第23話 白


 浅瀬の海で目が覚めた。生物のいない海だ、水は温暖で、薄紅で、ここに生きたものはいない、海だと思ったのは塩辛さを感じるからで、底は浅く、波を伸ばせば金平糖のような水底をさらうことができた。不定形の波は、違う、私は、私は横たわっているのだ、波打ち際に、思い出す、埋もれる砂に四肢の輪郭を感じ取り、沈む重さと波が身体をさらう音を聞き、目蓋をひらけば光が見える、息を吐いた。

 波打ち際にいる。砂浜だ。私は砂浜で眠っていた。

 思い出して身を起こす。濡れた布が重い。手足に砂がまとわりつく。靴に入った水がごぼごぼとうめいて不快だが、不快さは存在の証明といえるだろう。だから構わない。一歩、二歩と砂を踏んで足のあることを確認する。腹を押して取り込んでいた水を吐き出す。海水は穏やかな毒だ。塩で喉が焼ける。乾いているのだろう。

 思考がまとまらない。砂が、白い砂が目に入ったのだろうか、目の前が白く点滅する。ものごとに集中できない。寝起きだから仕方がない、と私は思う。

 起きた。目が覚めた? 夢を見ていた。夢? 何の夢だった?

 よく覚えていない。そもそもここは何層目だろう。層。層だ。重なった高い塔。落ちたのだ。高いところから。それとも望んで降りたのだったか、遣わされたのではなかったか、地の底から、私の生まれは炎の熱されて青く輝く火。たしかそうだった。あまり覚えていない。それは、たぶん昔のことだ。私は物事を記憶しておくのが苦手だ。流動的だから、覚えた端から忘れてしまう。私に残るのは習慣だけだ。

 頭がないからだ、と私は思う。

 水を吐ききってから改めてあたりを見回す。

 砂浜は砂浜、白い砂だ。あの長い髪が砂まみれになっているのかと思うとうんざりしたが、予想に反して首の姿はない。打ち上げられていないということは流されてしまったのだろうか。

 海は海だ、浅瀬の海。ただし広大で果てが見えない。隆起した岩が転々と突き立ってはいるが、いくら目をこらしても親切な誰かが首をさらし首にして掲げてくれているということはなさそうだ。つまらない。

 一方で、陸地の側は町が隆起している。白い砂浜が不意に途切れて壁が、白い壁が、砂と海の侵入を防ぐようにして続いている。白い町。丘陵に沿ってつくられたのだろうか、城郭のような町だなと私は思った。町は伸びをした猫の背のように湾曲し、てっぺんのあたりに尖塔が立っていた。

 海か陸か、どちらに向かったものか。考える。だがこういうのは、結局は行きたいほうへ行くのがよいのだ。私はさきほどまで海で、波だった。塩水には飽き飽きだった。


 町は、石灰で固めた町だ。誰もかれもみな白い。線画で動く人間たちを判別することは最初こそ困難と思われたが、そういう活動写真の中だと思えば歩くには不自由しなかった。それに、道中に生首の住人がいなかったわけではない。彼らは塀の上や、海老籠屋の店先で番をしていて、来客もなく暇を持て余している彼らはそれなりに相手をしてくれた。首というのはいつでも話し相手を探しているものだ。手足の代わりをするものたちは、いついつでも彼らの話し相手になってくれるわけではないし、好きなときに出歩けるものでもない。住処を持つ首は特にそうだ。このあたりで首が歩いているのを見なかったかと尋ねると、たいていの首はおかしなものを見る目を向け、見たさたくさんね、さっきからおれの前を行き来している、向かいの店で買い物をしているのはどうだ、あんたのいう首ってのはどういう首だい、等々の興味を示した。

 私はそこで生首の友人をつくり、生首の恋人をつくった。

 身体から色を抜き、外套を箱の底に押しめ、町に溶けこんだ。悪魔の手腕はよく心得ている。相手が私に何を求めているのか。何を望んでいるのか。どんな言葉を言ってほしいのか。どんな形を好むのか。白紙のキャンバスに描きこむようなものだ。私は誰でもない。何にでも、誰としてでもここにあれるからから、私は常に誰でもない鏡像として振る舞った。空白を埋めるには、空白そのものになる必要があった。誰も私を旅人であるとは疑わない。私もまたさがしものをしていることなど忘れたふりをして、実際に忘れてしまった。

 私は生首の伴侶をつくり、生首とともに過ごした。最期を看取った。

 そうやって、いくらかの首と関係を結んだ。時間などあってないようなものだった。そのうちの一人と子を成した。町の向こうに住む首で、首は首の身で子を持つことは不可能だと知りながら奇跡が起きることを祈っていた。私もそれに付き合った。聖堂の戸に触れるたび私の手のひらは焼けただれたが、やがて同じ手で私は私の膨らんだ腹をなでた。首が喜ぶ。私も喜んだ。この腹の中に入っているものこそ、私がかつてさがしていた首であるはずだった。私は私自身で首を産むのだ。そのとき産まれてくる子こそ私の首だ。これが正解であるはずだ。だが十月十日が経ち、やがて二十を超え、三十にも届こうとするころになっても子は産まれなかった。首の反対を押し切り、私は私の指で腹を割いた。明白なことだ。中には何も入っていなかった。私は空っぽだったのだ。


 唐突に海が聞きたくなり、私は家を抜けて坂を越えた。首は連れなかった。首は私がいたく傷心していると思っていたから、私が何事か思い詰めているのではないかと勘違いして、必死になって私を止めようとした。かわいそうに。まだ声を張っているだろうか。だれか人を呼んでいるだろうか。首から下がないせいで、私の腕ひとつ引っ張ってやれないなんて。あの首はとても穏やかな声で話す、善い首だったのだ。ひどいことをしているとは思わなかったが、思わないことそれ自体がひどいことなのだと知っていた。


 知らぬ間に、海は砂浜の壁などとうに越え、海沿いのいくつかの家屋をその腹におさめていた。それだけの時間が経っていた。あのときの浅瀬は見る影もない。


 ああ、あのとき海に行くほうが正解だったんだな、と私は思った。



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