第5話 旅
この話は私の夢であって一時的狂気の幻などではないのだから、この首と旅をしている私が狂人であると言われると、心外である。私はなにも首級を刈り取って勇み報告にゆく戦士でもなければ、痴情のもつれの末に相手の首を我がものにせしめた情人でもなく、ましてや錯乱の末に墓場を掘り返してきたわけではない。
これが御覧になりたいのでございましょう、と。
思わせぶりに首の来歴を語ってやることもない。だからといって、首に外の景色を見せてやろうと思って善意で連れまわしているのかと問われると、それもちがう。もっとも、そのようなことを問われたのは、記憶にある限り一度もないのだが。
汽車は夕方の午後六時。常のことであるのかは知らないが、古い教室に似た木造の車両に、乗客は私だけだ。時折、ネズミが走りまわるような物音が聞こえるが、座席の横の通路を誰が通っただろうか。目を向けると誰の姿もない。車両のきしみを気配と勘違いしていたか。汽車は幾度か駅に停まったが、他の車両から降りていくらしき人影を見たほかは、存外に静かなものだ。
とうに外は暮れている。私にはもう、汽車がどこを走っているのか検討もつかない。駅に停まる際に一瞬だけ駅名を書いた看板がよぎるのだが、名前に心当たりはない。そもそもが私になじみのない文字だ。いまはおそらく、どこか記憶の中で見たような風景を走っている。
窓は濡れていた。海沿いを走っていたときの、強い雨のせいだ。窓に反射して映る首は、おそらく外を眺めているようなのだが、首だけの体高でなにが見えるのか、せいぜい暗い空か、反射して映る自分の姿が見えるくらいではないか。思うが、そのように話しかけてはこちらが首を気づかっているようだから、言わない。だからなるべく内側の景色ではなく、外側へと目を向ける。
他に乗客がないので、首は一人分として向かい席のクッションに載せている。手荷物として持ち込んだ以上、切符を切りにきた車掌に見とがめられるといささか困ることになる。最初から網棚にでもあげておけばよかったのだが、網棚越しに視線を感じるよりはまだ、対面の座席で転がらぬよう髪を土手にしていてもらうほうが、ましだと思ったのだ。首とはたぶん、これで長い付き合いになる。
と、汽車が止まった。気づかぬうちに駅が近づいていたらしい。プラットフォームには客も駅員もない、街灯が二、三だけ立っている。ひどくさみしい駅だ。
元より我も彼も宴の席を不吉なものにする十三人目、招かれざる客だ。どこへ寄りつくこともない。少し前、城砦のホテルを借宿にしていたころはよかった。若者たちにまじって夜の黒い美しさを歌って、捧げ物の酒をまき散らし、ほどなくして飽きた。退屈したのだ。木曜の星は火の星、ひとつところに留まる星ではない。ホテルが焼けて、焼け出されたのをいいことにそれ以来、外套の羅紗だけが私の手荷物だ。
だから私はどこにいてもいい。なにものでもない。たどり着くべき場所などないのだから、それならせめて、なにか目的でもあればと思ったのだ。理由はただそれだけで、それだけ、だったのだろうか。
マギュート、と。
首がめずらしく私の名を口にしたので、私もまた反射的に首の名前を口にした。相手がそうであるように、私もまためったなことでは首の名を呼ぶことがなかったし、首が私の名を呼ぶときは決まって言外にいくらかの警告を含んでいて、魂に――私にそのようなものがあるとして――ざらつきでもって触れられる感覚がひどく不快だ。
首が呼びかけてきた理由はほどなく知れた。ここが終点の駅だったのだ。いつまでも席に留まっていては、見回りの駅員が来ないとも限らない。私は外套でくるむようにして首を抱え持ち、駅に出て、簡易な柵の前で駅員に切符を渡した。もちろん、一枚だけだ。
が、おとなしくしていれば気づかれようがないものを、首がちょうど柵を抜けるところで咳をしたので、危うく呼び止められるところだった。絵から抜け出てきたような振り袖姿の娘が、どうして枯れた男の声で咳をしよう。呼び止める声を無視して、あとは野となれ、花となれ。木ですらあったことのある私をどうして止められよう。駅舎を離れ、灯りのない闇に溶ける。
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