きおくのあな

篠田澪。

篠田澪。

篠田澪。

篠田澪。

篠田…


寧々「…いてっ…。」


咄嗟にシャーペンを離す。

手首にちくりと針のような、

それでもってどんとのしかかるような

鈍い痛みが襲いかかる。

昨日の時点で腱鞘炎になっていたようで、

ペンを持つだけで

痺れるような痛みが走る。

右手はペンを長いこと持っているせいで

変に力が入ったままになり

ぺんだこのできる部分が

ぺっこりと凹んでいた。

それでも。

それでもペンを手に取らなきゃいけない。

それでも。

私は書かなくちゃいけない。


どうしてここまでしているのかもわからない。

誰なのかもわからない。

ネットに情報はあるのかもしれないけど、

それでも私の持っているノートと、

記憶をありったけ書き残されたノートと

同じような気がしてしまっている。

それを見るくらいであれば

書き続けていた方が忘れない。

忘却から遠のく。

そう信じてまたペンを取る。


寧々「…しのだ…みお。…しのだ…。」


眠るたびに篠田澪に関する何かを忘れ、

忘れないためにも

眠らなければいいと気づいてから

三日三晩この文字を書き続けた。

瞼がどれほど重くとも、

視界が揺らいでしまおうとも、

耳が一瞬遠くなろうとも

篠田澪と書き続けた。


ペンを手にしたまま

もう片方の手でペットボトルを持っては

これでもかとコーヒーを流し込む。

カフェインを取るためにも

ブラックのものを嫌々流す。

泥を飲んでいるような気分だった。

でも、これで起きていられるなら

安いことだった。


篠田澪。

文字は何度もゲシュタルト崩壊を起こし、

どこが名前の区切れ目なのか

わからなくなることが多くなった。

1番上に篠田澪とひとつわかるように書き、

そこから行間すら開けず詰めてゆく。


篠田澪。

篠田澪。

篠田澪。

篠田澪。


篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪篠田澪。


篠田澪。


寧々「しのだ……。」


ずき、とまた鈍痛が走る。

もういつ学校に行って

いつ授業が始まっているのかもわからない。

時間になれば機械のように動き、

まるで何か規律を守るようにして登校した。

学校を休んだっていいはずなのに、

理性なのか何かがそれを止めている。

お昼ご飯らしい時間には

買って持ってきていた

カロリーを摂取するためだけの食事を詰め込む。

そして、私の視線など感じる暇なく

また机に向かうだけ。

水筒の代わりにコーヒーを自販機で買っては

また流し込む。

胃が軋むのを感じたって

それを止めることは憚られた。


でもね、何度も考えた。

なんでこんなことしてるんだろうって。

自分を壊してまで何故

知らない人の名前を書いているんだろうって。


諦めたらいいんじゃないかな。

いいんじゃない?

諦めたって誰も責めないよ。

責めないし、むしろみんな安心すると思う。

周りの視線は気にしていないからか

あまり痛くなくとも、

心配するような言葉を何度も

もらっていることは無視できない。

母親だって、学校の友達だって、先生だって。

皆揃ってノートの中身でも

のぞいてしまったんだろう。

そりゃあ心配になるよね。

急に無理してまで同じ文字ばかり書く

機械のようになってしまったんだから。


それなのに。

どうして。


寧々「…っ。」


手が書くことをやめなかった。

やめたかった。

でも、やめる方が怖かった。


意地になっているだけなのかな。

それだけだったらいいな。


手が痛む、胃が軋む。

それでも手を動かし続けた。


気づけば放課後になっており、

1度書く事を中断して

鞄に荷物を詰める。

いつも話しかけにきてくれていた友達も

流石に異常だと判断したのか

声をかけてこなかった。

教室内のどこにいるのかも知らない。

それくらい周りのことに興味がなかった。


瞬きをするだけで

眠り落ちてしまいそうなほど。

こんな状態でも眠っちゃ駄目。

眠ったら忘れるから。

だから、なんとかして家まで帰らなきゃ。


寧々「……。」


脳内でも何度も繰り返す。

忘れないようにって、

何度も何度も反復する。

脳内で反芻し続ければ

覚えていられるはずだから。


しのだみお。

しのだみお。

…みお。


あぁ、まずい。

書いてないと漢字を忘れる、

音だけしか残らない。

あれだけ書いていたのに。


寧々「…っ。」


自分の記憶力を呪う。

こんなに物覚えって悪かったっけ。

テストはそれほどってわけじゃ

なかったと思うんだけど。

…って解けたんだっけ。

そもそも解いたんだっけ?

日付の区切りがもはやない私にとって

何がいつ起こった出来事なのか

もうわからなくなっていた。


廊下を歩きながらスマホを見る。

ブルーライトを入れれば

目が覚めるって聞いたことがあったから。

スマホを開いては写真アプリを開き、

撮られていた

これまでの記憶らしい何かを見る。

旅行だとか、少し前に流行っていた

おまじないを実行しただとか書いている。

私が知らずのうちに書いた小説じゃないかと

今でも思っている。

だって、その1番下に。


寧々「…好きな人…ね。」


『篠田澪は好きな人』。

そう書き加えられていた。

他にも何度も見返した

『もし記憶が無くなったら

名前をずっと書き続けること。

篠田澪は私にとって

1番大切な人だから』

の文字。

他にもところどころに

「篠田澪は大切な人」と

強調する文が記されている。


好きな人なんていた覚えがないからこそ

より一層小説にしか見えなくて。

…もしかして、本当に小説だったりして。

小説なのに本気にしちゃって

こうして眠らずに書いているだけだったりして。

そう思うと馬鹿馬鹿しくなってくる。

でも確かに数日前…

眠らなくなる前に焦っていた気がする。

忘れちゃったって、どうしようって。

もうなんで焦っていたかすら危うい。

眠っていないからだろうか。

それとも時間が経たから?


寧々「……みお…。」


譫言のように呟く。

そしてゆっくりと目を閉じる。

足の動きが鈍くなる。

手からふとスマホが

滑り落ちそうになった。

ぎゅっとスマホを握るも、

何故か瞼を開く気になれなかった。


あれ。

なんでだっけ。

…。

…あ。

そっか。

眠ってなかったから。

3日、あれ、4日?

眠ってたかったんだっけ。


世界のすべての音が

一瞬遮断された瞬間だった。


「あの。」


寧々「っ!?」


はっとして顔を上げる。

妙に心臓の温度が下がって、

それなのにとくとくと

躍動し始めている。

一気に熱が冷めてゆく。

眠たささえ一時的に

どこかに飛んでいってしまったよう。


揺らぐ視界を時間をかけて整える。

目の前には、前髪を分けた

リボンの色が違う生徒…。

よくよく見てみれば結華さんらしい人が

そこに立っていた。


結華「大丈夫ですか。」


寧々「あ、えぇ…ごめんなさい。」


結華「いえ、謝ることはないんですけど、ちょっと心配で。」


結華さんはこれから部活なのか、

それとも帰るところなのか、

判別はつかないけれど

とにかく鞄を持っていることはわかった。

それから困ったように

こちらを眺めているのも。


結華「何だか目を閉じたまま動いてるように見えたから。」


寧々「…あぁ。」


結華「寝不足ですか。」


寧々「すみません、急いでるので。」


結華「待って。」


寧々「…何ですか。」


眠たかったからだろうか。

まともにご飯を

食べていなかったからだろうか。

苛々が刹那に募って

攻撃的な声が出た。

邪魔をするなって。

このままじゃ忘れちゃうからって

焦りと怒りの混ざった

暗い感情が波のように溢れそうになる。


よくないな。

よくない。

こういうことがしたいんじゃない。

…だからといって

どうしたかったのかわからない。


結華さんは一瞬目を見開くも

すぐに冷静さを取り戻しては

冷たい目つきでこちらを眺めた。


結華「…何があったのかはわかりませんが、酷い顔をしてますよ。」


寧々「…。」


結華「先輩相手にこういう事を言うのは良くないでしょうが…ちゃんと今の自分の状態を見た方がいいかと。」


寧々「……それどころじゃないので。」


結華「じゃあせめて誰かを頼ったらどうですか。」


寧々「…無理です、できません。」


結華「何故?話をするのも無理なんですか。」


寧々「…話をしても誰も覚えていないんです。だから…私が覚えてなきゃいなくなっちゃうんです…。」


ぎゅ、と鞄の肩紐を握る。

そう、私が最後の砦。

そう思っている。

そのはず。

多分。


結華「…私は力になれそうですか。」


寧々「…いえ。」


結華「名前は。」


寧々「………しの………しのだ、みお。」


結華「なるほど。」


寧々「…。」


結華「…私は力になれなさそうですが、きっと誰かは知ってます、力になってくれますよ。」


寧々「適当な事言わないでください。」


結華「そうでもしないと、今の先輩は…そのままいなくなっちゃいそうですし。」


寧々「…いいんです、ほっといてください。」


結華さんを無視するように

そのまま横を通り過ぎる。

ああ。

瞼を閉じたまま開けなくなったから

こんな話し合いになったんだ。

ちゃんと歩かなきゃ。

起きなきゃ。

気をつけなきゃ。


結華「他の人にも相談してみたらどうですか。」


寧々「…。」


結華「もしかしたら何か…何かわかるかもしれませんから。」


結華さんの声は低く耳に届く。

その音はどこからか歪んで、

うねりをあげて聞こえてきた。


寧々「…っ。」


駄目だ。

駄目。

私が覚えてなきゃ。

だから寝ちゃ駄目。

寝ちゃ…。


どこまで頑張れるんだろう。

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