あなたの隣を 後編
眠っていると、布団の暖かさに埋もれて
目を開くことは出来ようと
そこから脱出することは難しい。
暖房が付いているとはいえ、
布団に篭った温もりには
誰も勝てやしないだろう。
寧々「…起きました…?」
隣ではボブから少し
伸びた程度の髪を
枕の上に散らしながら、
こちらを横目で眺む吉永がいた。
彼女もたった今起きたようで
ほぼ目が開いていない。
澪「ん…。」
寧々「寒いですね…。」
澪「じゃあいい天気やな…。」
寧々「ふふっ…それもそうですねぇ。」
寝返りをうってみれば、
言葉の通り天気はいいようで、
窓と障子を通した
薄く細い、霞のような日差しが
うちら2人の布団を照らしていた。
電気を消していても
空間そのものが光を纏っているようで、
まるで眠りかけた
蛍の腹の中にいるようだった。
吉永の方へ寝返りを打つと、
彼女もこちら側へと
寝転びながら体を向けていた。
寒いのか口元を布団で隠している。
寧々「あの後はすぐ眠ったんですか。」
澪「見ての通り、手紙を書いてからって感じやな。」
吉永の荷物の上を指差す。
上体を少しだけ起こしては
「わ」とだけ声を上げ、
また布団の虫になった。
寧々「いつの間に。」
澪「あんたすぐ寝よったもんね。」
寧々「記憶にないんですよね。布団の上に寝転がったところまでは覚えているんですけど…。」
澪「うちもぱっと見たらうも布団にもぐっとってさ。いつの間にって思ったとよ。」
寧々「よっぽどだったのかもしれません…。」
澪「寝不足っぽかったしな。」
寧々「あ、バレちゃいました?」
澪「だって手紙書いとったん0時やったっちゃろ?」
寧々「そんなことも書いてましたね…。」
澪「寝ぼけながら書いとったやつやん。」
寧々「そ、そんなことはないですよ?前半は。」
澪「前半は、なぁ。」
2人とも起きるのが遅く
のんびりとしてしまったため、
午前の間はゆっくりすることになった。
こうして少し遅くに起きて、
のんびりと誰かと話すことなんて
あんまりなかった。
姉とすらない。
布団から出て話すことはあれど、
布団に潜ったまま
知らない匂いに包まれて話すことは
思い出すこともできないほど
昔のことのように思う。
また布団に潜ろうとした時、
ごろんごろんと布団にくるまりながら
吉永がこちらに転がってきた。
敷布団が横に並べられていたため、
ベッドではない分
落ちるなんてアクシデントはないものの、
転がり方が下手だったのか
布団が殆ど置いてけぼりになっていた。
彼女の背中がうちの顔下に
すっぽりと収まる。
同じシャンプーを使っているはずなのに
何だか違ういい香りが漂っていた。
寧々「ふふ。」
澪「なん。近いわ。」
寧々「楽しくなっちゃって。」
澪「まぁ修学旅行っぽいしわかるわ。」
寧々「もういっかい行きますよ。」
うちが有無を口にする前に
吉永は剥がれた布団の上を転がっていった。
助走をつけることが楽しいらしい。
敷布団も厚みがあって
転がっても痛くないのだろう。
お化け屋敷同様、
1人怖がっていたら
もう片方は冷静になるように、
楽しんでいる吉永を横目に
何をしているんだろうと
ぼうっと見つめるうちがいた。
ころころと転がってくると同時に、
回っていない頭のまま
待ち構えるモンスターのように
布団をぱっと開く。
まるで食虫植物のようだなんて
鼻で笑いながら思う。
転がる彼女は歯止めが効かなかったようで
そのまま食われるようにして
また定位置かのごとくぴたりと止まる。
寧々「そのまま手を下げてくださいよ。」
澪「え?なんで。」
寧々「寒いからです。」
澪「あーね。」
言われるがままに手を下ろす。
すると、まるで後ろから
抱きしめるようにして
横になっていることに気づく。
寝ぼけていたことを理由にするのは
本当によくないが、
すぐに離れるように言うべきだろうか。
けれど、すぐ離れろなんて言うなら
そもそも食虫植物ごっこなんて
するなと言う話であって。
これまでの私では考えられないが
流石に理不尽が過ぎるかと思い、
仕方なしと言い聞かせて静かに過ごす。
さっきまで布団を挟んでいて
わからなかった体温が直に伝う。
布団が分厚くて暖かいせい。
焦っているのか気まずいのか、
首裏に汗の滴が
浮かび上がっているような気がした。
寧々「これだと二度寝は朝飯前になりそうです。」
澪「10時にチェックアウトやし、それまでに準備せな。」
寧々「そうですねぇ。あと1時間くらいいけます?」
澪「そうやね。」
寧々「こういう時になってつくづく思うんですが、やっぱり篠田さんって見通すことが得意ですよね。」
澪「そんなこと全くなかよ。」
寧々「思い返してみてくださいよ。今だってそうですし、旅行の予定を立てる時だって。翌日学校だから昼の3時には解散しようって言っていたじゃないですか。」
澪「実際に行動に起こすかは別問題やろ。」
寧々「そうかもしれませんが…それでも、1度見通しを立てているだけいいことだと思います。」
きっと何を言っても
いいように言い返してくるのだろう。
そのうちうまく返せる言葉がなくて、
はたまた吉永のことを
困らせて話を終える未来が見えてしまい、
口を結んでは彼女の髪に顔を埋めた。
深みのあるラベンダーのような、
優しい香りが微かに鼻をくすぐる。
鼻息がかかったのか、
蓑虫のように少し心地悪そうに動いていた。
寧々「くすぐったいです。」
澪「ん。」
寧々「あ、興味なさそう。今度やり返しますからね。」
澪「はいはい。」
寧々「もー…。どうします、そろそろ起きて準備しますか。」
澪「二度寝するんやなかったん。」
寧々「二度寝はいつでもできますが、篠田さんとの旅行は限りがあるので。」
そういうと、うちの手に優しく触れては
草臥れたアーチをくぐるように
腕を押し上げて出ていった。
刹那、冬の冷気が替わりに潜り込んでくる。
吉永は布団から這い出ると、
「寒い」と何度も言いながらも
上着を羽織っては大きく伸びをした。
寧々「おはようございます。」
澪「おはよ。」
学校以外でこの挨拶をするのは
自分の感覚にないことで、
本当に2人で旅行しているのだと
再度認識する他なかった。
重い腰を上げて
漸くのことで布団から出ては
朝の準備をした。
朝食はどこかで軽く
モーニングのようなものを
食べれたらいいねなんて言い合う。
荷物をまとめて持ったまま
移動することになるもので、
あまり多くの場所は見て回れない。
が、昨日移動中に少しばかり
話題に上がっていた
大涌谷に行こうということになった。
くろたまごが有名らしく、
どうやらカフェもあるらしいので
そこで軽くお茶して
帰るのもいいねと話す。
どこから見ても
ただの友達でしかない。
そのように見えるだろう。
でも。
けど。
そう言っては利害関係という言葉がよぎる。
何度も思い返した。
うちは存在を象るために、
吉永は真面目を象るために。
なら目の前で楽しそうに話す彼女の笑顔は
嘘だと一概に言い切れるのだろうか。
°°°°°
澪「あんた、嘘ついてないよな。」
寧々「そう見えますか。」
澪「いいや、鎌かけただけや。」
°°°°°
数日前に彼女へと投げかけた問いが
不意に頭の中で反芻された。
今が夜中じゃなくてよかった。
暗かったらその闇に溶けるように
思案が勝手に巡るのだから。
止めようもなく悶々とし続けなければ
ならない状況を避けられて
よかったと安堵する他ない。
今でも彼女に、吉永に
同じ問いができるのだろうか。
何に対して嘘をついていないか
問いたいのだろう。
これまでの全てのこと?
それとも、うちらの利害関係?
はたまたもっと違った何か?
寧々「危ない。化粧水忘れるところでした。」
澪「よかったな。思い出せて。」
寧々「もー本当ですよ。」
うちはあなたに
何を問えばいいのだろう。
問わなくてもいいのだろうか。
この信頼関係は本当に
利害関係関係だけで収まるのか。
じゃあ朝のは。
昨日の晩は、昼は、朝は。
それよりもっと前だって。
うちが一方的に毛嫌いしていた時だって。
うちらは一体なんだったんだろう。
荷物をまとめ終えると、
吉永は「じゃあ行きますか」と
少々物憂げに言った。
悲しくなるのはわかるけれど、
まだ今日が終わったわけじゃない。
肩をすくめてみると、
彼女は困ったように笑った。
ロビーに向かうと、
ピークになりうる
10時前後を避けられたおかげで、
他の観光客は視界には入らなかった。
遠くでかたんこどんいっている。
食器を運んだり洗ったりでも
しているのだろう。
寧々「チェックアウトでお願いします。」
客室の鍵を渡す彼女をすぐ後ろから眺む。
係員は目元を細めて受け取るも、
すぐにあたりを見回した。
「お1人でしたっけ…?」
澪「…っ!」
はっとする。
そうだ。
昨日の今日で吉永と長くいすぎて
わからなくなりつつあったけど、
吉永以外には見えていないのだった。
透明具合はどのぐらい進行しているのだろう。
1度触れただけでは
もう1日持たないことは知っている。
半日、6時間…。
一体何時間もつのだろう?
が、と昨日の浴槽のように
腕を絡ませてくる。
するりと下に下がり
手を握られた。
すると、微かな風に合わせるように
係の人は目を身開いた。
寧々「2人です。」
「あ…!すみません、失礼いたしました。」
すぐに手を離しては
係の人と話すところを眺める。
澪「…。」
息を浅く吸う。
そして吐くことを忘れて飲み込んだ。
旅館を出てからは
荷物を持って大涌谷へと向かう。
箱根湯本駅からバスで大体
1時間ほどかかる。
横並びになって座るも、
互いにリュックやボストンバッグがあるもので
窮屈な席となってしまった。
澪「重くないん?」
寧々「あんまり入ってないんですよ。ほら。」
そう言ってはボストンバッグを
4分の1ほど縮めてみせた。
元より腕を伸ばした時の
長さほどある鞄だったため、
随分と小さくなったように見える。
寧々「主に服ぐらいですから。」
澪「預けられる場所があったらロッカーとか入れとった方が良かったかもな。動きづらそうやし。」
寧々「そんなことないですよ。このくらい楽勝です。そういえばー」
そうしてまた話している間に
長かったはずの1時間は
あっという間に過ぎていった。
到着して降りてみれば、
山々が異様なほどに近く感じた。
山に登る前でさえ
標高は高く景色がいいというのに、
さらに上に登ることができそうな道がある。
荷物が多いこともあり
登ることはやめることになったが、
くろたまごを販売している場所があり、
吉永に頼んで購入した。
そのすぐ横に「くろたまごとは?」と
それを説明している広告が目に入る。
購入し終えて戻ろうとした時、
吉永の目にも届いたらしく
手を指して口を開いた。
寧々「見てください。くろたまごを食べると寿命が7年伸びるって言われてるんですって。」
澪「へえ。幸か不幸かぴったりやな。」
寧々「本当、幸か不幸かって感じですね。」
澪「これがあるって知ってて来たと?」
寧々「いえ、箱根旅行といったらここ、みたいなサイトを見てたら何度もヒットしたんです。」
澪「なるほどな。景色もいいしわかるわ。」
外に出てはベンチがあり、
天気が良いこともあってそこに座る。
卵の中身は普段と一緒で
黄色なのかと内心驚きながら
2人でぱくつく。
朝食も食べていないもので
それだけでは足らず、
カフェが併設されているのを見つけ
そこで食した。
景色も食も堪能し、
時刻はあっという間に
12時を回っていた。
惜しいなんて気持ちが僅かに形を描く。
今日が終われば明日はもう月曜日。
夢は終わり、現実に戻る。
あのひとつの机と椅子に
6時間拘束されるのだ。
それがうちら学生の日常であって、
今は非日常でしかない。
それでも、明日からも
学校に通うのだろう。
たとえ見えなくったって行っては
吉永と少し話して帰るのだろう。
長らく待機してバスに乗り込むと、
最初の方に並んでいたこともあり
1番後ろの席を確保することができた。
ぽかぽかとした日差しと
時々強いが大抵は心地いい
バス特有の振動が相まって、
うつらうつらとしてしまう。
寧々「眠いですか?」
澪「…ちょっと。」
寧々「いいですよ。ちゃんと起こしますから。」
その言葉を最後に、
彼女の声が耳を掠めることはなかった。
がら、がらん。
揺れる度に夢に引き摺り下ろされるようで。
°°°°°
「うえーん…うぁーん…。」
誰かが泣いてる。
まず初めに思ったことだった。
あたりは鬱蒼としていて、
光がほぼ入ってこない。
遠く遠く、木々の間に
夕闇がこちらをのぞいているだけ。
湿った土、茂った草木。
手のひらはちくちくと
小さな葉が刺してくる。
澪「おねぇちゃーんっ…ママぁーっ!パパぁーっ…!」
ふと隣を見ると、
蹲って泣いている幼い自分がいた。
しゃがんで顔をまじまじと見つめる。
思っていた以上に涙でぐしゃぐしゃだ。
澪「だれかぁーっ……ねーえー…!」
子供の泣き叫ぶ声は耳にも心にも
痛いとは思っていたが、
自分自身の声ですらそう感じる。
澪「だれかぁ…。」
小さい頃のうちは手をグーパーと広げた。
もらったものを無くしてしまったから。
一緒に見つけたビー玉を
無くしてしまったんだっけ。
もうだめだって。
うちはここで1人で生きていくのかも。
動物と会ったらどうしよう。
人と会うにはどうしたらいいんだろう?
でもママの電話番号
ちゃんと全部言えたっけ。
どうしよう、ど忘れしちゃうかも。
そんなことばかり考えては
嗚咽と涙が止まらない。
思い出すとこちらまで泣いてしまいそう。
本当に助からないのかも。
そう思った時だった。
「みおちゃん!」
ぱ、と目の前の草木が払われ
視野が開けたような気がした。
まるでヒーローのように見えた。
安心し切ってしまって、
さらに涙が溢れてゆく。
伸ばされた手が
嘘偽りもなく本当に
神様のようにすら思えた。
澪「…!ごめんなさぁぁい…!ぅ…ぇぅ…うあぁぁーっ…。」
幼い自分はその人に
抱きつきながらそう言った。
そっか。
この時謝ってたんだ。
°°°°°
澪「…ぃて…。」
がたん、と大きな揺れがあり、
振動で頭を何かにぶつけて目が覚める。
窓側に座る彼女は
こちらに顔だけを向けて言った。
寧々「…起きちゃいました?」
澪「…まだ寝る……。」
寧々「わかりました。」
ふと手に違和感がある。
目だけを動かして見てみれば、
どうやら指を絡めるようにして
手を繋いでるようだった。
寧々「篠田さんが繋いできたんですよ。」
澪「適当言っとうやろ…。」
寧々「さあ。」
澪「…もうよか。」
そう言って吉永に体重を預ける。
さっきの大きな振動の反動でぶつけたのは
吉永の方のようだったらしい。
彼女は何を思ったのか、
うちの頭へと頭を軽く倒したような
僅かな衝撃があった。
またあの香りが鼻に届くかと思いきや、
バスの香りが邪魔をして彼女が遠い。
それから再度眠りにつくまでは
そう時間を要さなかった。
バスから降りる頃には手は離れており、
今度は電車に乗って
また1時間ほど移動することになる。
寧々「早かったですね。」
澪「な。」
疲れもあってか、会話がだんだん
小雨のように少なくなってゆく。
本当に旅行は終わるらしい。
電車に乗るのも嫌になるほど。
帰りの電車でも
きっとぐっすり眠るのだろう。
今回こそ乗り換えが何度かあるので
ちゃんと起きていなければ。
そう思っていると、
そう言えば先ほど夢を見たことを思い出した。
幼い自分が泣いていて、そして。
澪「なあ吉永。この後時間ある?」
寧々「え…?ありますけど…。」
澪「1箇所行きたいところがあると。時間は過ぎてしまうっちゃけど…もし良かったらついて来てくれん?」
元は15時で解散する予定なのに、
それを大きく上回ってしまう。
吉永も休みたいだろうしとも思ったけれど、
理由を…言い訳をしていいのなら、
多分もう少しだけ
現実に戻りたくなかった。
吉永は一瞬きょとんとしたものの、
すぐに眉を下げて優しく笑った。
寧々「もちろんです。どのあたりですか?」
澪「本厚木の方。帰るルートとは違うんやけど…。」
寧々「無問題です!すぐに向かいますか。」
澪「ん。」
ありがとう。
そのひと言を呑み込んでしまっては
2人でまた電車に乗る。
本厚木駅からまたバスに乗り換えて、
しばらく移動することになる。
そしてバス停を降りてから
さらに数分歩いたところ。
そこが今回の目的地だった。
荷物が多いこともあり、
肩が疲弊して来た時のこと。
彼女も何度か肩を変えて
鞄を担いでいるのを
横目にしていると、
唐突にその場所は現れた。
マップを開いていた
スマホの画面を消す。
冴えない顔をした自分と対面するも、
見ないふりをするように顔を上げた。
澪「ここやね。」
寧々「七沢森林公園?」
澪「そ。ここからちょっと坂上がったりするけどよか?」
寧々「はい。ついていきますよ。」
疲れているだろうのに、
彼女はそれを感じさせない笑顔で言っていた。
ここに来たかったのにはもちろん理由がある。
夢で見てから触発されてしまった。
当時あの後見つけてもらった後、
けろっとして遊んでいたのか、
それとも何かしら父親の会社の人が
集合していたんだったか、
この巨大な公園の奥へと進んでいった。
今度は道に沿って、
多くの人と歩いていった覚えがある。
夏に行ったものだから
虫も多くて木々も生い茂り
大変だったような記憶があった。
自分自身が小さかったからかもしれない。
大人はずんずんと進んでいっていた。
何分歩いたかわからないが、
長いこと歩いて漸く
視界がぱっと開けた。
そんなことを思い出しているうちに
早いことに今歩いている道も
視界が開けた。
まだ残っている紅葉の葉が
その景色のフレームとなって
より優美に見えた。
そこにはベンチがいくつか散在しており、
そしてその奥には広大な空。
街を一望できる広々とした空間が
目の前にあった。
寧々「わぁ…!」
澪「…良い景色やね。」
寧々「ですね…!天気が良いのもあってより一層。」
記憶の中でも、最後はこの景色を見て
キャンプを終えたような気がしていた。
だが、実際はどうだったろう。
迷子になっていた時から
日付を回っていたかもしれないし、
そうではないかもしれない。
食われてしまいそうなほど、
はたまた世界が終わってしまいそうなほどの
夕日の色が脳裏に焼き付いていた。
それから福岡に帰っても
どうしても忘れられなくて、
忘れたくなくて
親に場所を聞いた。
すると、こう言ったのだ。
「ながめの丘」っていう場所だよ、と。
寧々「どうしてここに来たかったんですか?」
ベンチに座りながら彼女が言う。
何度目だろう、隣に座って
その景色を一望した。
澪「小さい頃に来たことがあったと。」
寧々「そうだったんですね。結構小さい頃のことは覚えている方なんですか?」
澪「うーん…どうやろ。ただ、ここではいろんなアクシデントが起こったけん、ちょっと印象深くて。」
寧々「へえ…何があったんです?」
澪「別に面白いことは何もなか。」
寧々「えーそう言わず!」
澪「吉永は小さい頃のこと覚えとうほう?」
寧々「あ、話をすり替えましたね。」
澪「んで、どうなん?」
寧々「強引な。私はあんまり覚えてないですね。」
澪「あー…やろうな。」
寧々「思い出すきっかけもない…というか。なんて言えばいいんでしょう。」
澪「あれっちゃない。直近であったことが色濃過ぎて他を思い出せん、みたいな。」
寧々「あはは…そうかもしれません。本当にいろいろありましたし。」
特に高校入学して以降のことだろう。
不登校、兄の急死、母親との生活、
そして世界線の変化。
兄は存在ごとなくなり、
今の吉永にあまり関与していないとはいえ
三門こころも姿を消した。
その全てが体に、心に
負荷をかけるものであったことには
違いないのだ。
寧々「…時間が経ちましたね。」
澪「ほんまにな。」
寧々「ふぅ…こうやってぼんやりするだけって言うのもいいですね。」
澪「慰労会やしな。」
寧々「ふふっ。ですね。」
ボストンバッグを座っている隣においては、
後ろに手をついて空を眺めていた。
うちはリュックを未だに
前に抱えたまま
それに顎を乗せて住宅街を眺む。
澪「あのさ。」
寧々「はい?」
澪「言いたくなかったら言わんでいいっちゃけど。…不登校やった理由ってなんやったん。」
高校に入学してから
数ヶ月は来ていたと思うが、
確か夏休みあたりからは
本格的に来ていなかった気がする。
帰る時の通り道だからという理由かつ
当時はまだいい子ちゃんをしていたこともあり、
いつからかうちが
配布物を届けるようになっていった。
顔を合わせることは
ほぼなかったけれど、
数回玄関に出て来てくれた時があった。
その時は髪が長かかったように思う。
放髪しているに近かったけれど、
それでも森奥に住む魔女のようで、
微かに興味を抱いていた。
寧々「…ふふっ。気になります?」
澪「少し。」
寧々「何となくですよ、何となく。」
澪「ふうん。」
寧々「誤魔化してるとかじゃなくって。なんか中学校から高校に上がったのに、何にも変わらないなってふと思ったんです。」
澪「確かに大人になった感はあんまなかったな。」
寧々「中学生の延長だって気づいてから急に飽きてしまって。学校に行く意義も見出せなくなってからは登校しなくなりました。」
澪「よく留年せんやったね。」
寧々「保健室登校してましたから。それを出席に数えてくれたみたいです。」
澪「そうやったんや。」
寧々「保健室に居座ると人と会うこともあったので、隅の方で本を読んでたり…気が向いたら数学をして…とかありましたね。」
澪「毎日きとったん?」
寧々「いえ、1週間のうち2日くればいい方でした。最後の方は出席が足りなくてひいひい行きましたが。」
澪「へえ。何日以上休んだらいかんとかあるやんな。」
寧々「はい。他は外でずっとぷらぷらしてましたよ。」
澪「意外。昼に?」
寧々「はい、昼に。」
澪「だけんプリントとか渡しに行ってもあんま出んかったんか。」
寧々「そうなんです。たまたま家に帰って来てたら仕方なく出てました。」
澪「仕方なくって。」
寧々「当時人と関わるのは面倒で極力避けてましたから。」
けたけたと楽しそうに笑う
隣の彼女しか見ていなかったら
一切想像ができなかった。
当時の攻撃的とも取れそうな
はたまたぼうっとしていて
何も考えていなさそうな
澄んでいて、それで持って冷淡な瞳を
知っているからこそ、
今の会話がすんなりと入ってくる。
澪「じゃあ本当にだいぶ変わったんやね。」
寧々「はい。兄が亡くなってからがらっと、ですね。」
澪「こう言うのはなんやけど…普通人がなくなったら暗くなったりするもんやないん?」
寧々「そうですね…でもこう言うことはありませんか?自分よりも悲しんでいる人がいたら、自分は冷静になってしまうってこと。」
昨日今日で時折感じていたその言葉を
吉永から言われると思っておらず、
意図せずしてぎょっとする。
澪「…あるな。」
寧々「そんな感じです。母がぼろぼろになってから、このままじゃだめだって思ったんです。」
澪「…。」
寧々「それで…母を支えるために兄の模倣をすることにしました。」
澪「……模倣、を…。」
刹那、彼女の形が
急に歪んで見えたような気がした。
吉永の兄の模倣を、
崩れてしまった母親の自我のために。
そして待っていたのは
母親から酷い扱いをされる未来であって。
そこまで辿り着いては
息をすることすら
億劫になりそうだった。
寧々「はい。兄は人に慕われる人で、人とよく一緒にいる人でした。勉強はできるけど運動は苦手で。」
澪「……。」
寧々「…ちゃんと登校するようにして、髪もばっさり切って。ほら、ふたつ結びは真面目っぽいじゃないですか?」
真面目っぽい。
その言葉が勝手に反芻される。
°°°°°
寧々「…そうですよ。」
澪「…。」
寧々「……ただの、使命感。そうです。篠田さんの言う通りです。」
澪「…っ。」
寧々「私はちゃんとしなきゃ駄目なんです。みんなの言う優等生にならなきゃ。だからさっきは止めました。」
澪「へぇ…優等生が手を挙げるなんてな。」
寧々「誰かさんが止めてくれて助かりました。おかげでまだ優等生できます。」
澪「…はは…しょうもな。」
寧々「ですよね。」
---
澪「…もう帰るけん。じゃあ」
寧々「最後にひとつ。」
澪「なん。」
寧々「私は真面目を貫くためにこうしていますが、そこにあなたを裏切る意思は一切ありませんから。」
澪「嘘つけ。」
寧々「嘘じゃないです。だってこんなにも馬鹿真面目なんですよ。」
澪「……そうやったな。」
°°°°°
澪「…だけん、真面目を貫くって…。」
寧々「はい。」
吉永の方を見ることも叶わず、
段々と暮れ始める神奈川を
視界に捉え続けていた。
母親の心の穴を埋めるために
失った兄の生き写しとまで行かずとも
その彼の生き様を真似ようとする。
それは一体誰のための人生で、
誰のための心なのだろう。
それなら一体
彼女は誰なのだろう。
うちが思っている以上に
過酷な環境で暮らしていたことが
節々から垣間見える。
それにどう返したらいいのか、
どう返せば彼女の傷が癒えるのか。
それを考えたって
答えなんて出てこなかった。
だから。
澪「そげんなこと早うやめえや。」
寧々「え…?」
澪「一緒に旅行しててもそうやし、学校で話しとう時や帰り道に駄弁っとう時だってそうやけど、うちは真面目ぶっとらん吉永の方がいいと思う。」
何と言えばいいか。
吉永寧々が吉永寧々らしく
生きれるようになれば。
吉永が自分のために
時間を使えるようになったら。
そう思った。
澪「初めは意外やなって、真面目らしくないって思ったけど、そっちの方が素の感じがしたと。」
寧々「…そうでしたか。」
澪「敬語も真面目の印と?」
寧々「はい。兄自身は友達とも敬語で話すなんてことはなかったと思うんですが、不登校だった私には少しハードルが高く…。」
澪「敬語で話すようにしたらそのまま根を張ったって感じなんや。」
寧々「はい。」
澪「吉永の全てを否定するようなことを言っとうと思う。あんたの大切なもんを壊すようなことを言っとうと思う。」
寧々「…。」
澪「でも…作っとらんあんたの方がいいと思う。」
寧々「作ってなかったら無愛想極まりないですよ?」
澪「うちやってそうやん。でも話してて疲れんような人は絶対おる。」
寧々「ふふ、確かにそうですね。」
うちが嫌っていた真面目は
彼女が必死になって作り上げたものだった。
必死に生活を守るために
真面目になることを選んだと言うのに、
そして多大な努力をして
変化させて来たと言うのに、
その全てを理不尽に嫌い、
今度は全てを否定している。
元のあなたの方がいいと言われることが
どれほど怖いことか。
うちは今、最低なことをしていた。
澪「うちはあんたの兄じゃない、吉永寧々とこれからも話がしたいと。」
寧々「…もー、告白ですか?」
澪「今ばりいいこと言い寄るんに茶化さんとってや。」
寧々「あははっ、すみません。つい。」
最低なことをしているにも関わらず、
吉永は嬉しそうに笑った。
そう。
心底嬉しそうに。
寧々「…もしかしたら篠田さんにそう言って欲しかったのかもしれませんね。」
澪「…。」
寧々「昔…あの願いを叶える腕のことが解決した時。三門さんに宣言したんです。兄を模倣する生き方はやめる、と。」
澪「なるほどな。」
寧々「でも、結局未だに色々な後遺症とも言える名残が消えることはありませんでした。」
澪「…。」
寧々「それでもできると思いますか。」
澪「…さぁ。あんた次第やろうな。」
寧々「…そうですよね。」
澪「でも、あんたがそれを克服できるまで、素の吉永の方がいいとって言い続けることはできるけどな。」
寧々「…!」
吉永がうちの自己肯定感を、
ほぼ性格と言っても
差し支えない場所まで浸透してしまった
低いそれがなくなるまで
「ここに居続けてほしい」と言うのなら。
うちはあんたの中の兄の存在が
薄くなってしまうくらいには
こう言い続けたって構わない。
吉永は今度は軽く俯き、
穿いていたロングスカートを
両手で少し握った。
寧々「……じゃあ、言い続けてください。」
澪「ん。」
寧々「何年後も。何十年経ってもずっと。」
澪「何十年経つまでには解決してて欲しいけどな。」
寧々「ふふっ…それはそうですね。」
澪「吉永は吉永やけん。」
寧々「うん。…ありがとうございます。少しずつ…ほんの少しずつだと思いますが、進んでみます。」
苦しい選択でしかないだろうに、
吉永はそれを受け入れては顔を上げた。
そして、ふたつに結っていた髪を解き、
今度はひとつにまとめていた。
この心の強さが羨ましかった。
うちにはない芯で、真っ直ぐで。
真面目の証がひとつ崩されたことに、
安堵と、彼女の選択の責任とで
暖かくも圧迫されるような気持ちになる。
こんな怖いにも似た感情を
吉永はうちに対して抱え続けていたのだ。
澪「似合うな、ひとつに結ぶん。」
寧々「ありがとうございます。」
赤く染まりゆく景色を前に、
透明化のことも緩やかに忘れて
時間をただ過ごした。
それからしばらくして帰路を辿る。
吉永が透明化のことも危惧して
手を繋いで一緒に帰ることになった。
「まだもう少しだけ旅行気分を味わいたい」
なんて言うものだから、
結局うちの家の前まで
2人で歩いていた。
女子2人が手を繋いで歩くなんて
勘違いされそうだなんて思うも、
仲良い人同士で腕を組んで
下校している人たちだって
見かけたことはあるのだし、
あまり周囲は気にしないのかもしれない
だなんて言い訳じみた言葉が浮かぶ。
何を話していたか忘れるほどに
色々な話をしては、
いつの間にか自分の家にまで辿り着く。
澪「じゃあ気をつけて帰ってな。」
寧々「はい。2日間ありがとうございました。」
澪「こちらこそ。…また明日。」
寧々「はい、また明日!」
家の前で手を振る。
彼女の姿が見えなくなるまで
その背を目で追い続けた。
何故だろう、今だけは
背負っているリュックは
重たくなかった。
角を曲がり、姿が見えなくなったところで
鍵を刺してエントランスを通過する。
そして、1人エレベーターに乗ると
どっと疲れが押し寄せて来た。
けれど悪い疲れじゃない。
楽しくて遊び尽くした時のそれだった。
1人だとエレベーターを乗るにも
こんなにがらんとしているのか。
澪「……楽しかったな。」
ひと言。
独り言がこだますることもなく、
自分の耳にだけ淑やかに届いた。
こうして2日間の突発的だった旅行は終え、
明日からまた学校が始まるのだった。
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