あなたの隣を 前編

家を出る前に鏡をもう1度確認する。

髪はポニーテールにし、

ハイウエストの黒のパンツにに白のパーカー、

その上からジーンズ生地の上着を着ていた。

スニーカーライクな服装だと

鏡を見てしみじみ思う。

加えてリュックに貴重品の入った

小さな肩掛け鞄。

おしゃれな手さげじゃない部分も

これまた動きやすそうな印象に

影響を与えていた。


受験生になってから

休日に家から出ることは

ほとんどなくなっていたのだが、

吉永に誘われ、今週末は休暇日と

することになった。

2日も使うのは

気分転換には多いくらいかもしれないが

ちょうどだろうと思うことにする。

誘い方もうちに気を遣っていることが

ひしひしと伝わってきた。

うちの願いを叶えては

どうにかしてこの事象を

解決しようとしているのが見えた。

利害関係でしかないのに

そこまでさせてしまうとは、

うちもうちでよっぽどなのだろう。

酷い顔をしているのかもしれない。

この2日間だけは

勉強や未来のことを忘れて

今だけに集中していようとは意気込む。

実行できるかはいつだって別問題なのだ。


またパソコンと向かい合う姉を横目に

玄関に向かう。

朝は大層冷え込むため、

早々に追加で外套を引っ張ってきていた。


澪「行ってきます。」


雫「…。」


澪「行ってきまーす。」 


雫「…。」


想像していた通り、

姉は返事をしなかった。

いや、できなかったのだろう。

そもそも何も聞こえていないのだから。


昨日、吉永と旅行に行くと

伝えた時もそうだった。

吉永本人に僅か触れたとて

宝物には頼っておらず、

既に見えなくなっていた。

それでもうちが帰ってきていないことに

心配をするそぶりすら見せなかった。

思えば前々からそうだったかもしれない。

そもそもいることすら

忘れられているような。


澪「…。」


意味もなく静かに扉を開き、

冷たい外気に飛び込んだ。





***





澪「あ。」


その姿を見かけては

思わず独り言をあげる。

駅内にあるカフェの前で

見覚えのある身長の人が1人いた。


近づいてみれば案の定吉永で、

彼女はこちらに気づくと

ぱあっと顔を明るくしては

小走りで向かってきた。

荷物が収まりきらなかったのか、

ボストンバッグを肩に下げている。


寧々「よかった、無事合流できましたね。」


澪「横浜駅ならそんな迷うことなかろうに。」


寧々「そうですけど…出口はたくさんありますし!」


澪「はいはい、ありがとな。」


寧々「ふふっ、いえいえ。」


口元を手で隠しながら

照れるようにして微笑んだ。


澪「荷物多ない?それで回れると?」


寧々「先に少しお宿の方に向かって荷物を預けようかと思ってます。」


澪「なるほどな。元々行く予定やった場所の近くやもんね。」


寧々「そうなんです。事前預かりをしてくれる場所で助かりました。篠田さんもリュックを置いて行ったらどうですか。」


澪「ん、じゃあそうするわ。」


寧々「その方がいいと思います。ではそろそろ行きましょうか。」


そう言ってはスマホを取り出し、

目的地までの路線を調べたものを

表示していた。


電車に乗ると、普段は見かけないような

向かい合っている座席があり、

その背面にくっくつようにして

また2人ほど座れるような場所があった。

たまたま初めの方に乗れたこともあり、

2人席の部分に隣り合って座る。

窓側を譲ってもらったので、

仄かな冷気と清々しいほどに晴れ渡った空、

そしてやけに多い人を眺めた。


こういった旅行らしい旅行は久しぶりで、

帰省するのはあまり旅行感はなく、

家族旅行は別居するようになってから

ほとんどしなくなった。

姉と日帰りでどこかに行くことはあっても

泊まった記憶はほとんどない。


そうこうしているうちに

正面にはスーツを着た男性が1人

席についてはスマホを開いていた。

駅員のアナウンスが鳴り響き、

やがて扉は閉まって

このまま発車した。


寧々「今日は人が多いですね。」


澪「休みやけんな。」


寧々「12月っぽくなりましたよね。」


澪「ああ、服装を見てってこと?」


寧々「そうです。篠田さんは夏と冬どっちの方が好きですか?」


澪「冬やな。」


寧々「そうなんですか。」


澪「でも思い出深かったり印象深いのは夏やな。」


寧々「前言っていたあの出来事ですか?」


澪「不可思議なこともそうやし…子供の頃はようけ遊びに行きよったけん。」


寧々「そうだったんですね!子供の頃の夏休みって何だか長く感じましたよね。」


澪「そう?あっという間やったけど。」


寧々「何と言うか、毎日学校に行っていたのに、唐突に1ヶ月かん何もしなくてもいい…みたいになるじゃないですか。」


澪「あーね。時間の猶予が段違いやけんな。でも宿題があるやん。死ぬほど多いプリント集とか。」


寧々「わ、懐かしい。冊子で国語、算数、理科…とかありましたよね。」


澪「うっわ。算数か。」


寧々「そうですよ!もう数学って単元に慣れましたけど、中学に上がった時はものすごく違和感がありました。」


澪「勝手に大人になった気になれるあれな。」


寧々「算数よりも数学の方が大人っぽいですもんね。」


澪「な。うわー…冊子な。自由研究とは最後に回しとって痛い目見たわ。」


寧々「読書感想文とか。」


澪「そうそう。美術のコンクール云々とか。」


寧々「美術部だったんですか?」


澪「いや、みんな提出するやつ。学年全員でコンクールに出したんやろうね。結果も何も知らんけど。」


寧々「あるあるですねぇ。課題は最後に詰める方でした?」


澪「プリントとか問題集系は早う終わらせて、一旦遊び呆けるフェーズがあったわ。んで、最後にまずいものが残る。」


寧々「へえ。何だか意外です。」


澪「そんなやらんイメージけ。まあ見た目も見た目やしな。」


寧々「いえ、そうではなく。私からしてみれば高校1年生だとか…そのあたりの記憶が強いので、お盆後あたりまでには終わらせてそうだなって思っただけです。」


澪「全然そんなことなかよ。そういえばやけど、あんたの方でも高校1年生の頃ってあんま関わりなかったよな。」


寧々「そうですね。しっかりと話すようになったのは2年になった頃からですが…何となく1年の時のも記憶にあるんです。」


前に座っているサラリーマンは

うちらの話にさらさら興味がないようで

ほっと胸を撫で下ろす。

側から聞いていたら

少しばかり奇妙な話に

聞こえるだろうから。


まだ互いに高校1年生の頃の

…彼女が不登校だった時のことを

聞ければと思っていたが、

生憎人前で彼女に

それを話させるような趣味はない。

そっと口を噤み、

リュックを抱えていた手を

だらしなく座席に横たわらせた。

吉永は音もなく手の甲を合わせてきた。


寧々「真横に知らない誰かさんが間違って座っても困るので。」


澪「そりゃそうやな。」


それから吉永は

学校の先生がどうだとか

授業がどうだとか、

何かしら話題を振ってくれては

それぞれの小学生や中学生時代のことを

表面をなぞるようにして語った。

学校の規模が違ったり、

校庭の広さや給食、部活など

様々な点が異なっていて、

地方が違えばここまで変わるのかと

半ば感動した覚えがある。


そうこうしている間に

約1時間半に渡る乗車は終え、

今度は宿直通の送迎バスに乗り込む。

バスがあるなんて

どれほどいいところの宿を

予約したのだろうと

楽しそうに横に座る吉永へ

内心恐れを抱きつつあった。


寧々「のどかな雰囲気ですね。」


澪「な。学校近くも割と自然はあるイメージしたけど、段違いやな。」


寧々「都会にはない景色ですし。」


澪「そういえば何やけど。」


寧々「何でしょう?」


澪「今から行く宿ってどのくらいしたん。」


寧々「今回は素泊まりなのでそこまで跳ね上がってはいないですよ。6千円くらいでしょうか。」


澪「そうやったんや。」


寧々「そんなに気になりますか?」


澪「そりゃあ。のちに絶対返すものやし。」


寧々「ふふ、確かにそうですね。」


澪「もしかして解決したとしてもそのままにするつもりやった?」


寧々「そんなことないですよ。だって約束したじゃないですか。」


澪「そうやけど。」


寧々「そんなに信用ないですか?」


こちらを眺む彼女の瞳に、

言わずともうちが映っている。

こう見ると不思議な光景だ。

嫌いだったはずの人と

こうして隣で並んで座り、

一緒に旅行をしているのだから。





°°°°°





寧々「そんなに信用ないですか?」


澪「そりゃあ。」


寧々「そうですか。」





°°°°°





いつの会話だったか、

この掛け合いもしたっけ。


澪「…聞かんでも大体分かろうもん。」


寧々「いいえ、言ってくれなきゃわかりません。」


澪「はー、もううざいわ。」


寧々「ふふっ。」


澪「何笑っとうとね。」


寧々「いいえ、何にも?」


澪「もうよか…。」


今度は窓側の席を譲り、

随分と湾曲した道を通る。

転勤の時によく車で

移動したななんて思いながら、

同時に車への耐性がない人は

すぐに寄ってしまうだろうな

なんて考えていた。

昔は家族旅行に行くのも

車で行っていた記憶がある。

運転が好きな親だったこともあり、

福岡から鹿児島、

時には関西の方にまで行ったりと

今思えば相当な距離を移動していた。

うちら姉妹は小さかったから

車中泊をしたって余裕だったが、

親はきつかっただろうなと思う。

今大人とほぼ同じ体躯になって

漸くその感想を抱くことができた。


そう考えるとどうやらうちらは

大人になってしまったらしい。

当時は中学生、高校生だって

大人のように見えていたのに、

実際なってみれば

自我の強い子供でしかない。

大学生になったって

社会人になったって

うちは酒の飲める

子供でしかないのかもしれない。


ものの数分でお宿に辿り着く。

和の雰囲気が漂う

幾分か年数を経ていそうな外装だが、

中は清潔感溢れる景観になっていた。

温かみのある色で

何だか外の気温が嘘のよう。

荷物を預けては

「お気をつけていってらっしゃいませ」

という言葉に会釈をし、

冬空の下にまた踏み出す。


近くの店で昼食を済ませ、

箱根湯本駅から1度電車で離れて

美術館へと向かった。

少しばかり調べてみたところ、

屋外展示場が随分と広いらしく、

そこにさまざまなアートを

共存させているらしい。


入場場所はさながら遊園地のようで、

何だからしくもなく

心が躍っているみたい。


寧々「ついに来ましたね!」


澪「な。」


寧々「前にテレビで見かけてからずっと来てみたかったんです。」


澪「テレビ見てからどのくらい?」


寧々「どうでしょう…1年は経っていると思います。」


澪「なん、友達誘って行かんかったと?それこそ別の世界線のうちとか。」


寧々「それが、母が厳しくって。遊びに行けなかったんです。」


澪「あー…。」


寧々「でも、今じゃこうして遊びに行けています。なのでいいんです!」


澪「ごめん、掘り返して。」


寧々「いいえ、掘り返されたなんて思っていませんよ。元より話していることですし。」


澪「そうけ。」


寧々「言っておきますが、私は篠田さんに全信頼をおいています。他人に言いふらしたりなどしないとわかってます。」


澪「…うちも、大概はあんたのこと…」


寧々「私のこと…何ですか?」


澪「あ、言わせたがりなだけやろ。」


寧々「バレました?」


澪「はいはいもう終わり。さっさと入ろうや。」


寧々「ずるいですよ。あ、待ってくださいー!」


これまでの2年半は

ほぼ彼女と話してこなかったから

わからなかったけれど、

どうやら彼女は随分と

調子のいい人のようだった。

冗談が嫌いなタイプとばかり

思っていたけれど、

動画を見ることが好きだったり

夜中まで配信を追っていたりと

思っていた人物像とは

大きくかけ離れていることに気づく。

ただ、真面目の皮だけが

どうにも固くって仕方がなかった。


食べ物のアートがあったり、

巨大な蜘蛛の巣のような構造物があったりと、

子供っぽいものから

大人でも難解で理解しづらいものまで

さまざまなものが飾られていた。

美術館って何だか敷居の高い場所とばかり

思い続けていたけれど、

実際は奇妙なものがあったり、

子供心をくすぐるものもあったりして、

なんだかんだテーマパークのようで楽しい。

絵画だけの場所だったとしても、

どの絵画を盗んでやろうか

くらいの感覚で見ると

楽しみやすいなんて書いてあったのを

どこかで見かけたなと思い出す。

そのくらいでいいのだろう。

誰でも楽しめるものだと

改めて感じさせられた。


特に目を引かれたのは、

内側一面がステンドグラスで

造られた建物だった。

外見は全くもって派手な見た目では

なかったのだけれど、

中に入れば言葉を失った。

屋外展示場の中でも

奥の方に位置しており、

秘境のようとすら思ってしまう。

御伽話というよりも

神話の世界に迷い込んでしまったようで、

かつ浮遊しているような、

まるで重力を感じない光景に

圧倒される他なかった。


寧々「綺麗ですね。」


心の底からほろ、と溢れた声がして

ふと横目で見やる。

天気がいいことも相待って、

彼女の頬に虹色が落ちていた。

偶然だろう、彼女が振り向いた。


寧々「登ってみましょうか。」


澪「うん。」


階段を登りながら

ステンドグラスを見てみれば、

月や太陽といった

天体にまつわるものがよく見つかる。


寧々「この建物は幸せを呼ぶなんて言われているらしいですよ。」


澪「そうなんや。」


寧々「あるといいな。」


澪「うちは既にあったけどな。」


寧々「え?ああ…さっきのお昼ご飯の時に並ばなくてよかったことですか?」


澪「そういうことにしといたる。」


寧々「えー、何ですか。知りたい知りたい。」


澪「しゃーしいわ。」


前を歩き階段を登っていた吉永は

足を止めてこちらを振り向いていた。

が、すぐにまた歩き出したのをいいことに

その背とガラスを眺めた。


澪「そういえば昔、ガラスのものが好きやったな。」


寧々「ガラスですか。」


澪「そう。だけん雑貨屋が好きで、よく連れて行ってもらいよった。」


寧々「そうだったんですか。北海道に行ったらまた楽しめそうですね。」


澪「何があると?」


寧々「小樽にオルゴールのお店があるんです。スノードームのようなものに入ったオルゴールとか、オルゴール単体もありますし…いいですよ。」


澪「へえ。物知りやね。」


寧々「一時期、修学旅行が北海道にならないか期待してたんですよ。それで調べちゃって。」


澪「結局選択肢に北海道なかったもんな。」


寧々「はい。残念でした…。」


澪「旅行で行かんと?」


寧々「じゃあ、ついてきてくれませんか。一緒に見に行きましょうよ。」


やっとのことで上層まで登り切る。

すると、突如として地面の緑と、

空の青と、そして季節相応の

暖色系の木々が一緒くたになって

目に飛び込んできた。

高さがある分遠くまで見渡せる。

長く歩いてきたと思ってはいたが、

こんなにも歩いていたとは

思っても見なかった。


寧々「どうです?」


澪「…どっちの話ね。」


寧々「どっちもです。」


吉永はついさっきうちのことを

ずるいなんて言って罵ったが、

それは吉永も大概だと思う。

外を眺む彼女の隣に

少しだけ間を保ってつく。


僅かに息を吸う。

冬の心地が鼻に痛い。


澪「……別によかよ。」


寧々「本当ですか…!」


澪「この現象が治ったらな。」


寧々「はい、もちろん!」


全て「この現象が治ったら」。

その一言を加えるだけで、

約束を先延ばしにしているように見える。

それもそのはず。

うちらは何ひとつとして

改善の兆しは見えていない。

間違ったことはしてない。

そう思いたい。

けれど。


澪「…。」


ポケットの中に忍ばせていた宝物に

ほんの少しだけ触れる。

さやかな風が頬を撫でる。


宝物を交換した時点で

薄々気づいていたのかもしれない。

これをしたってうちをここに

留めていられないと言うことは、

他にもう何もないんじゃないかって。

方法は。


寧々「次のところ行きますか。」


澪「そうやな。」


方法は他にもあるのだろうか。

おまじないが破綻しても、

それでも留まり続けていられる方法は

あるのだろうか。


確と美術館を堪能した後、

時計を見てみれば

思っていた以上に歩き回っていたようで、

時間はあっという間に夕方に近づいていた。


寧々「こんなことを言うのも何ですが、思っていた以上に楽しかったです。」


澪「わかる。こんなにブースがあるなんてな。」


寧々「家族連れが多かったのも納得ですね。天気も良かったですし。」


澪「明日も晴れるんやったっけ。」


寧々「はい、そのはずです。」


澪「じゃあ景色ええやろうな。」


明日はまた別の

大涌谷駅というところまで

行こうかと話していた。

黒い卵が有名らしく、

写真で見たところ

遠くの山々が明瞭に見えるようだった。


これまで箱根には、近すぎるがあまり

来たことはほぼなかったが、

こうして旅先としてきてみれば

楽しめる場所はたくさんあった。


また2人で電車とバスを乗りつぎ、

箱根湯本駅まで戻っては

滝を見に行きたいとのことだったので

そちらの方へ向かう。

古めかしい木の看板で

入り口と書いてあるだけであり、

その横には整えられてはいるものの

草木が多く生い茂った道が見えた。

人が通るような場所なのか

さぞ不思議でならなかったが、

散歩をしていたらしい

中年ほどの夫婦が出てきていた。


澪「…ここであっとるん?」


寧々「さっきも見たじゃないですか。看板もマップもここを指してますよ。」


澪「もうちょっと綺麗になっとるもんやと思っとったけど…。」


寧々「ほら、つべこべ言わずに行っちゃいましょう!」


澪「あ、ちょ…!」


吉永はうちの背を押すようにして

そのまま道に追いやっては、

まず階段を降りて

そのまま森に潜るように進んだ。


一応手は加えられており、

ただの坂ではなく

木が差し込まれて

微々ながらも階段になっている。

ごつごつとした大きな石が

いくつか転がっており、

時に段差の高い階段では

そこに着地しては

揺らいで怖い思いをした。

そんなうちを見て吉永は

心配そうにしながらも笑っていて、

余裕そうではあるものの、

いざ自分が降りるとなった時には

あまり筋力がないのか

捻挫しそうになりながら降りていて、

見ている方が不安になった。

それでも能天気なことに

「空気が美味しいですね」と

赤や黄色に染まった木々を見て言う。

今度は彼女の頭に

橙色が降っていた。


時折石の階段や、

半壊した木造の住居らしきものが

横からぬっと出てきては

心臓が止まるかとすら思うほど驚いた。

人の気配がどんどんとなくなる中、

木々は増えていく。

高低差がものすごくあり、

階段の昇降だけで息が切れるほど。

今自分がどこを歩いているのか

わからなくなる中、

吉永はスマホと睨めっこをしていた。


寧々「…うーん…こっちの方で合ってると思うんですけど…。」


澪「看板も何もなくなってわからんようなったな。」


寧々「雨じゃなくて良かったことだけは確かですね。」


澪「そうやけど。」


ところどころ大きな蜘蛛の巣を横目に、

どこを見ても緑と茶色の景色を眺む。


いつからか道標はなくなり、

辛うじて道ではあるものの

湿気の多い土ばかりとなった場所を歩く。


そういえばこの道ではないけれど、

似たような記憶がふと思い浮かぶ。


いつの記憶かも定かではないけれど、

きっとあの川辺で遊んだ時と、

ビー玉を見つけて交換し合った時と

同じ頃だったはず。





°°°°°





澪「おねーちゃーんー!」



--



澪「ママー!パパー!どこー!」





°°°°°




あの時も森のような場所を彷徨い、

伸びた草木に足を取られながら

いつしか足を動かすことをやめた。

それから長いこと泣き叫んで、

そして最後に。


澪「…。」


寧々「うーん…マップだと…こっちの方に進んだら大通りが見えてきますよ。」


澪「…うん。」


寧々「…篠田さん?」


澪「ん?」


寧々「大丈夫ですか?」


澪「あぁ、うん。」


寧々「何だか体調がすぐれないように見えるんですが…。」


澪「そんな顔しとう?」


寧々「はい…ちょっと暗い感じがしました。」


澪「…昔、こう言う感じの場所で迷子になったことがあるんよ。」


寧々「わあ…それは怖いですね。小さい頃ですか?」


澪「そ。最初はかくれんぼしよったんやけど、なかなか見つからんくって。調子乗って見つかりにいこうと思ったら全く違うところに進んどったみたいでさ。」


今でもよく思い出せる。

夏だというのにいつの間にか

夕方になっていて、

木々が風でざわついては

人の話し声のように聞こえて、

遠くからは烏のしゃがれた

鳴き声だけが聞こえてくる。

日差しもあったはずなのに、

夕日だってあるはずなのに薄暗くて、

自分の手すら眩むほどに見えない。

確か福岡から関東の方へと、

親のイベントについて行って

参加していたため、

全く知らない土地だったはず。

なおさら1人になってしまった感覚が強く、

声を上げても風に揉み消されては

顔をくしゃくしゃにして

泣き叫ぶしかなかった。


鼻水と涙でだくだくになって、

それでも怖くて泣き続けて。


そうだ。

手にあったはずのビー玉も無くして、

心細くて仕方なかったんだ。


その後の結末まで思い出し、

ひと呼吸おいて

美味しいらしい澄んだ空気を食む。


澪「でも結局見つけてもらって何とかなったけどな。」


寧々「良かった…。」


澪「まあでも暗くなってきよったし、当時は連絡手段もなくて怖かったしな。」


寧々「そう思うと小さい頃はよくスマホなしで過ごせてましたよね。」


澪「な。今じゃ考えられんわ。」


寧々「あ、見てください!」


吉永が突如指を指して、

降りていた階段を

これまでにないほど軽快に降りていく。

何を指さしたのかわからないままに

彼女の背を追う。


寧々「見てください!」


澪「…わあ…!」


すると、そこには低い位置にある古びた橋と

その下には川辺、

そして奥には滝が見えていた。

あの記憶の中の川辺とは

全く別のものとわかってはいるものの、

それと重なるようで

不思議とこれまで迷っているのではという

不安が霧散していくようだった。


これまで聞こえていたホワイトノイズは

これかと察する。

不安で目的が眩んでいたけれど、

そういえば滝があるからと言って

この場所に来ることになったのだと思い出す。


吉永は目を輝かせながら

滝の方を見つめていた。

それとなく隣で橋の手すりが

汚れていないことを確認して肘をつく。


ぼうっとどれほどの時間眺めていただろう、

それでも誰と1人として訪れず

2人だけの時間が過ぎていた。

ちらほらと紅葉が落ちてゆく。

それがまるで緑茶に落ちる

金箔のようで綺麗だった。


景色をこれでもかと堪能し、

そろそろ離れようと

思いっきり伸びをした時。

安心し切った声が耳を撫でる。


寧々「どうして透明だったんですか。」


澪「なん、急に。」


寧々「透明になりたくて透明を望む人はいませんから。」


澪「…?」


寧々「自殺だって一緒です。死にたくて死を願っているわけじゃないんです。」


感情的に声を荒げることもなく、

淡々として質問する様は

心をどこかに流してしまったよう。

なのに、どこか落ち着いて

その言葉に耳を傾けてしまう。


寧々「…大抵は、苦しい状況から逃れたくて、その結果死にたいって思うんです。それしか逃げ道がないって思っちゃうんです。」


澪「…。」


寧々「…だから篠田さんも…そうなんじゃないかって。きっと死も透明も、少なからず近い位置にあると思うので。」


澪「確かにな。」


寧々「前言っていた、お姉さんと比較されることだけが原因ですか。」


澪「…はぁー。空気が美味しいな。」


寧々「…話したくないならいいんで」


澪「うち、自分のこと好かんとよ。」


それは、トンネルの先で

奴村に説明したことと同じだった。





°°°°°





澪「……。みんな、どうして出ることができたん。」


陽奈「…。」


澪「うちは向かい合えんよ。」


陽奈「…。」


澪「自分のこと、1番嫌いなんよ。…って、あんたに話すことでもないか。」


陽奈「…。」


澪「嫌いなやつと一緒に居れんのは当たり前のことやんな。」


陽奈「…。」





°°°°°




自分のことが嫌いだということを隠すため、

他所で理由を作って他者を嫌った。

真面目な人間が嫌いだからなんて

ただの理由づけでしかなかった。

本当は変わるのが怖かった。

うちは1度大きく変化して

今の生活がある。

一概に全てが悪いわけじゃ

なかったと思いたいが、

それにしても失ったものが多すぎた。

もう失いたくない。

大切な人も、大切なものも全部。


皆変わり出して、

それでも頑なに変化しようとしないうちは

臆病者でしかない。

環境の変化に勝手に焦りを感じて、

でも逆張りをするかのように

どんどん意固地になってゆく。

勉強ができない理由は

そこにあるだとか

甘ったれたこと言って、

うちはいつだってこのままで。

やればいいじゃんって。

変わればいいじゃんって。

でも、だとか、だけど、だとか

口から出るのは否定の言葉。

幼稚園児じゃないっちゃけんさあ。


その考えにも感情にも

気づいた上で無視し続けた。

そして行き着く先は現実逃避。

「透明になれたら」、そんな願い。


澪「根底はそれだけ。」


寧々「…。」


澪「な、しょうもない話やろ。」


寧々「しょうもなくないです。」


澪「適当言わんでも」


寧々「本当です。」


きゅ、と袖を引かれる。

引かれた袖が少し苦しい。


寧々「…私の…大切な人を、悪く言わないでください。」


澪「…。」


寧々「篠田さんはいいところをたくさん持っています。私が教えます。たくさん教えます。」


澪「…。」


寧々「あなたがあなたのことを好きになれるくらい、自分って存在していていいんだとかじゃなくって、存在してなきゃ世界は成り立たないぞくらいに思わせます。」


澪「…ぷっ…あははっ。それはやり過ぎや。」


寧々「でもそのくらい…ここにいなきゃって思わせますから。」


そこまでにはなれんよ。

そう言いかけて口を噤む。

袖を一層引っ張って、

手をぎゅっと両手で掴むものだから、

思わず息を呑んでしまった。

滝の音が耳にいい、

秋の色が目によくって、

体に入る空気は清々しくって良かった。

目の前の彼女は朗らかな

秋の風景とは少々異なって

涙ぐんでいて。

それでも綺麗だなんて思ってしまったうちは

薄灰色に濁った心でも持っているのだろう。


寧々「だから、消えないでください。」


澪「…。」


寧々「お願いです。」


澪「…気が向いたらな。」


寧々「絶対です。約束。」


澪「あんた約束好きやな。」


寧々「口約束でもしないよりかはマシなものですから。」


澪「どうせすぐ忘れるんに。」


寧々「そんなことありません!舐めないでくださいよ。」


舐めているつもりはなかったけれど、

どうせこの会話だって

1週間、1ヶ月もすれば

脳の隅に寄って集っては

なかったことにされるのだ。


それでも、吉永の言葉は

背中を這っていた。

嬉しかったのか鼻が詰まるような、

喉奥が冷えるような感覚がする。


澪「はよお宿行こうや。寒いけん温泉入りたいわ。」


寧々「…それもそうですね。」


困ったように笑って、

またうちの前を歩いた。

先導するように、

こっちだよって言っているように。

その背中を追っていれば、

いつしかこの透明化だって

解決するような気がした。

できるような気がした。

治るような気がした。


吉永がああ言ってくれる限り、

うちはここに居続けられるように

思ってしまった。


けれど、現実はそう甘くないことを

うちらは知っていた。


紆余曲折したのちに

何とか公道に戻ることができ、

宿に戻ってから荷物を入れる。

すると、畳のお部屋の中心に

こたつが置いてあり、

日本の冬を視覚的に感じた。

そして、謎スペースと一時期

話題に上がっていた広縁という場所があり、

窓際に机と椅子が設置されていた。

驚いたことに、吉永は手紙を書いて

持ってきていたようで、

それを手渡してくれた。

うちもうちで念の為と思い

便箋を忍ばせておいたことを伝えると

「似たもの同士ですね」なんて言って

楽しそうに笑った。


荷物を入れ終えてから

宿の近くのご飯屋で夕食を済ませ、

お風呂に入ることにした。

温泉ともなれば

別々で入ることも叶わず、

彼女も迷うことはなかったのか

そのまま2人で浴場へと向かう。

こういう一見どうでも良さそうな、

ただ旅館の廊下を歩いているだけなのに、

今に限って2人しかいないのだと実感する。

こじんまりとした宿だったためか、

浴場には他の客はいなかった。


寧々「温泉っぽい匂いしますね。」


澪「何となく香るな。」


寧々「好きな匂いだなぁ。」


澪「ほんとに?」


寧々「家の中がずっとこの匂いだとそれはそれで困るんですが、何だか旅行してるって感じがして。」


澪「あーそれはわかるわ。」


躊躇なく服を脱ぐ隣の彼女を

気にしないようにしようとするとするほど

どうにも意識の隙間に潜り込んでは

全域に浸透してしまう。

様子を見るように意味もなく

持ってきていた衣服の場所を調整して、

それからトップスをかごの中に

入れた時だった。


寧々「先に流していますね。」


澪「ん、わかった。」


うちが気まずそうにしているのが

わかったのだろう、

タオルで体を隠したまま

お風呂の方へと向かった。

それからあまり引き伸ばすようでも

意味はないし時間はもったいないと思い、

やけになるようにして服を抜いで

同じように浴場へ向かう。


大浴場というには狭く、

シャワーも10個ないほどのものだが、

温泉ということに違いはなく

空気が暖かいだけで体がほぐれるようだった。

勝手に気まずくなっているだけというのに、

それとなくひと席分を開けて座り、

シャワーの蛇口を捻る。

シャンプーもリンスもボディソープも、

旅館あるあるだろうか、

おしゃれそうな香りがした。

普段家で使っているものよりも

幾分かいいものを使っていそうだなんて

勝手ながらに想像する。


髪が伸びてきたこともあり

入念に洗っていると、

ふたつ隣のシャワーが止まった。

ちらと横目で見ると、

吉永が温泉の方へと向かう背中が見えた。

元から華奢だとは思っていたが、

湿気で煙たい中垣間見えた背は綺麗だった。

普段から姿勢がいいこともあるのだろう、

歩く姿すら美しかった。


咄嗟に目を逸らしてはリンスを洗い流す。

さっき彼女の覚悟とも取れる言葉を

耳にしたものだから、

自分の中での勘違いが止まらないのだろう。

自意識過剰なのだ。

あれは使命感だ。

ただの言葉のあやだろうのに。


洗い終えてからタオルで

体を隠して温泉まで向かい、

背を向けて入っていた彼女の横へと

できるだけ見られないようにして移動する。

ある程度心を許しているとはいえ、

裸を見られることには抵抗がある。

自分の頭と同時に体だって

そんなに好きではないのだし。

当然、当然だなんて

脳裏で暗示をかけていると、

刹那お湯の暑さに息を呑む。

タオルを畳んで意を決しては

ゆっくりと足、腹、胸へと

染み込ませていった。


寧々「いいですねぇ。」


澪「うん。」


お風呂特有の声の反芻に

耳がぼわんぼわんとしてしまって

平衡感覚がなくなりそうだった。

お湯が温かく、浸っていない頭までも

芯から温まりぽかぽかとしてくる。


吉永はあまり身長が高くないこともあり、

浴槽がやや深いのか

顎がぎりぎりつかないほどの

水位となっていた。

見ている限りでは苦しそうだが、

本人はそうでもないようで。


寧々「まさに慰労会ですね。」


澪「そうやな。なんだかんだで今日は歩き回ったし…疲れたわ。」


寧々「ですね。足が張ってますもん。」


そう言ってはふくらはぎを

軽く揉んでいるようだった。

お風呂上がりにマッサージをしたら

いいとも聞いたことがあったなんて思い、

彼女の真似をしてみる。

うん、確かに心地いい。


寧々「最近浸かってなかったので、ここまでお風呂でゆっくりできるのは久しぶりです。」


澪「あー…うちもそうかも。」


寧々「明日浸かろうと思ってもいざとなるといいや…って日が多いんですよ。」


澪「わかる。タイミング逃すっちゃんね。」


隣にいるのにいつも以上に

顔を見ることができない中、

脱衣所に誰かが入ってきたようだった。

しばらくすると

がらがら、と音を立てて

おばあちゃんが1人入ってきた。


そこで何となく会話が途切れた。

何となく背もたれに頭を預け

何となく天井を見上げる。

曇っていてあまりよく見えない。

彼女はどこを見ているのか

知ることは叶わないが、

髪が結び目からぱら、と落ちていた。


シャワーの音が鳴り続け、

止まったかと思えば

吉永の方へと位置づけた。

「ふぅー」と大きく息をついて、

次に「よっこらせ」なんて言って

お湯内の段差に座った。

身長があまり高くないのか、

それとも体のことを気にしているのか。

まずは半身浴をするらしい。


おばあちゃんはこちらを捉えたらしく、

にっこりと微笑んでくれた。

これにはうちらは無視するわけにもいかず、

2人して会釈をする。


「あら、1人?」


刹那、どくんと心臓が跳ねた。

今日の間に何度か触れていたのに、

既に見えなくなって知るらしい。

もしかしたら温泉での霧が濃くて

もやに隠れて見えづらかった

だけかもしれない。

実際、吉永の影に隠れるようにして

浸かっていたように見えていただろう。

だから仕方ないと思った。


けれど、吉永はそうではなかったようで、

咄嗟に腕に抱きつくようにして

腕を組んできた。

肌が広い面積で直接触れている現状に

理解が追いつかない。


寧々「2人です。」


「あらぁ、ごめんなさいねぇ。最近目が悪くって。」


動揺するうちをよそに、

おばあちゃんは目を擦るそぶりをしては

うちと目があった。


「いいわねぇ。学校のお友達?」


寧々「はい。大切な。」


「そりゃあいい思い出になるわねぇ。あたしも昔はよぉく旅行したもんだよ。コロナになってー」


それからおばあちゃんは

つらつらと自分のことを話し始めた。

娘と息子がいて、

今日は連れてきてもらったこと。

旦那さんは5年ほど前に亡くなったこと。

独り身になってからは

ご近所さんとの会話が

1番の楽しみだということ。

ドラマの再放送に飽きてきたこと。

いろいろと話してくれたが、

そのどれもが自分とは

程遠い世代の話のように思えた。

いずれ自分にも降りかかるであろう

未来とは到底思えなかったのだ。

2人には親孝行と称して

連れてきてもらったのだと

嬉しそうに語っていた。


が、途中からぼうっとしてしまって

うまく話が入ってこない。

腕を絡めたままの彼女の腕が

白くってすべらかで、

強く掴むには酷だと思ってしまうような

繊細な体躯だった。


暑さのあまりのぼせたのだろう。

吉永は長風呂は得意なのか、

「そうなんですね」と

おばあちゃんの話に相槌を打っている。

そろそろ出るわ、と

ひと言言うだけでよかったのに、

どうにも疲れのあまりか

口を動かす気すらない。

そのまま重力に沿うようにして

顔を俯かせた。

そして、いつも教室で窓の外を見る時

左肘を突いていたせいだろう、

癖なのか左側へと頭を倒す。

何かにぶつかるのを感じるも、

もういいかと思いそのままにした。


寧々「…!篠田さん、大丈夫ですか?」


澪「ん…。」


寧々「あ…ごめんなさい、おばあちゃん。私たちもう上がりますね。」


「はいよはいよ。あらら、その子大丈夫かい。」


寧々「のぼせちゃったみたいで。」


「しっかりしてください」と、

「すぐ出ますよ」と声をかけられ、

はっとして頭を上げる。

偶然、ぱちっと目があってしまうも

反射するかのように目を逸らした。

まさかとは思うけれど、

今吉永の方に頭をもたげていたのだろう。

吉永も吉永で気まずかっただろうに、

そんな様子を一切見せないあたり

さすが優等生だなんて

薄い感想が脳裏をよぎる。


それから転ばないようにと

吉永は過保護のようで

手を握ったまま脱衣所へと出た。

おばあちゃんと吉永は

一体どんな話までしていたのだろう。

そのことに脳のリソースを割けないまま。

脱衣所の嫌になるほど冷えたそこが、

今ではとんでもなく

素晴らしい場所に思えた。


寧々「ごめんなさい、話し込んじゃって。」


澪「いや、平気や。ばり脱水しよったわけやないし…なんとか。」


寧々「購買と自販機両方見つけたんで、途中買って行きましょうか。」


澪「そうやな。」


速やかに着替えては購買に行き、

甘いものが飲みたいばかりに

乳酸菌飲料とお茶を手にしてみる。

ものの数十秒でほぼ飲み干した時は

流石に彼女も笑っていた。

「もう1本買っていてよかったですね」と

にこやかに言う。

部屋に戻っては吉永は布団に転がり、

うちは広縁にある椅子に腰掛けた。


広縁のその窓から

冷気が流れ込んでくる。

熱った体にはちょうどよく、

湯冷めするかもなんて考えは

頭になかった。

吉永はいつも手先が冷えていたし、

湯冷めを気にするタイプなのだろう、

部屋に戻っては暖かそうな

靴下を履いていた。


眠る前、どうしてもすぐに

布団に入ってしまうのが惜しくって

何故かスマホをいじっていた。

冷気がちょうどよく

画面の上を滑っていく。

なんだかんだで今日は怒涛の日だった。

ステンドグラスを見ては

綺麗だとはしゃぎ、

滝を見に行こうと思えば

迷いかけるし。


もし透明化が止まれば

この先も彼女と旅行することがあるのだろうか。

それとも、高校生時代の友達として

関係はもうすぐ途切れてしまうのだろうか。

それよりももっと早くに。

透明化が解決するか、

または解決しなかったタイミングで

切れてしまうのだろうか。


澪「…。」


そこでふと吉永の声が

しないことに気がついて振り返る。

すると、いつの間に布団に潜っては

寝息を立て始めている彼女がいた。

電気もつけっぱなしだからだろうか、

顔まで布団をかぶっていた。


彼女を見ていると、

部屋に入ったタイミングで

手紙を受け取っていたことを思い出し、

鞄の中から取り出した。

相変わらずの花の描かれた便箋に

愛着すら湧き始めている。


暖房のおかげだろうか、

外よりも冷えていないそれを開封しては

時間をかけて読んだ。



『篠田さんへ


疲れるのも無理はないです。

だってここのところ

ずっと気を張って過ごしていたんですから。

少しでも長く休めたのなら

良かったと思います。

夜更かししちゃ駄目ですよ。

健康にも自律神経にも悪いんですから。

そう言っている私は

これを0時に書いているんですけどね。


明日は遂に1泊2日の箱根旅行。

実は楽しみすぎて眠れないんです。

荷物を詰め終わった鞄を見ると、

どんどん実感が湧いてきます。

夢を見ているみたいです。

本音を言うと、もう叶わないかもしれない

夢だと思っていたので。

不幸な出来事が原因ではありましたが、

こうして一緒に時間を過ごせること

とても嬉しく思います。

明日と明後日は思う存分

楽しんじゃいましょう!


では、眠れないながらに

布団に潜ることにします。

篠田さんも明日(今日)は

ゆっくり体を休めてください。


明日も素敵な日でありますように。


吉永寧々』



丁寧な字で綴られているそれも、

今日の全ての吉永の言葉も。

全てうちを思って

うちに向けられたものであることに

未だにぴんと来ていなかった。

それでも、実感がないながらも

見ていてくれる人がいるのは

嬉しいのだろう。

早速自分の便箋を取り出しては

思うがままに文字を綴った。



『吉永へ


あんたがぐっすり眠っとう時に書いてます。

このまま起きんかったらいいけど。

人の寝息が近くで聞こえるって

ちょっとくすぐったいもんやな。


まず、今日はありがとう。

帰省以外での旅行自体久しぶりで、

しかも友達と行くことなんてなかったから

新鮮やったし楽しかった。

美術館のステンドグラスが

今でも頭から離れん。

昔の将来の夢の話なんやけど

ガラス屋さんになりたいって

言っとった時期があったんよ。

それを思い出したわ。

あれは大切な思い出やね。


吉永は自分が

何になりたかったかって覚えとう?


小さい頃は何者にもなれる気いしたのに、

高校生になってから

現実見んといかんくなってきて

自分が何になりたいかよりも

何になるべきかを見るように

なってしまったなって今思った。

親の考えや周りの考え、

世間体に引っ張られてさ。

医者だの公務員だの、

安定すればええかって。

今の時代生きるのも

しんどくなってきたって言うからなーって。

それって何が楽しいんやろうかって

たまに思ってしまうんよ。

世の中の人を小馬鹿にしてるんじゃなくて、

あくまでうちが未来に希望を

見出せんって話な。

大人になるってそう言うもんなんかな。


今日色々見て、色々思い出して、

透明になりたかった、

なりたいと思ってしまった理由が

もっとはっきりした気がする。

やっぱり願ったり叶ったりやったんかもな。


夜やけん暗いことばっか

考えてしまっていかんね。

せっかくの楽しい旅行なんやし、

この時くらいは頭すっからかんにせなな。

長々と書いてしまったけど

伝えたいのはひとつ。


一緒にここまできてくれてありがとう。


おやすみ。


篠田澪』



澪「…。」


もう1度吉永の方を見やる。

苦しかったのか、顔の上半身を

布団から覗かせていた。

眩しいのだろう、額に皺が寄っている。


澪「おやすみ。」


そう言って手紙を彼女の鞄の上に置き

音を鳴らさないように消灯する。

それでも寝不足も相待って

相当疲れていたのだろう。

彼女の心地よさそうな寝息は

途絶えることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る