第15話 猫
チョコレートケーキを食べて待っている。何を? 舞台の幕が開くのを、である。
劇場としては奇妙なことに座席がない。ライブハウスのように、ドリンクを置けるだけの小さな、そして背の高い丸テーブルが転々と散らばり、そこに人々が止まり木のように集っている。では立食形式のパーティとでも呼ぶべきかと思いきや、やはりそれもふさわしい表現ではない。人々は歓談を楽しむわけではなく、むしろ静かで、服装こそばらつきがあれどもみな一様に舞台のほうへ顔を向けている。そもそも、場内には手元がうっすらと見える程度の明るさしか与えられておらず、照明を向けられた舞台の幕と、舞台とは反対に客席の隅に据えられた薄暗いドリンクカウンターが見て取れる。だから機能としてはライブハウスに近い気もするが、絨毯敷きに緞帳、チョコレートケーキにジンを提供するライブハウスがあるようには思われず、とりもなおさず劇場と呼ぶのがふさわしいように感じられる。
劇場は青く冷たく、海底から見上げる水面のように澄んでいる。
舞台はいっこうに始まらない。
いや、すでに始まっている、のだと思う。
音楽が聞こえるからだ、幕の向こうから。
曲に統一感はない。やはりライブハウスだったのだろうかと思われる、バンドの演奏、ボーカルの声、かと思えばピアノの音、静かでありながら鑑賞を拒むようなジャズピアノ、異国語ではあるがよく徹る俳優の独白、一人舞台。そのどれもがリハーサルであるとは思われず、声だけで音だけで充分に格別を想像するに事足りる。
チケットにはなんと書かれてあったのか、いまさらながら気になったが、確かめるすべはない。もぎりの列をすり抜けてきたから、半券を持っていないのだ。透明人間であるところの私は招待されずとも、こうやってなにくわぬ顔で立っていたところでだれがとがめることもない。首が危険物として判断されれば声もかけられようが、席を回る給仕はテーブルの上の首を対して気にせず、どころか首の分までスープを恵んでくれた。温かいコーンポタージュ。私はともかく首は飲めるだろうか。わからない。かわりにケーキの上のチョコレートを運んでやると、こちらはどうやら食べる気があるらしいので、口にふくませてやる。ケーキのほうはどうだろう。ホールがあと半分、食べてくれるのならうれしいのだが。
ポタージュを手に、再び幕の向こうに意識を向ける。
ピアノの音のそばで誰かが話している気配がする。台詞だろうか。声があるのはたしかだが、言葉としては聞き取れない。演出だろうか。それはこちら側では判断できない。
観客たちはどうだろう。反応は半々だ。舞台に目を投じ、考えるもの。目を閉じて充足するもの。どうして幕が上がらないのかと不安がり、他人はどうしているのかと目を落ち着きなくさせるもの。目の端に舞台をおさめつつ、寄り添って小さく言葉を交わしあうもの。
少なくとも、幕の向こうの人物たちがこちら側の光景を目にすることはない。それでいいのだろう。劇場はたぶんこれで、完成されているのだ。
のすのすと視界の端、客と客との合間で動くものをとらえる。巨大な犬を狼のようなと呼ぶのはよくある表現だが、猫の場合はなんと呼ぶべきなのだろう。長毛種であるらしく、成人男性の一抱え分はありそうな、巨大なまだら色の毛玉だ。彼/彼女は私の足元で止まると、こちらを見上げるような姿勢で小首をかしげた。思わず見つめ返す。かわいらしい顔というよりはたくましく、いぶかる顔つき。首輪はつけていないのか、それとも毛に隠れてしまっているのか、この劇場の猫なのか。
毛に埋もれた口で小さくNon《ナン》、と鳴く。
……みとがめられた以上は、大人しく退場するほかあるまい。
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