第8話 四角いリングでつかまえて
身長差、約50cm
体重差、約100kg
単純な腕力の差に至ってはどの程度だったのかも分からない。
まさにヒトと獣の戦いだった。
しかし、猿飛はそんな絶望的な体格差など完全に無視してあの鬼岩城を圧倒した。
文字通り、無傷の勝利だ。
これを奇跡と言わずして……いや、これは奇跡でなはい。
猿飛愛子は実力で
猿飛のために準備していた救護班は試合終了と同時にリングへと駆け上がり、鬼岩城に応急処置を施している。
普通なら割とマジで死んでいてもおかしくないのだろうが、そこはさすが元・大関。
大きな欠損等なく単に気絶しているだけの様だったので、俺はひとまず胸を撫で下ろした。
「犬飼、あとを頼む!」
俺はそう言い残して司令室から駆け出した。
出来るだけ早く。
出来るだけ急いで。
また猿が逃げ出してしまうから?
……そうかもしれない。
でも、違うかしれない。
漠然と曖昧に、そう感じていた。
俺は必死に走った。
やはり、どこかに彼女が逃げてしまうかもという不安があったのだ。
しかし、彼女はいた。
リングの上で、俺を待つように立っていた。
余程体力の消耗が激しいのか、未だに肩で息をする猿飛。
俺は観客達を掻き分けて会場中央のリングを目指し、もみくちゃになりながらも彼女の側に辿り着くことができた。
「……猿飛」
俺が声を掛けても彼女は肩を上下させて荒い呼吸のままだ。
だが、不思議と辛そうではなかった。
「猿飛……だよな?」
そうだ、俺は猿が猿飛なのかどうかを本人に確かめたわけではない。
確率で言えば99%だが、100%ではない。
だから今、確かめたのだ。
しかし、彼女は答えない。
お面の下から荒い吐息が聞こえてくるだけだった。
「……顔、見せてくれよ」
俺は彼女を刺激しないようにゆっくりと近付き、そっとお面に手を掛けた。
その行為に、彼女は拒否をしなかった。
「……」
だから俺はそのままゆっくりとお面をずらした。
出来るだけ丁寧に。
出来るだけ丁重に。
圧倒的不利を覆し、勇猛に戦った戦士にはそれに相応しい気遣いを、と考えたのだ。
そして、少しずつあらわになる猿飛の素顔。
リングの真上に設置されたスポットライトが徐々にその白い肌を照らして行く……
ぬる。
お面の端を摘んでいた指先に
そこは彼女の口元だった。
(……
あの激戦の直後だ。
少しなら理解も出来る。
しかし、その指先はかなりびっちょり濡れてしまっている。
「……大丈夫か?」
だが、猿飛は答えない。
「……外すぞ」
俺はそのままゆっくりとお面をずらし……言葉を失った。
そこにあったのは瞳をトロンと潤ませ、だらしなく開いた口元から涎を垂らして頬を上気させた、ある種めっちゃくちゃエロい表情をした
「え、ちょ、ちょ、お、おま……」
今にも「あへ」とか「んほぉ」とか言い出しそうなその顔に俺は戦慄した。
なんで?
どうして?
そんなふうになる要因、あったかな?
しかし、それよりも先に感じたのは『見てはいけないものを見てしまった感』だった。
だから俺はお面をそっと元に戻した。
言葉の通りの『そっ閉じ』である。
俺は近くに居た救護班に声をかけた。
「おい。コイツを医務室へ……」
俺がフーハーフーハー言ってる猿飛を指差すと、救護班は「医務室には鬼岩城を運びます」と答えた。
そんなものは通用口にでも横たえておけと言いそうになったが、意識を取り戻した鬼岩城が担架で運ばれながら息も絶え絶えで泣いているのを見て何も言えなくなった。
プライドもキャリアも何もかもをこんなわけのわからない奴に完全破壊され、男泣きに濡れる彼の心境を思えば冷たい床に寝かせておけ、とは言えない。
「彼に何か、温かいものを……」
俺は救護班に指示を出し、そして猿飛の手を引いた。
「……奥の事務室で話をしたい」
俺が言うと、猿飛はこくんと頷いた。
そして俺は事務室という名の物置き部屋へと猿飛を連れて行き、辺りに誰もいないことを確認してから部屋の安っぽいドアの鍵をかけた。
「これを使うといい」
俺はその辺にあった防災用のブランケットの袋を破り、その薄い毛布を猿飛の肩に掛けた。
いくら無傷といえども激しい戦いの後だ。汗が冷えてもいけないだろう。
「……もうお面を外しても大丈夫じゃないか?」
俺が猿飛を
彼女もそれを分かっていたようで、今度は自分からお面を外した。
はらり。
するとやはりそこにはめっちゃくちゃエロい顔をした猿飛がいた。
あれから少し時間が経ってその色気には深みが加わっていた。
見たことは無いが、事後の顔とはこんな感じなのだろうか。
「な、な、なんて顔をしているんだお前は」
勃起しそうになったので俺は顔を背けた。
すると猿飛も恥ずかしそうに俯き、身を縮こませてしまった。
……そして、無言。
芋ジャージ姿の女子とこんな殺風景な事務室で黙って向き合っていると、万引きした中学生を捕まえたスーパーの店員の様な心持ちになってきたが俺がやるべきことは学校や保護者への連絡でもなければ弱みに付け込んでエッチな要求をすることでもない。
「……猿飛、お前はなんでこの闘技場に現れたんだ?」
何をどう訊けば良いのか見当も付かなかったので妙な質問になってしまったが、猿飛は俯いたままでそれに答えた。
「……強い人と、戦いたくて」
「はぁ?」
刃牙かお前は。
いや間違えた。
バカかお前は。
言葉になったそれを初めて聞いたが、なんとも言えない「はぁ?」がそこには
「な、何だそれは? 意味がわからんぞ。大体、お前がどうして
「……何日か前に、『この闘技場で戦ったことがある』って人からここの事を聞いたの」
「そんなヤツとお前の接点なんてあるのか? ここで試合経験のある奴なんて大抵ならず者だぞ。そいつが例えば親類縁者とかなら話は別……いや、待てよ……」
俺は数日前に犬飼から「過去に強敵乃会で試合をした事のある男が何者かに襲われて病院送りになった」という報告を受けていたことを思い出した。
前述の通り地下の格闘家なんて大体がいわく付きなのだから、いつどこでそういう目にあってもなんの不思議もない。
俺はその報告を「へー」と適当に流し、速攻で忘却の彼方に追いやっていたのだが。
「お前、まさか辻斬り……いや、辻殴りでもしたのか?」
「ち、違うよ。その人が夜の公園でここみたいな事してたから、つい……」
「つい? ついボコったのか? つーかそんな物騒な事に首を突っ込むなよ」
「そこまでひどい事してないよ。だってその人すごく弱かったし……で、その人が『強いヤツに会いたければ、
「そんなバトル漫画のようなルートがあったとは……」
それは今後の課題だな、と俺は唸ったがそこは一旦橫に置いておいて、だ。
「そうか、それは分かった……だが、何と言うか、もうひとつ聞いておきたい事があってな……」
俺はちらりと猿飛を見た。
彼女は
「その、なんだ。お前のその状態はなんなんだ? どうしてそんなふうになっているんだ?」
すると猿飛は俺が何を言っているか察したようで、とても言い辛そうにブランケットで口元を隠す様な姿勢で言った。
「……きもちよくなっちゃうの」
「は?」
「戦うと気持ち良くなっちゃうの!! 強い人とだと、余計に……」
それを聞いた俺は阿呆の様に口をポカンと開き、言葉を失ってしまった。
猿飛はそんな俺を見て唇を真一文字に結び、俯いて何かに怒りを向ける様に顔をしかめた。
その怒りが俺に向いていないことは明らかで、どちらかと言うとそれは彼女自身に向けられているように、俺には思えた。
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