エピソード9 青函トンネル
珍しく早起きした翼を探し、美宇は布団を出て、畳み、押し入れに入れる。おまけに隣の翼は片付けてさえいなかったので、ついでに片付けてから、部屋を出た。
人気がまったくない旅館は不気味だったが、それでも夜の風景よりは、朝の方がいくらかマシだった。
1階に降りて、玄関から外に出ると。
―ブォオオオーーン!―
バイクのエンジンの音、というより明らかに「吹かして」いる音が響いてきた。
確かめるまでもない。
「何してるんだ、朝っぱらから?」
寝ぼけまなこをこすりながら美宇が尋ねると、
「あ、おはよう、美宇。この子の調子を見てたんだよ」
翼はいつものように明るい笑顔で応じた。
「調子?」
「そう。バイクって乗り物は、生き物と一緒でね。その日によって調子も変わるし、ちゃんとメンテしてないと、言うことを聞かなくなる。可愛いものだよ」
本ばかり相手にしてきた、陰キャの美宇にはまったくわからない感情だったが、どうやら翼は想像以上に、「機械に」、というより「バイクに」愛着があるらしい。
その証拠に「この子」なんて言っていたからだ。
「可愛いか?」
「うん。でも、あれだね。いずれどこかでオイル交換した方がいいかも」
「オイル? オリーブオイルみたいなものか?」
「違う違う。エンジンオイル。人間で言えば血液みたいなもの。バイクはそれを定期的に交換しないと、ダメになるんだ」
「ふーん」
美宇には、まったく興味がない話題だったから、正直どうでもいいと思ってしまったが、このことが後々に「響く」ことになる。
だが、今はまず目指すべき場所へ行く必要があった。
固形ブロックの味気ない朝食だけを食し、すぐに出発。天気は今日も晴れだった。
まずは函館市街を抜けて、国道227号に入る。
道の左側には、常に海に浮かぶように、函館山が見えていた。この雄大な景色が美しく、特にバイクに乗るのが好きな翼の目には、感動的な風景に映っていた。
道は、すぐに国道228号に入る。
そこから先は、ひたすら海沿いを走る快走路になる。左手には未だに函館山の稜線が見えている。
ただでさえ交通量が少ない北海道の道。その上、人も車も皆無なのだ。
快適そのものの、「止まる」ことがないツーリングが続く。
やがて、トラピスト修道院の道路案内表示が見えて来ると、渡島当別駅の周辺になる。
北海道南部にある、二つの有名な修道院のうち、ここトラピスト修道院が男子、そして函館市郊外にあるトラピスチヌ修道院が女子の修道院として知られており、共にかつては観光名所だった。
ひたすら海岸線を走り、いくつかの駅を越え、町名は
そして、
「見えてきたよ! 青函トンネル入口だって」
案内標識を見つけた翼が運転席から叫ぶ。
美宇が見ると、
「青函トンネル記念撮影台」
という黄色い看板が見えてきた。
青函トンネル自体は、この先の福島町から海底に入り、青森県の
そして、その青函トンネル記念撮影台の看板を通過し、いよいよ線路に入って行くことになるが。
通常だと、ここは高架になっているため、バイクの乗り入れは出来ない。だが、こういうところには必ず点検作業員のための、階段が存在する。
それを目ざとくみつけた翼は、その階段下まで行く。
当然、鍵がかかっていると思ったからだ。だが、不思議なことに鍵はついていない、というか「壊されていた」。
何らかの意図的な意志を感じざるを得ない。
そう思った美宇は、
(誰かが私たちと同じように、ここを伝って脱出しようとしたのかも)
と思いつくのだった。
とにかく、階段を強引にバイクで駆けあがる。
幸い、このクロスカブは優秀で、多少の悪路なら難なく越えられる性能を持っていた。
線路に入るも、もちろん電車が来る気配がない。
人どころか、動物すらいないような、無機質な線路が高架の上に続いていた。
そして、その向こうに、ぽっかりと口を開けた不気味な黒い空間の入口が、まるで異世界への入口かのように佇んでいた。
いよいよ青函トンネルに入る。
中は、照明が切れているのか、真っ暗だった。
そんな中、クロスカブの頼りない、小さな丸目のヘッドライトだけを頼りに進んで行く。
「翼。ゆっくり進めよ。暗いから危ない」
「わかってる」
そのまま数キロメートルも進んだ頃だ。
道はだんだん下り坂になり、トンネルが海面に近づいていることを感じさせる頃。
「翼、ストップ!」
後ろの席の美宇が、目の前の翼に叫んだため、翼は驚いてリアブレーキを踏んでいた。
急ブレーキに近い形になり、タイヤがロックするかと思ったところ、ギリギリで停まっていた。
驚いた翼が夜目を凝らしてみると、目の前に黒い液体が溢れていた。水だ。
「なになに、ここまで水が来てるってこと?」
「ああ。最悪だな」
「どういうこと?」
「トンネルに何らかの原因で穴が開いて、そこから海水が雪崩れ込んだ、と考えるのが普通だろう」
絶望的な声を上げる美宇。彼女の北海道脱出という目論見は早くも崩れ去っていた。
ひとまず、この水がいつ押し寄せてくるかわからない状態だ。
一旦、美宇の指令で、翼はバイクをUターンさせ、先程の青函トンネル記念撮影台まで戻った。
そこでバイクを降りて、展望台から改めてトンネルを眺め、
「いや。あんな綺麗な形で残ってるトンネルがまさか水没してるとはねえ」
呑気な声を上げる翼に対し、美宇は、コンビニでパクってきた、北海道全図の地図を広げて、唸っていた。
「どうしたの? 便秘?」
「違うわ!」
翼の突っ込みに呆れながら、美宇は翼を傍に呼んだ。
「見ろ。北海道には、他にいくつかの港町がある。ここがダメなら今度はそっちを目指そう」
「どこ?」
翼の好奇に満ちた目に対し、美宇は冷静に指を地図上に走らせた。
「北海道と本州をつなぐ航路があるのは、函館以外だと室蘭、苫小牧、小樽。それ以外の主な港町としては、石狩湾新港、
このうち、室蘭、苫小牧、ウトロ以外は「重要港湾」という区分になるが、もちろん彼女たちはそのことを知らなかった。
「なるほど。で、どうするの?」
「仕方がないから、近い方から順番に回るぞ。まずは室蘭、苫小牧、そして石狩湾新港だ」
「室蘭と苫小牧はともかく、石狩湾新港って何?」
翼の問いに、本で得た知識を持つ美宇は、あらかじめ知っていた。
「石狩湾新港は、一般的な旅客ターミナルじゃなくてな。いわゆる貨物港って奴だな。確か韓国の
「よし。じゃあ、まずは腹ごしらえしよう!」
お腹からグゥーという空腹のサインを示しながら、翼が元気に言うと、渋々ながらも美宇が頷いた。
船がダメ、トンネルもダメ、飛行機は操縦できないし、飛ばせない。
そんな彼女たちは、北海道脱出を目指し、航路を探す旅へと出かけることになる。
こうして、「北海道脱出」を目指す、奇妙な、そして長い旅が改めて始まった。
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