エピソード19 写真家

 翌朝。


 稚内の街は晴れていた。

 だが、ネットが使えない以上、かつてのように簡単に天気予報の情報を入手するのが難しい。


 それでも晴れているというのは、気分が良くなるもので。


「よし。今日は稚内探索をして、ついでにバイク屋を探そう!」

 朝から翼は元気で、気温がマイナス5度以下にも関わらず、朝から探索を開始。


 美宇は渋々ながらも付き合うことにした。


 まず向かったのは、北防波堤ドームからすぐ北に走ったとこにある、岬だった。


 ノシャップ岬。


「ノシャップ岬? なんか変わった名前だねえ」

「だからこれもアイヌ語だろ。北海道にはいくらでもある」


「確か、根室の方にも似た名前の岬がなかった?」

「ああ。よく知ってるな。あっちは納沙布のさっぷ岬。ちなみに、こっちも正式には野寒布ノシャップ岬と書く。意味は、どっちも『ノッサㇺ』、つまり岬の傍という意味のアイヌ語だ」


「さすが美宇。物知り博士」

 と、翼は機嫌が良く、岬の尖端にある、イルカの像や、その先にある紅白の色の灯台、さらに晴れていて、彼方に見える利尻富士を眺めていた。


「じゃ、バイク屋を探しに行こう」

 翼は、バイクのオイルのことを気にしているようで、すぐに岬を離れることになった。


 ところが。

「見つからなーい!」

 バイク屋どころか、車屋すらなかった。


 かつて、日本最北の街として栄えた稚内は、それでも人口3万人程度の小さな街。おまけに、冬季は路面凍結どころか、雪が積もってバイクに乗る人が極端に少ない北海道では、バイク屋自体が少ない。


 中には、夏季はバイク屋、冬季は除雪機を売っている業者も珍しくない。


 中でも、道北と呼ばれるこの地域での、稚内の立ち位置は、人口30万人以上と、稚内の10倍の規模を誇る旭川には遠く及ばない。


 水産、農業、観光で持っている街だ。


 夏季こそ、内地、つまり北海道以外の土地から、数多くのライダーたちがこの地を訪れるが、冬季は寂しいものだった。


 結局、市内をくまなく探っても、バイク屋は見つからず。


 困り果てた彼女は、稚内市中心部から外れた、大沼という沼にバイクを走らせ、湖畔でバイクを停めた。


 そこで、昼食を摂るつもりだった。


 天気は、徐々に曇ってきており、太陽は隠れていたが、風はあまりなかった。


 そして、数羽の白鳥の姿があった。


 彼女たちは、そこに人影を見ることになる。

 それは、初老に近い50代くらいの白髪混じりの男で、背丈は170センチくらい。薄く口髭を生やし、頭にはニット帽をかぶり、何よりも特徴的だったのは、首からぶら下げた大きな一眼レフカメラだった。


 男は、彼女たちに気づかず、熱心に白鳥に向けて、シャッターを切っていた。


 食い入るようにして、白鳥を見つめ、一心不乱に写真を撮っていたため、彼女たちは声をかけづらくなり、しばらくそのまま眺めていた。


 男は、カメラバッグをたすき掛けにかけており、大きな緑色のフロックコートを着て、カーゴパンツのようなラフなズボンを履いていた。


「なんか、変な人だね」

「そう言うな。仕事熱心なんだろ」

 一応、邪魔になると悪いと思い、彼女たちはひそひそ話をする。


 ようやく、一息、ついたのか、男がカメラから手を離した。

 瞬間、視線が合ったため、


「うわっ!」

 向こうの方が驚いていたから、二人もまた驚いて、少し後ずさっていた。


「い、いつからいたんだい?」

「あ、あの少し前からです」

「すみません。驚かせてしまって。人に逢うのは久しぶりです」


 翼と美宇が慌てて口を開く中、男は挨拶をしてくれた。

「びっくりしたよ。まさか人と逢うとは。僕は野上のがみ。写真家だ」


 その野上と名乗る男。

 一見、優しそうに見える丸顔と、細い眉毛に、少し垂れ目がちな目が目立つ。悪い人には見えなかった。腕力もそれほど強いようには見えず、どちらかというと痩せていた。


 女子ということもあり、男には常に警戒心を抱いている二人だったが、少しだけ安堵していた。


 その後、三人は色々なことを話した。


 札幌の教会を出てから、バイクで道内を旅してきたこと、秩序が崩壊した北海道のこと、そして野上が写真家として白鳥を追っていることなど。

 野上曰く。


「この時期、稚内の大沼に白鳥がいるのは珍しい」

 とこのことで、本来、道東付近に多いのだという。


 そして。

「うーん。残念ながら、僕もよくわからないんだ」

 もちろん、この北海道で一体何があったのか、を聞いた美宇の質問に対する回答だ。


「何故ですか?」

「1年ほど前以前の記憶がごっそり抜け落ちているんだ」

 同じ現象だと、美宇はすぐに気づいた。


 以前、出逢った大学の助教授の河北には、その兆候、つまり記憶操作の兆候は見られなかったが、この野上という男には、明確にその兆候が見られ、それが翼や美宇に酷似している。


 翼は、2年前。美宇は、3年前以前の記憶がない。


 困り果てた美宇は、思考を巡らしていた。

(記憶操作に男女の区別はないのか)

 つまり、彼女の当初の予測では、「女子」だけに限定して、記憶操作が行われており、何らかの悪意や、知られたくない事実を隠すために、記憶操作が意図的に行われた、と推測していた。


 ところが、野上を見る限り、その仮説は崩れる。


 同時に、河北に記憶操作の兆候がなかったのは、彼女の言動から察すると、彼女が「奔放すぎる」からだろう。しょっちゅう野山を駆け巡っているような動物学者の彼女は記憶操作の「網」に引っ掛からなかったと考えるのが妥当だ。


「また降ってきたよ」

 翼の声で、美宇は我に返った。


 見ると、空から白い雪が舞い降りてきていた。


 そして、そこからが早かった。


 物の数分のうちに、あっという間に天候が崩れていた。

 いわゆるホワイトアウト現象になり、視界はほとんど見えなくなり、方向感覚がなくなる。


 野上は、遠くに停めてあった軽自動車に走りながら、

「二人とも。ここは一旦、避難した方がいい。ついておいで」

 と言い残して、車を発進させていた。


 その白いワンボックスカーのような軽自動車に従って、彼女たちも慌ててバイクを走らせる。


 着いた先は、そこから5分もかからなかった。


 川を越えた先に、無数のコンテナような建物が建ち並んでいた。

「バイクステーション?」

 野上が車を停め、翼も同じくバイクを停めてから、呟いていた。


 そこには、「バイクステーション」と書かれた看板が建っていた。


 バイクの駅。そこは、かつてのライダーたちの「憩いの場」だった。

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