて真下から打ち上げるような後ろ廻し蹴りを繰り出したのだ!!


 ゴガッッッ!!!


 先程よりも鈍い音と共に、今度こそ本当にだるまクンの巨体が宙を舞った。


 ……舞った?

 いや、『飛んだ』という方が正確だ。

 あの馬鹿デカい筋肉の塊が、あの小柄な少女の蹴り上げでのだ!


 !!


 会場が震える程の歓声はとても短く、直後の静寂を際立てる。


 その静寂の中、だるまクンは飛んでいた。

 リングを覆う背の高い金網の天井付近、およそ5メートルの高さまで飛び上がり……そこに、猿飛もいた。


「なッ……!?」

 驚きで声が出ない。

 猿飛はなんと、だるまクンを蹴り上げた直後に自らも跳躍ジャンプし、吹っ飛んだだるまクンの後を追ったのだ。


 いや、言葉で言うのは簡単だ。

 実際にこの目で見てみると、とても信じなれない。


 まさに人間離れした膂力パワーと瞬発力だ。

 動物……あるいは、それ以上……!



 宙空で並んだ超人ふたり。

 一瞬時間が止まったかの様な光景だったが、だるまクンの方が先に頭から真っ逆さまに落下し始めた。


 一方、猿飛はひらりと身を捻って上下逆さまの態勢になった。

 そして金網の天井部分をまるで地面のように踏みしめ、ように、跳んだ。


 ほとんど重力を感じさせない猿飛の軽業に対して正常な重力に引っ張られるだるまクン。

 真っ逆さまに落ちていく彼に追いついた猿飛はさらに信じられない行動を取った。


「い……」

 その技の、あまりの速さと冴えに俺の言葉は間に合わなかった。


 彼女は落下しながらもだるまクンの胴体に背後からしがみつき、自分もろともリングのキャンバスに向かって頭から落下したのだ!


 相討ち覚悟の自爆行為か?


 否。


 あれは……!!



「「「ドッゴォオッッッ!!!」」」



 凄まじい落下音とともにリングが波打ち、金網が揺れた。



 その技を言葉で表情するのならば『桁外れな高さからの超変則パイルドライバー』とでも言えばいいのだろうか。


 だが、一応はある。

 俺はそれを偶然知っていた。


 だが、まさかそれをこの目で見る日が来るとは思わなかったが。


 だから、俺は先程言葉にできなかったその技の名をもう一度言葉にした。


「い……『飯綱落いずなおとし』……!」



 リングの上ではその頭部をキャンバスに完全にめり込ませ、だるまクンと、彼を先にキャンバスに激突させる事で難無くひらりと着地した猿飛の姿が、明らかな『勝者と敗者』を暗示していた。


 ずず……。


 鈍い音と共にだるまクンの体が傾ぎ、ぐにゃりと力無く倒れた。


 猿飛は立ち上がり、胸を張ってそれを無言で見詰めていた。



 会場は歓声のひとつもなく、その場の全員がこの信じ難い光景にただ息を飲んでいた。




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