第17話 額縁
と、珈琲が置かれる。椅子に座る私の前に。いったいいつ注文をしただろうか。顔を上げる。銀盆から珈琲を取りあげた店員がさっきまでそこにいたはずなのだが、どこにも見当たらない。店内には私と首以外の客はなく、カウンターの向こう側に店主らしき人影があるほかは静かなものだった。
珈琲が置かれたと思っているのは私だけで、珈琲は最初からカップに入った状態でそこに置かれていたのかもしれない。珈琲が先で私が後。珈琲が注文したから私が座ったのであって、私は何も注文していない。それなら納得できる。私は安心してカップを持ちあげた。
こういう店にしては珍しい、木製の小柄なカップとソーサーだ。添えられたスプーンも木。カウンター内にはサイフォンや豆の瓶と並んで、陶器のカップとソーサーが飾られているからなんだか不思議な気もしたが、意図を勘ぐるようなことでもない。珈琲は、見たところただの珈琲だ。さっき注がれたばかりらしく湯気を立て、薄く白んだ表面が宇宙の雲のごとき渦を巻いている。
珈琲は一人分だ。私と首とどちらが飲もうかと思案したところで、首はさっき歯を磨いたばかりだから飲まないらしい。ならば飲むのは私だ。夢の中で飲む珈琲は苦みも何も曖昧で、珈琲の上澄みの部分を飲むと、半分から底にどろどろとした青い粒の塊が唇に触れた。しまった。かき混ぜて飲むものだったらしい。おかわりの珈琲を所望できるだろうか、とふりあおぐが店主の姿はない。が、顔を戻すとカップにはなみなみと珈琲が注がれている。まるでさっき入れたばかりだとでもいうように湯気まで立てて。透明の給仕でも雇っているのだろうか。おかしな喫茶店に入ってしまったものだ。
でもそれも仕方がない。だってここは額縁の中の景色なのだ。絵の中の人物がうっかり描かれた珈琲を飲み干してしまったら、見るものが混乱するだろう。喫茶店の壁に掛けられた、喫茶店の内側を鏡のごとく映し描いた絵。それが私の風景だ。この木製のカップも、描いた本人は銅製のつもりで色を塗ったのではないかと思うのだが、私の手にはどうあったって木を削って作ったように感じられる。感じ方はひとそれぞれということだ。
だから私の意志ひとつ、行こうと思えばどこへだって行けるのだが、肝心の、どこに行くべきかという点を考えあぐねてここにいる。喫茶店の外は鳥居が四つ。四方にそれぞれひらいていて、どの鳥居をくぐってもそれは私の自由。選択肢があるというのは贅沢な悩みだ。こうして喫茶店で何事も決めずに、飲み干すことのない珈琲を前にするというのもまた、贅沢な時間の使い道でもある。
「そうは言っても、もうじき閉店の時間ですから」
いつの間にか、土星頭の店主が額縁の前に立っていた。こちら側の景色にはない人物だ。
「そのとおりです。向こうの側のほうが絵なのですよ。いかがでしたか、絵に食べられる心地というものは」
いかがかと言われるとどうだろう。悪くはない心地だが、この店のように音楽がかかっていないのはいささか静かすぎて落ち着かないかもしれない。相席相手も無口であるし。
珈琲はたぶん現実で飲むほうが、と。
立ち上がる膝が机を叩き、目の覚めるような音、空のカップが転がり落ちた。
危ない、割れる、と手を伸ばしたところで、木のカップはごろりと転がる。
なるほど、これを見越しての木製か。
「銅製ですよ。こいつは銅です。銅ですよ」
土星頭の店主は心外だとでも言いたげに、しかしおかしそうにくつくつと笑った。
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