第26話 故郷


 砂上にも霜は降りるものだろうか。月の輪郭を蹄で乱しながら、ラクダは六本の足で悠然と歩みを進め続けた。私が歩くよりもゆっくりだが、ラクダは私と違って突然すべてに飽きて砂の真ん中で何もかも放り出したりしない分、確実に前へと連れていってくれる。ラクダたちは巨体をのんびりとさせているようでいて、抜け目のない仕事人だ。町から町へ、コブに蒸留酒を入れて運ぶ密輸ラクダの群れ。彼らは独自に星でも読んでいるのか、決して目的地を違えないし、報酬は前払いでしか受け付けない。ふたりぶんの乗車賃を請求された点だけは未だに納得ができないが、仕事においては信頼ができる。

 乗り合いの首はといえば先刻から眠っていた。私がコブの水音が聞こえやしないかとラクダの禿げあがった背に耳をつけている間に、何もかもどうでもよくなったのだろう。寝るのは別にいいが、私がうっかり居眠りでもしたらどうするつもりなのか。私の腕から転げ落ち、ラクダからも転げ落ちてしまったとしたら。ラクダの歩みは遅いとはいえ、首には絶対に追いつけないはずだ。それとも枯草の塊のごとく転がってでも追いつこうとするだろうか。この陰気極まりない首のことだ、頭蓋骨ひとつになったところで、そんな身軽な動きはしそうにない。ただもしそんなことをする機会があるのなら、ぜひとも私も呼んでほしい。地獄の最下層からだって見物に来てやろう。

 と、そんなことを考えるくらいには退屈している。

 都合よくオアシスでも見つかれば水浴びをしてくつろぐのだが、どんなに見渡したところで砂上は砂だ。砂と、それから月。満月には一日早いがもう十分に膨れている。だから私は砂丘を山々に見立て、かぶった布をずらして月を見上げ、そうしてしばらく寒い風を浴びたところで、思う故郷などどこにもない自分を発見する。

 そういえば語るべき思い出など何もない。火は火だ。炎の中に棲み燃えながら輝く星。だからといってただの火の中に飛び込んだところで懐かしさも何もあるものか。住処。ふるさと。長く居着いた場所。気に入った場所はある。湖畔のホテル。芸術家たちの集う舞踏の夜。あれは好ましかった。だが燃えてなくなったのではなかったか。燃やした、のかどうだったかは覚えていないが。

 そのあたりは首のほうがよく覚えているのではないかと思う。なにせ首は私の首であるらしいから、覚えているなら首のほうだろう。残念ながら首は寝ているし、起きていてもろくに語らないだろうから、首の頭にどれほどの何がおさまっているのかを知ることはないだろう。もしも本を読むように、頭蓋を割って記憶を閲覧できるのであれば良い暇つぶしになるのだが。割ってみるか。試しに、と歯と歯の間をなぞっていた指を首が噛んだ。やっぱり聞こえているのではないか。

 おまえにもあるの、郷愁とかそういうの。

 試しに尋ねてみる。別に興味はなさそうだ。残念なこと。頭を上げて月を見て、頭を下げて故郷を思う。そういうものがこの首にあるのなら、それはすなわち私の故郷であったかもしれないのに。

 腰に下げた荷から、水筒の水を一口だけ飲む。砂漠の風はとにかく砂っぽい。髪越しに見られている気がして、首にも勧める。少しだけ傾けて、かさかさの唇が水をふくみ、閉じようとするのを合図に飲み口を離す。私が眠ろうとしたら、その間だけでも首は起きていてくれるだろうか。

 蒸留酒でいっぱいのコブに背を預ける。

 月は静かに夜を送り、北極星は天上に燃えている。



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