たいせつだったはずのひと

がしがしがし。

ひたすらノートに向かって

シャーペンを動かし続ける。

朝起きてからずっと、ずっと。


がしがしがし。

昨日からテストが始まっているものだから

周りのみんなはテスト勉強をしている。

教科書を見ていたり

自分のノートを見返したり。

少人数は何かしらを書いていたり。


がしがしがし。

手を動かし続けてから

今日だけで既に3時間は経ていると思う。

家の中で朝食前に書き、

登校中は彼女のことを思い出せるよう

先日撮った澪との記憶を

スマホの画面で眺め続けた。

けれど、そのどれもが

まるで小説のようで、

自分事として捉えられなかった。

昨日、ついに澪との思い出の

ほとんどを忘れてしまった。

出会った時や先週のことですら

どんな雰囲気でどんな話をしたか、

ほぼ思い出せない。

空っぽになってしまったのだ。


昨日記憶のほとんどがなくなっては

何に焦っていたのか

一瞬わからなくなった。

どうしてこんなに急かされているんだっけ。

どうしてこんなに不安なんだっけ。

そうして机の上を見た時、

酷く悪寒がしたのを覚えてる。


『もし記憶が無くなったら

名前をずっと書き続けること。

篠田澪は私にとって

1番大切な人だから』


その言葉を見た瞬間、

自分はどれほど非情な人間なのかと

嫌悪すると同時に、

着々と澪を忘れているその事実に

狼狽える他なかった。

それからひたすらに文字を書いた。

ただひたすら「篠田澪」と書き続けた。

ノートの何ページもが

その言葉で埋まった。

埋めた。

それでも澪は記憶からすり抜けて。


そして今日の朝には。


寧々「…っ。」


朝のホームルームげ始まっても、

テストの始まる直前までも

ずっと書き続けた。


今日の朝にはついに

澪の名前まで忘れかけた。

もう残っているものは

篠田澪という名前しかない。

篠田澪がどんな人かもわからない。

どんな話し方をして、

どんな容姿で、どんな声で、

どんな歩き方をして、

どんな仕草を取って、

どんなふうに私と関わってきたのか

何ひとつ覚えていない。


ただ、私にとってその篠田澪という人は

大切な人らしいということだけ。

どうして大切なのかもわからない。

けど、忘れちゃいけない

ということだけわかる。

執念に似たそれが

どこから湧いているかもわからない。


私にとって篠田澪は

大切な人らしい。

けれど、その実感がない。


寧々「……澪…。」


テストの問題を解き終わる間に

澪の名前を忘れてしまいそうで怖かった。


忘れたらいけない。

忘れたらいけない。

忘れたら最後。

もう2度と思い出せない。

思い出せなくなったら終わりだ。

終わらせちゃ駄目だ。

駄目だ。

駄目。


問題用紙が回収されるとしてもされずとも

紙の空きスペースに「篠田澪」と

ひたすらに書き続けた。


それでも記憶が戻ってくるわけじゃない。

人の名前なのはわかるそれは、

「田中太郎」だとか「山田花子」だとか

知らない人の名前を書き続けているに等しい。

思い入れも何もない文字を

連ね続けている。


午前でテストが終わったからよかったものの、

帰りのホームルームをしている間も

終わってもなお

机に齧り続けていた。

今日でテストが終わって

多くの生徒がはしゃぎながら

帰っていくのを横目にすらせず

まだペンを持っていた。


時間感覚が無くなる中、

ふと教室の後方から声が聞こえてきた。


「この席ってだれのでもないよね?」


「え?うん。」


「もしかして転入生とか?」


「まじ?あつ。」


「先生に聞いてみようよ。」


「おっけー。」


誰の席でもない。

その言葉を聞いて緩やかに顔を上げる。

忘れないようにと手を動かしたまま

顔を上げたせいで、きっとノートには

急激に文字が泳ぎ出していることだろう。

3人のクラスメイトは

まだ教室に残っていた先生に

駆け寄るようにしては口を開く。


そういえば。

ふと思って手を止めて振り返る。

後方で窓側にひとつ、

空席があったのだ。

当たり前のようにそこにあるものだから

あまり気にしていなかったけれど、

思えば誰の席でもない。

だが。


寧々「……澪…?」


記憶の書き残しから

澪は同じクラスだったことがわかっている。

それに、澪の家に行ったらしい記録から

彼女のものはたとえ記憶が入れ替わっても

そのまま残っているとわかっている。

そして誰も覚えのない机と椅子。

もしかしたら、と思うも束の間。

先生がその席に近づいていった。


先生「あら…ほんとねぇ。誰がおいたのかしら。」


「えー、悪戯?」


「にしてはなんか都市伝説みたいな感じだよね。」


「転入生かと思ったのになー。」


「もしかして七不思議的な感じであるんじゃない?」


「え?」


「翌日になると生徒が増えてる…みたいな。」


「んなわけあるはずないでしょー。」


「ま、それもそっか。」


「最近そんなんばっか流行ってるよね。10年のおまじないとかさ。」


「あーあったね。あれ派生したやつめっちゃ聞いたわ。」


「2つは知ってるけどそんな広まったん?」


「やばかったよ。ガセ混ぜてる人もいただろうけどうち調査だと3はある。」


「え?5つはあるって聞いたけど。」


「やばすぎ。結局全部嘘だったんだろうねー。」


「おまじないってそんなもんよねー。」


先生が空席について

あれこれ連絡のためのファイリングを

見返している中で、

空席の後ろでたむろしていた

クラスメイトたちは口々に話していた。

先生はその言葉が一切耳に

入っていないかのように

連絡を見返すも、

結局有益な情報が見つからなかったのか

ふう、とひと息吐いた。


先生「教えてくれてありがとう。こちらで回収しておきますね。」


「はーい。」


「さよならー。」


先生「はあい、テストお疲れ様。」


先生は穏やかな声のまま

クラスメイトを見送った。

教室にはまだ数人残っているけれど、

例の3人がいなくなると

随分と静かになったように思えた。


先生が「さてと」と小さく声を上げては

近くに書類を置いて、

その机を持とうとした。


あ。

駄目だって思った。


寧々「先生待ってください!」


思わずのこと。

思わず持っていたペンを置いて

先生に声をかけていた。


先生は勢いよく振り返っては

ぎょっとしたように目を見開いている。

どうやら驚かせてしまったらしい。

教室に残っていた

数人の生徒もこちらを見ていた。

刺さる視線が痛い。

「急に何で声を上げたんだ」と、

奇妙なものを見るような目つきに見えて

酷く棘のように突き刺さる。

それでもどうでもいいと

脳内で振り切っては

先生の元まで行く。


先生「どうかしましたか。」


寧々「その…この机はそのまま置いていてください。」


先生「…え?」


寧々「お願いします。」


理由もうまく話せる気がしなくて

早々に頭を下げる。

それすら見届けている

クラスメイトはいるだろう。

痛い。

痛くても引き下がれないし

引き下がっちゃ駄目だと思った。

理由のない呪いが

永遠と脳内を支配している。


先生「何か聞いてるの?」


寧々「……いえ…でも、お願いします。そのままにしていてください。お願いします…っ。」


先生「…。」


寧々「お願いします…。」


頭を下げるしかない。

それでしか…

それでも止められないかもしれない。

そしたら…また澪のいた

形跡がなくなってしまう。

篠田澪という人がいなくなってゆく。

消えてゆく。


…なのに、不意に誰のために

頑張っているのだろうとも思ってしまう。

記憶のない人のため、

だれかも知らぬ人のために

どうしてこんなに

むきになっているのだろうって。


それでも先生は

真摯さ紛いの何かにあてられたのか、

「わかりました」と静かに言った。


先生「そこまでいうなら何か理由があるんですよね。」


寧々「…。」


先生「なら、もう少しそのままにしておきます。」


寧々「本当ですか…!」


先生「えぇ。…まあ、ほんの少し掃除が大変になるだけですから。」


寧々「ありがとうございます…っ。」


先生「でもひとつ。この机は1番後ろに持っていってもいいかしら。ひとつ後ろの席と交換って形ね。黒板は少しでも近いほうがいいと思うのよ。」


今いる生徒のことを思うのは1番だし、

その提案を受け入れれば

澪の席はひとまず確保できる。

どこかに持って行かれることはない。


これは私が守らなくちゃいけない。


寧々「わかりました。本当にありがとうございます。」


もう1度頭を下げて先生にいう。

先生はまた優しさの溢れる声で

「テストお疲れ様」と言った。


それから教室に残ったまま

また「篠田澪」と

書き連ねていてもよかったが、

刺さる視線があまりに心に影を作ったのか

逃げるようにして家に帰った。

お母さんの「おかえり」という言葉も

ろくに耳を通さない。

くたくたのまま、また学習机に向かい

「篠田澪」と連ねる。


近くには覚えのない

青色のビー玉と白い石。

すぐさま捨ててしまおうか、

こんな雑貨でもなさそうな何かを

いつ拾ってきたのだろう。

それこそ私が高校1年生の頃とか?

けれど、どうにも記憶がない。

片付けてしまいたかったが、

それ以上に書いていなければ

僅かずつだが篠田澪が消えていきそうで、

ペンを動かすことしかできなかった。


文字を書いていると、どうしてだろう。

テスト終わりで気でも

抜けてしまったのだろうか。

眠たくて仕方がなかった。

それもそのはず。

テスト勉強に追われていたのだから。

受験も近く、勉強に追われる日々の中

篠田澪のことも気にかけて

何故か延々と焦っている。

そりゃあ精神も磨耗するわけで。


寧々「…少しだけ。」


少しだけ。

少しだけなら大丈夫。

5分眠るだけ。

少しだけ、休憩するだけ。


何度も自分に

言い聞かせてから机に伏せる。


大丈夫。

大丈夫。


ここのところのいくつかの晩を

こうして眠っていたななんて

今更思い出していた。





°°°°°





「寧々。」


「寧々。吉永寧々。」


声がしない。

音がしない。

真っ暗な背景から

灰色のような見えづらい文字が

浮かび上がってくる。


「作っとらんあんたの方がいいと思う。」


寧々「作ってなかったら無愛想極まりないですよ?」


私が弱々しく返事をしている。

文字と会話している。

まるで手紙に口で

返事をしているみたいだった。


「話してて疲れない人は絶対いる。」


寧々「ふふ、確かにそうですね。」


力なく笑う。

でも、この文字がそういうなら

何故か大丈夫だって思った。


寧々「私、自分のことを捨ててもいいと思います?」


興味本位で聞いてみる。

どこからともなく

波紋が広がっていき、

文字が、浮かび上がってきつつある

その文字が見えづらくなってゆく。

まだ浮かび切っていないにも関わらず

自ずと波紋だらけになっては

その文字が見えなくなっていく。


ああ、私。

さっきまで何を思い浮かべていたっけ。





°°°°°





寧々「…?」


重い頭を持ち上げる。

すると、タイマーがなっていることに気づく。

スヌーズ機能でなっていたらしく、

5分の予定が10分眠っていたようだった。

はっと顔を上げると、

すでに沈みそうな陽が目に痛い。


痛い。

そうだ。

さっきまで教室にいて…。

それで、刺さる視線が痛くて。

それで…。


寧々「…何だったっけ。」


何で私、敬語を使っていたんだっけ。

何が苦しかったんだっけ。

誰も一緒にいたんだっけ。


寧々「わっ…!?」


顔を上げて、手元を見ては驚愕する。

思わず声が漏れた。

そこには夥しい数の文字。

同じ文字。

「篠田澪」と永遠に綴られたノートがそこにー。


寧々「…っ!?」


違う。

違う、違う、違う違う。

私…今、忘れてた?


篠田澪を忘れてた…?

大切な人のはずなのに?


寧々「駄目だ、駄目…篠田澪を忘れちゃ…。」


何がここまで私を

突き動かすのかわからなかった。

誰なのかわからなかった。

でも、でもこのままじゃ駄目だ。

駄目だってことはわかるの。


慌ててペンを手に取り

より一層机に齧り付く。


書くのを辞めちゃ駄目だ。

眠っちゃ駄目だ。

そうだ。

眠る毎に色々なことを忘れたはずだ。

きっと香りも声も顔も姿も記憶も全て。

じゃあ眠らなければいい。

眠らず書き続けていれば、

名前だけは…

篠田澪っていう言葉の並びだけは

忘れることはない。


ネットを見ている時間も

ご飯を食べる時間だって惜しい。

そうだ、眠らないようにコーヒーを

体に流し込んでおこう。

エナジードリンクでもいい。

じゃなきゃ私は眠ってしまう。


寧々「篠田澪…澪…っ。」


お願い。

お願いです。


この人が誰なのか

私に教えて。


そして私に、

この人が誰なのか実感させて。


大切だったはずの人なの。

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