第11話 ゼネフロイトの姫

 分厚い本と、それに負けない書き物が積み上げられたユーグレストの研究室は、部屋の壁という壁を大きな本棚で囲われている。それでも足りないと、ほとんどの空間はやっぱり本棚で埋め尽くされている。その本棚から溢れた本や紙は、そこら中に積み上げられていて、本の木でも生えているようだ。


 普段は紙をめくる音と文字を書くペンの音しかしない部屋たけど、珍しく人の声が響いている。

 憮然とした表情のマリーアが、派手なソファーの前に置かれたテーブルを力任せにドンと叩いた。この振動で不安定に置かれた本や紙が崩れ落ちないか心配で、私は周囲を見回した……。そんな私の心配はよそに、マリーアはテーブルを飛び越えそうな勢いでユーグレストに迫っている。


「ユーグレスト様、一大事です!」

「一大事とは気になる。うむ、聞こう!」

「マイデル国の王女が、殿下に色目をつかって擦り寄ってきたのです!」

「アーディナル相手に色仕掛けとは、随分と勇気ある行動だな……」

「こともあろうに、あの王女、シュリ様を見下す態度を取ってきたのです!」

「マイデルの王女は、昔から頭が空っぽで有名だからなぁ……」

「わざわざシュリ様と殿下の間に割って入る暴挙! おまけに殿下にしなだれかかり、あのでっかい乳を押し当てる姿は見るに耐えられませんでした!」

「何? けしからんな! アーディナルの顔はデレデレしておったか?」

「恐れながら殿下には興味なかったので、見ていません。それよりも、シュリ様の毅然とした態度が素晴らしかったのです!」


 マリーアは全然恐れてないよね……? 

 あの修羅場で目に入るのは私じゃなくて、しつこい王女を退場させようと苦慮する外務大臣だと思う。あの滝のように流れる汗と下がり切った眉なんて、悪辣魔女を演じている私が思わず声をかけたくなるほどだったよ?


 何が発端なのか、いつの間にか仲を深めたユーグレストとマリーアの二人には、私の心の叫びなんて届かない。

 今日に限らず、制止する私の声も聞かずに盛り上がっているのだ。そんな二人には私の気持ちを汲んでくれと望むのが間違っていると学習した。

 今後の展開が予想できた私は、早くも疲れ果てた。そんな私の視線の先には、頬を上気させて興奮で飛び上がらんばかりのマリーアがいる。


「シュリ様がマイデルのアホ王女へ、それはもう拍手喝采の嘲笑を向けられました!」


 嘲笑って拍手喝采されないよね? いくらアホ相手とはいえ、王女だよ? ここはグッとこらえて余裕の微笑が淑女でしょう? なんて反論したところで、響かないのだ。

 なぜか私に心酔しているマリーアから飛び出す言葉は、何をしたって私が正しいことになってしまう。正しいという表現も違う……。とにかく私が何をしても、何を言っても、恥ずかしいくらい肯定して褒めちぎる。悪辣魔女の演技でも、だ……。


「『貴方、自分の国が何を目的にフーシュスト国に来たか分かっているのかしら?』とシュリ様がおっしゃると、その場の空気が割れんばかりに張り詰めました。正直、空気が割れて、王女に刺されと思いました」

「正直者は、いいことだ」


 褒められたマリーアはえへへと笑っている。お爺ちゃんと、孫の関係にしか見えない。


「空気の読めないアホ王女は愚かにも『怖いぃぃぃぃ』と薄汚い声を上げると、媚び腐った目で殿下に助けを求めたのですよ」

「勇気と馬鹿は別物なのを知らぬようだな」

「まさしくその通りです! 見上げた先に、目から猛毒でも噴射しそうな殿下がいると思っていなかったようです」


 言い得て妙だ。

 対外的にはにこやかなアーディナルが、あそこまで不快感を露わにしたのを、私も初めて見た。


「まあ、あの目を見れば、さすがにアホ王女も殿下のお怒りに気づいたのでしょうね。恐怖で床に崩れ落ちていましたが、その様子も汚らしかったです」

「シュリに見慣れているマリーアなら、余計にそう感じるだろうな」

「あれとシュリ様を比べるなんて死罪です! 死にそうな顔で謝罪を続ける外務大臣に、『その醜い荷物をさっさと回収しろ』と物申しかけましたよ」

「しかし、いつも外面だけはいいアーディナルにしては意外な態度だなぁ。そんなに怒ることが何かあったか?」


 ユーグレストはアーディナルを揶揄おうとするのだけど、当のアーディナルは完全に無視だ。


「殿下の話はいいのです。それよりも、部屋に戻ったシュリ様が私に、『あれで合っていた?』と不安げに確認して下さるのが最高で……。生きていてよかったです!」

「羨ましいのぉ」

「……そういう話は、せめて本人がいない場所でするものでしょう?」


 恥ずかしさも我慢の限界な私が言っても、二人は聞く耳を持たない……。


「照れて可愛いのぉ」

「私の記憶だけでなく、目で見えるよう後世に残したい! 今から宮廷画家に弟子入りしてきます!」


 ユーグレストとマリーアの話がまた加速しそうなところで、パンと乾いた音が部屋に響いた。アーディナルが手を叩いたのだけど、両手には随分と血管が浮き上がっている。


「まさかこの下らない話を聞かせるために、俺達を呼び出したのではないよな?」

 その低い声は、地響きでも起こしそうだ……。


 そうだ、私達はこんな話をするために集まったのではない。ユーグレストに呼び出されたのだ。

 私達の視線を受けたユーグレストは椅子に座り直すと、なぜか身体を私に向けた。

その表情は、さっきとは打って変わって引き締まっている。孫と戯れる人の好いおじいさんではなく、賢人の顔だ。

 部屋の空気もさっきまでの陽気さが消え、少し重苦しさを感じるくらいシンと静かだ。

 楽しい話では、なさそうだ……。



「シュリが女神に乗っ取られていたという話が、儂にはどうも納得がいかない」


 突然すぎて予想もしていなかった言葉に、私の脳の機能が停止した。スイッチが切れている私の横で、アーディナルが猛然とソファーから飛び出す。


「あの時、シュリは嘘などついていない! 馬鹿みたいに信じられない話だったが、紛れもない真実だった!」

「まぁ、そう熱くなるな。儂はシュリを疑っているわけでもないし、アーディナルの力を信用できないと言っているのではない」


 アーディナルらしからぬ冷静さを欠く態度に、ユーグレストは幼子をあやすみたいに微笑む。それに毒気を抜かれたアーディナルは、少し恥ずかしそうに「なら、何だ?」と言ってソファーの背もたれまで後退した。


「女神に乗っ取られたというのは、シュリの思い込みだと儂は思っている」

「なるほど……。それなら私は嘘を言っていないから、アーディナルだって分かりようがない?」

「………」


 アーディナルはきつく両腕を組んで、黙り込んでしまった。

 でも、今度は私が黙ってられない! 思い込みって何? 思い込みで三年も傍観できる?


「私は十五歳以前の記憶がないし、魔力検定も受けていない。自分でも怪しい人間だとは思うけど、女神に乗っ取られたと思い込むほど、自分がいかれた人間だとは思えません!」

「三年前に、そうせざるを得ない状況に追い込まれたのだとしたら?」

「……なにそれ、どういう状況……? 私は自分の力が怖くて逃げ出したはず……」

「もっと、複雑な精神状態だったのではないか?」


 女神に乗っ取られていたことに、疑問なんて感じたことはなかった。なのに、どうしてこんなにも不安で落ち着かないの?

 当の私が曖昧なのに、どうしてユーグレストに分かるの? 何を知っているの? どうして私は知らないの?


 混乱と不安で頭がぼうっとして、もう何も考えられない。そんな私に氷水をぶっかけられたみたいに衝撃的な言葉が飛んできた。

 

「ゼネフロイトという国を知っているな?」


 目の端にアーディナルの肩がビクリと揺れたのが見えた。つい最近話をしたばかりだから、忘れているはずがない。私の心の動揺も見られているはずだ。


 さすが、賢人。こんなに短期間で調べ上げられるとは思わなかった。隠しておくことは、できないな……。


「……その国の名を、忘れるはずがありません!」


 私の答えを聞いたユーグレストは、口をもごもごと話を続けるべきか悩んでいる。そうだろう。私にとっては思い出したくもない話なのだから。

でも、ユーグレストは誰よりも好奇心が旺盛な賢人だ。一度湧いた興味を、そのままにしておくなんてできない。


「……八年前に滅びたその国には、当時十五歳の王女がいた。戦争で国王夫妻も王太子も殺されたが、王女だけは殺された記録がない」

「……」

「そもそもその王女に関する記述が、極端に少なすぎるのだ。まるで国ぐるみで王女を隠していると思えるほどだ。その行き過ぎた隠蔽が、王女に秘密があると語っている」


 仄暗く視線が絡み合う私とユーグレストの横から、アーディナルが声を上げた。

 心の色を見て全て分かっているにしては、随分と落ち着きがなく動揺している。

 あの時の話したゼネフロイト国のことは、アーディナルからユーグレストに伝わったのか。だったら、この展開も納得だ。


「ゼネフロイトの王女が、シュリだったのか……?」

「……そうですよ。私はシュリアーナ・ゼネフロイト。ゼネフロイト国の第一王女だった」


 心の色で分かっていても、そんなに驚くことってあるのね? 

 そう思うほどに、アーディナルは彫刻のように固まっている。


「私が十五歳以前の記憶を失っていたことは、嘘じゃない。結婚式の直前に人格を取り戻すまでは、私は自分が誰なのか知らなかったし、どうして一人で修道院にいたのかも忘れていた」

「やはり、人格を取り戻した時に、失った記憶も取り戻したのじゃな?」


 私がうなずくと、ユーグレストもうなずいた。アーディナルだけが、苛立った声を私に向ける。


「どうしてその時に言わなかった! 『結婚をなかったことにしたい』と訴えるよりも、重要なことだろう!」

「言ったところで何かが変わる? ゼネフロイト国はもうない。亡国の王女だなんて、言ったところで無意味でしょう? 第一、アーディナルは他人に興味ないじゃない。私が誰かなんてことより、悪辣魔女を演じられれば問題ないでしょう」


 アーディナルは唇を噛んでうつむいてしまった。

アーディナルに話したくなかった一番の理由は、「かつて貴方が見捨てた婚約者です」なんて言いたくなかった私の見栄なのだけど……。

 普段は動揺しないアーディナルに落ち込まれると、何だか妙に落ち着かない。

 いつも通り言い返せばいいのに。過去を恨んだ私に仕返しされると思っているのだろうか?


「私がゼネフロイト国の元王女だとしても、救世主の一人として魔獣を倒し世界を守るということは変わらない。その約束は守るから、安心して」


 あれ?

 最大の懸念事項を消し去ってあげたはずなのに、なぜかアーディナルはうつむいたまま顔が上がらない。

 まだ何か言いたいことがあるのだろうか? 言いたいことがあるとすれば、私の方だと思う。

必死の思いで伸ばした私達の手を払ったのは、フーシュシュト国だ。ゼネフロイト国の元王女としては、恨み言の一つも言いたくなる。

 苛立った視線をアーディナルに向ける私に、ユーグレストが静かに言った。


「儂も色々と調べ、推論もたてた。シュリアーナ・ゼネフロイトには、随分と秘密が多いようだ。シュリの口から、真実を教えてくれないか?」

「もちろん、全てをお話しします」



◇◇◇◇◇


読んでいただき、ありがとうございました。

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