エピソード18 最北の街
北海道出身の美宇は、経験済だったが、本州のどこかの出身の翼にとっては、初めての「本格的な北海道の冬」だった。
それは想像以上に過酷なものだった。
「寒い……」
彼女は、バーナーで暖めたコーヒーを飲みながら、再びバーナーをつけて、火から離れて手をかざしていた。
「あまり使うな。ガスがなくなるぞ」
と、美宇は諭していたが、寒さには耐性がないのか、翼は震えていたから、そのままにしておいた。
「稚内まであとどれくらい?」
地図を火の近くまで持ってきて、灯りとして照らす美宇。距離は地図上の縮尺で書いてあるから、測ればおおよその距離はわかる。
スマホなどがない場合の、最も原始的な方法としては、この縮尺を元に定規で測ればいい。
コンビニで入手した、筆記用具袋に入っている、小型の定規を美宇は使った。
「大体、50キロくらいだな」
「さすが北海道。遠いね」
「とりあえず、この吹雪が止むまでは動かない方がいい」
「そうだね」
しかし、いざ天候回復待ちになると、一気にやることがなくなってしまう。
「本でも持ってくればよかった」
と、美宇は愚痴り、
「なんで二人でいるのに、本を読むの? 私と話してればいいじゃん」
「ずっと話してるのも飽きる」
と、翼から文句を言われて、返していた。
仕方がないので、手持無沙汰になった美宇は、唯一の本とも言える、北海道の地図を手に頭の中で「計画」を練り始めた。
一方で、翼は愛車の点検に入る。
そこで、彼女は気付いてしまったのか、大きな声を上げた。
「あっ!」
「どうした?」
「思い出した。この子、そろそろオイル交換した方がいいかも」
「オイル交換? 確か函館で言ってたな」
「そうだよ。バイクのこと、何も知らないんだね、美宇は」
普段から、頭のいい美宇にバカにされ気味な翼は、ここぞとばかりに知識を披露していた。
彼女は、バイクの知識だけはあった。
つまり、バイクという乗り物は、定期的にオイル交換をした方がいいこと。バイクのオドメーターを見る限り、このクロスカブの総走行距離は、すでに9000キロを越えている。
つまり、通常3000キロで1回程度のオイル交換を3回分くらいスルーしていることになる。
そこに危機感を覚えたのが翼だ。
「まあ、オイル交換くらい、稚内に行けば出来るだろ」
と、この分野の知識に疎い美宇は、投げやりに答えて、再び地図に目を落としていた。
「他にもガソリンはもちろん、ブレーキパッド、ブレーキフルード、色々換え時だなあ」
「だからまとめて稚内でやれ」
「稚内って大きな街?」
「いや、小さいな」
「旭川より?」
「ああ。はるかに小さい」
「それじゃ、バイク屋があるかどうかわからないよ」
「まあ、何とかなるだろ」
変なところで、楽観的な美宇に、翼は不満気味だった。
結局、吹雪は日中一杯ずっと続き、日が暮れてから、空は晴れ、風が収まり、出発となったが。
「うわっ。寒い!」
走り出してすぐに翼は吠えた。
ただでさえ、寒い亜寒帯のロシアみたいな気候の道北地方。陽が落ちると気温は一気に下がる。
この時、温度計を持っていなかった彼女たちは気付いていなかったが、気温はマイナス3度を記録していた。
もっとも、風がないだけマシで、これに風や湿度が加わると、体感温度は軽くマイナス15度を超えることも珍しくない。
そのまま50分以上も暗い夜道を走り続け、ようやく稚内市街地に入る。日本で最も北に位置する街で、サハリン最南端の岬との距離はたったの43キロ。
晴れていれば
ある意味、日本よりロシアに近い街だ。
その証拠に、道路標識に「ロシア語」が併記されている。
「おお、ロシア語だー」
と、翼はそのキリル文字が書かれた看板を見て、喜んでいたが、道産子の美宇は、記憶の断片の中に、ここにロシア語があることを知っていたから驚かなかった。
美宇は、事前に翼に話しておいた。
「北防波堤ドームに行ってくれ」
と。
稚内市の北に位置するそこ。人口が3万人程度しかいないとされる稚内はもちろん無人だったが、小さな街だからすぐにたどり着いた。もちろん街は無人だったが。
稚内港からは、かつて
もちろん、無人のこの時、就航はしていないようだったが。
正式名称、稚内港北防波堤ドーム。
高さ14メートル、長さ427メートルもある、半ドーム式の堤防で、古代ギリシャ建築を彷彿とさせる70本のエンタシス状の柱列群が人目を引く。北海道遺産にも指定されている。
「うわっ。すごいね、ここ!」
バイクを降り、ヘルメットを脱ぐと、翼は喜び、大きな声を上げていた。
「いいから、さっさとテントを建てるぞ。暗いし」
美宇は、今夜は雨風を凌げる、この下にテントを張ることを決めていた。
かつては、夏に北海道を旅するライダーがよく、この下にテントを張り、キャンプをしていた。
その後、「野宿禁止」となったらしいが、秩序が崩壊し、人がいなくなった北海道では、そのこと自体が意味をなさない。
暗い中、バーナーの灯りを頼りに、彼女たちは手早くテントを建てて、その日は、就寝した。
夢の中で、翼はキタキツネと遊び、美宇は鹿に襲われていた。
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