第16話 面



 銀の盆は盆であるからにして留め具などはない。ただ型を取って首をはめこむようにしてあるだけだ。正面から見ると首輪に近いが、断面に密に接しているわけではなく、底面と首とのあいだには指一本程度の隙間がある。そのため役目としては、鉢植えに対する受け皿に近い。ここでいう鉢植えとはもちろん首のことで、首が摂取した水分を盆の底が受けとめるようになっているのである。

 だから要するに、溜まる。

 水とか水でないものとかが色々と、溜まる。

 銀盆は本来ならふちを指で押してやれば難なく外れるのだが、うまくいかないのはなんだろうな、前より少し太ったんだろうか。そういう冗談が好きなやつではないのはよく知っているが、なぜなのかは首自身が一番よくわかっているだろう。

 このところ首は不用意にものを口にしすぎた。胃がないのだからものを食べても消化されないし、特に良くなかったのは酒だ。臓器の一切がないのに酒を飲めば、溜まった酒がいつまでも分解されずに残り続けることになる。常に酔い続けているようなものだ。元から首の顔色は土気色だが、このところは土は土でも墓場の土。髪の長いので隠せているつもりかもしれないが、四六時中一緒にいるものをそうごまかせるものでもない。

 そも本来なら首はいくら食べても太らないし、いくら飲んでも酔いつぶれない。食べる必要も飲む必要もないが、舌が得る快楽を娯楽として受け取ることはできる。楽しむことはできるのだ。ただ首はそれをしない。

 理由に見当はつく。

 私にこうされるのが嫌いだからだ。


 予想通り、中身は腐りきる直前だった。いや、すでに発酵だか醸造だかが進んでいるものある。原型をとどめていないから正体はよくわからない。まとめて屑籠に捨てる。幸い、湯浴みのために用意された水瓶は一度熱を通してあるらしく清浄だ。清潔そうな布巾と木桶もある。さすがに中央の宿は設備が良い。ありがたく使わせていただこう。

 さて、受け皿を洗う間、首はタイルの床に転がっていてもらうことになるわけだが――バランスが悪いせいか顔が床の面にきている。仕方ない。断面を床にして立たせるわけにもいかないのだからあのままだ。

 剥き出しの筋肉が、神経が、無防備に風にさらされるというのは、不快な感覚がするのだろうか。私にはわからないよく感覚だが、早めに終わらせてやるに越したことはない。

 布巾で盆の水気を取り、壁に斜めに立てかける。そのままはめなおしてやってもいいが、今日のはだめだ。木桶に湯をくむ。もっと軽いものがあればいいのだが、私も濡れてしまった、わざわざ部屋まで取りに行くのは面倒だからこれで我慢してもらおう。

 私は首を拾い、顔が上にくるように、そして髪が断面にかからないようにして膝に載せ、まずは用意していたブラシを近づけた。首のほうでもまあまあ予測していたことだろう。嫌々ながら開けた口に先端を突っ込み、泡立てながら歯を磨く。磨けたところで、次に木桶を近づける。首は本当に嫌そうに、心底嫌そうにしていたが、最終的にはおとなしく木桶のふちを軽くくわえた。

 こうまで首が嫌がるのは、私が昔したことを覚えているのだろう。首の、というよりも人体の仕組みについて無知であったころのことを。洗うなら別に口からでなくてもいいのだ、口を閉じても喉は開いているのだから、逆さにして喉から口へと直接水を流しこめばいい。――あれは我ながら少し乱暴だった。反省している。実際に水を使った拷問をいくつか見物してみたが、あれはいかにも苦しそうだ。シンプルだが、生き物は呼吸を制限されると抵抗の気力を失う。

 だが、いまの私は加減を覚えている。

 桶を傾けすぎないこと。五秒流したら五秒休ませること。このときに、肺もないくせに息が苦しいというのはどういう理屈なのだろう、とは考えないこと。断面からこぼれてくる水が綺麗になったら止めること。そういうおもちゃのようだといって面白がると当分無視されるから、使用人が主人に仕えるように仕事としてこれを行うこと。ほら、ちゃんと把握している。

 大体にして首は私の所有物ではない。首がそうしたくない以上、私がそれを強いる理由はない。食べるなら食べる、飲むなら飲むでそうすればいい。食後に食器を洗うように、私に命じて都度に受け皿を洗わせれば、喉の奥まで洗わずとも済むのに。

 ……そういうことをわざわざ口に出して頼むやつではない、とは私がよく知っているのだが。

 頼まないのだから悪い。あと頼まないと知っていて食べさせる私も悪い。だから責任をもって介抱している。このあとのこれも介抱の一環だ。

 首が水を吐き、口を開けているタイミングで桶の手を布巾に持ち替え、歯のあいだに押しこむ。喉の収縮と筋肉の動きで、首が抵抗したのがわかった。暴れたいのに暴れられないのはかわいそうだ。だがこちらも噛みつかれては困る。――これから噛む側が、それを言うのも勝手な話だが。

 私は首を両手で持ちあげ、耳のすぐ下あたりを狙って歯をたてた。私はこれで良い吸血鬼であるから、手段には慣れている。要は瀉血の要領だ。膿んだぶんだけ血を抜いて、新しい血と入れ替えればいい。と思ったが、首だけの首筋を噛んで、噛んだままの体勢を維持するのはなかなか大変だ。片方の手で頭蓋を支え、もう反対側の手がつい肩なり背なりを支えようとして、むき出しの断面をつかみそうになるたび、首筋に拒絶が走るのがわかる。まるで身をゆだねる気が感じられない。

 しかし首の血はお世辞にもうまいとはいえない。血の巡りもなにも、首だけだからだろうか。波打ち際に転がる錆だらけの水筒で、何年海に揺られたとも知れない葡萄酒を飲む。そういう心持ちが一番近い。

 もういいかというところで私は口を離した。しばらく毒抜きをすれば気分もましになるだろう。首の表情は見えないがわかるからいい。わざわざ見たいとも思わない。向こうしばらくは口をきかないだろうが、もともと口数が多いほうでもない。要するに、そう変わらない。


 首にはしばらくこのまま転がっていてもらうとして、私は立てかけていた銀盆を手に取った。銀の盆は盆であるがため触れただけで焼け爛れることはないが、それは単純に手入れを怠っているせいかもしれない。手垢ですっかりくすんでしまっている。それでも首の切り口をとめておけるのだから銀は銀だ。ついでにこちらも手入れしようか? 磨けば鏡面のごとく私の顔も映るかもしれない、万が一にも。



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