第16話 面
彼は毎年、同じ日に一日だけ断食をする。
「一度だけ、人を殺めるまで吸ってしまったことがあるんだ」
今年も、その日がやってきた。彼は静かに黙祷し、やがて顔を上げる。端正な横顔と、満月の瞳に暖炉の火が映り込む。そうして、深い溜息を吐いた。わたしはその時の状況を詳しく聞いたことがない。当人としても蒸し返されたくはない話題だろうし、うっかりだろうと信じて疑わなかったから。種族の特性上仕方ないだろうと軽く考えていたのだ。そこに、一石が投じられた。
「懺悔を聞いてくれるかい」
彼が言う。わたしは二つ返事で了承し、ロッキングチェアで彼を膝に抱えた。アルネが今まで彼のいた席に飛んでくる。そして、彼の話が始まった。
「一時期住んでいた場所の大家が、優しい未亡人の老婦人だったんだ。ちょうど今の君くらいの歳……かな。作りすぎたと言って料理なんかをくれたり、帰りが遅くなれば心配して起きて待っていたりするような、そんな。」
今の君くらいの、と言う時、明らかに声色が沈んでいた。なんとはなしに彼の頭を撫でる。
「ある時、食事が取れない日が続いて……部屋で介抱してくれようとしたあの人を、私は襲ってしまった」
わたしは息を呑む。空腹だとそんなことになるなんて。人間だって飢えている時食べ物がそこにあればそうなってしまうのかもしれないが……。
「そちらは幸い、死ぬことはなかったさ。むしろ驚くべきことに、彼女は今後もそうしてかまわないと言い出した。あなたが信用に足る者だとは知っていると。死なない程度、血をもらいに来るといいと」
なんと肝の据わったご婦人だろう。
「とても度胸のある方だね……」
「そうなんだ。それに甘えて、たびたび血をもらいに行ったものさ。でもある時事件が起きた……家に帰って来たら、彼女が庭に倒れている。しかも、その上には知らない男が跨って、首を締め上げていた」
急展開に目を丸くする。強盗かなにかだろうか。
「私はカッとなってしまって……正直自分が何をしたのかさえ覚えていないほどだ。気づいたら、首を血まみれにした知らない男と、息も絶え絶えの老婦人、ナイフを持ち、口も手も血で汚した私。どこか他人事のようだったが、目覚めたご婦人が声をかけてくれて我に帰った」
状況を脳内で整理する。正当防衛の線は……厳しいか。助けたという理由があってもしょっぴかれるのは避けられない。
「ご婦人は言った。『身体を全部洗って、お着替えなさい。誰にも言いやしないわ。汚れた服は、私が焼却炉で燃やしてしまうからおよこし』と。全て言われた通りにした。男の身体は庭に放っておくことになり、この案件は奇妙な事件として処理された。私はまんまと警察の目をくぐり抜けてしまったのさ」
それを、殊更悪いと思ってこなかった。そんな私自身が、一番恐ろしい。そう言って彼は締め括った。
また、彼の新しい一面を見た。吸血鬼は残酷だと言われることを信じてこなかったわたしだが、本来の性格が残忍でなくても、殺してしまうケースがあるなんて。
「……ごめんね。私は残酷なモノなのかもしれない」
彼が頬の温度を上げ、嗚咽をこぼし始める。わたしはもたもたとティッシュを取り、涙を受け止めてやった。
「わたしはこう思うのだけど……真に残酷な人間は、それを悔やんで泣いたりしないんじゃないかね。きみが残酷なら、隠蔽を唆したその老婦人だって残酷だということになってしまうよ」
彼はためらいつつも頷く。わたしは続ける。
「大丈夫、立ち向かう意志を持つきみは美しいよ」
……ああ、また泣かせてしまった。
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