第3話 勇者じゃないです。人(ねこ)違いです。


「目が覚めたか、勇者よ」


 低く艶やかな声が頭上から聞こえた。

 何の気配もしなかったのに、いつの間にか小さな子猫の背後に長身の男が立っている。


「フゥッ!」


 怯えた悲鳴が喉をつき、美夜ミヤは尻尾をぱんぱんに膨らませて飛び上がった。

 逃げようにも、逃げ場がない。

 前面には子猫の細い前脚ではどうにもならなそうな大きな窓、背後には黒服の大男。

 背中の毛も逆立てて、怯えてフーシャーするだけの美夜に、黒服の男は困惑したようだった。


「どうした、勇者。何を言っている?」

「シャーッ!(近寄らないでッ)」

「む……」


 やんのかポーズでトトト、と斜めに移動すると、目の前の男は少し怯んだようだった。


(む、この威嚇ポーズが効いたの?)


 調子に乗った美夜は、やんのかポーズで左右にピョンピョンと素早く飛び跳ねた。


「なんだ、その奇妙な踊りは。不思議なことに、見ているとこう……胸が妙に締め付けられる……」


 長身の男は困惑した様子で、何故か子猫姿の美夜をじっと見詰めてくる。

 それ以上近付いてこないことに安心したのと、意外と体力を消費した「やんのかアタック」で疲れた美夜はぺたんとその場に座り込んだ。


(うん、小さい体は疲れやすいね。ちょっと休憩しよう……)


 お座りして、落ち着くために顔を洗うことにした。

 ふわふわの、マシュマロみたいな前脚を丁寧に舐めて濡らし、顔をくしくしとこする。

 何故だか、こうすると妙に心が穏やかになる気がしたのだ。

 ついでに背中や腹をぺろぺろ舐めていると、離れた場所からぐふっ、という低い呻き声が聞こえてきた。


「ミャ?(なに?)」


 視線を向けた先には、例の長身の男がいた。

 なぜだか、口元を片手で覆い、肩を震わせている。

 良く分からないが、こちらに何かをしてくる様子はないようなので、気にしないことにした。


(子猫の姿になってから、何だか楽天的になった気がするけれど、きっと気のせい)


 毛繕いをしながら、美夜はこっそりと男を観察する。

 見事な金髪を背中半ばまで伸ばした美丈夫だ。

 切れ長の瞳はアメジストのように神秘的な色を宿している。恐ろしいほどに整った容貌の男には、二つのツノが生えていた。


(メリノ種の羊の雄のツノに似ているかも)


 くるん、と巻き貝のように立派なホーンだ。ちょっと触ってみたい。

 大きなツノの下にある耳はほんの少し尖って見える。


(……どう見ても人間じゃないよね? 高レベルのコスプレイヤーとかでもないかぎり)


 それにこの男の声には聞き覚えがある。

 夢うつつの中で聞いた、あの老人が「魔王」と呼んだ相手の声だ。

 そして、この「魔王」とやらが自分を「勇者」と呼んでいると云うことは。


(……これは絶望的な状況では?)


 勇者とか言われても、今の自分は子猫だ。

 剣や魔法が使えるどころか、よちよち歩きだ。

 生きていくのも精一杯な、か弱い生き物でしかない。


(詰んだ…………)

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