混濁の間
澪「…やっぱり。」
今朝は酷く冷える朝だった。
足先からぐんぐんと
芯まで冷やしてくる。
たとえ湯船に浸かっても
30分もすれば湯冷めしてしまう。
ぼそっと呟いても
もちろん姉には届かない。
机の対面に座り、
覗き込むようにして手を振っても
全く視界に入っていないようだった。
澪「…段々早よなっとう。」
吉永と触れてから
見えなくなるまでのスパンが
徐々に短くなっていた。
このままでは明日には
誰からも、吉永からすらも
見えなくなってしまうんじゃないかと
不安に思うほどに。
え。
明日、もしかして
本当に透明になってしまう
なんてことがあり得るん…?
そう思った途端、
瞬きを忘れるほど目を見開いて
目の前の姉を見やる。
目の前にいて邪魔をするように
手を振ったとしても見えていないのだから、
大声を出しても気づかれないだろう。
試したくない。
目を逸らしていたかった。
澪「なあ。」
それでも声をかけてしまう。
怖いのに、知りたくってたまらなかった。
怖いのに、知らないままに
しておけなかった。
知らない方がいいことだってあるのに。
数日前とは真反対の答えを
脳内で浮かべながら
もう1度手を伸ばしかけた。
姉の肩に向かってゆっくりと手を下ろす。
その瞬間。
澪「…っ!?」
手が姉の肩を
すり抜けたように見えたのだ。
信じられなかったし
未だに信じていない。
もしかしたら正面に座っているのだし、
うちが手を伸ばす距離が足りずに
すかしたように見えただけかもしれない。
そうだ。
もともと手なんて
届いていなかっただけだ。
再度試す勇気はうちにはなく、
慌てて自分の部屋に入っては
徐に便箋を手に取った。
12枚を購入したせいで
まだ沢山余っている。
使い切れるのだろうか。
使い切れるまで
存在し続けられるのだろうか。
物は当たり前のように
手に取ることができ、
シャーペンを鳴らしては黒鉛を擦る。
中途、力みすぎてしまい
何度か芯が折れた。
それでも焦りは止まるところを知らず、
ペン先にまで伝っていった。
透明になりたい。
なりたかったはずだ。
こころがいなくなってから、
否、トンネルの先に向かった時から、
否。
°°°°°
陽奈「………その…世界線が片方消えるとか…ないですよね…。」
澪「…さあね。なくなる可能性だってあるっちゃない?」
陽奈「えっ…。」
澪「人の多い方の世界線が残るかもしれんし、なくなる方なんて元から決まっとるかもしれん。そもそもそんなことないかもしれんし。」
陽奈「…。」
澪「うちは別に消える世界線に残ったっていいっちゃけどね。」
陽奈「………ぇ…え?」
澪「惰性で生きとうだけやからな。」
°°°°°
4月にレクリエーションのことで
奴村と話したあの時から既に。
澪「…っ。」
明日が楽しみになることは
残念ながらまだないけれど、
明日は当然くるものだと
思っているからこそ、
明日が来ない感覚が存在するなら
その存在が怖くて仕方がない。
澪「はっ…。」
無心でペンを滑らして、
ふと呼吸するのを忘れていたことに気づく。
そうだ。
怖いのならこんなことをしてる暇じゃない。
ようやく正気を取り戻したのか、
体はスマホを探し出してくれた。
澪「吉永…。」
TwitterのDMを開き、
透明具合が進んでいることと
これから会えないかという旨を伝える。
受験期な上11月も終わる。
皆切羽詰まっている時期なのに
こんなことで連絡をしてしまって
申し訳なく思った。
再度机に向かい、
書き殴った手紙とは別の、
金曜の晩に書いた手紙を取り出した。
もらって早々に
返事を書いているあたり、
側から見たら手紙の交換を
楽しみにしているようにも見えるかもしれない。
実際のところ明確な答えはわからなかった。
けれど、後回しにしないということは
きっとそういうことなのだろう。
『吉永へ
勉強、うちも捗ったけん助かった。
黙々とやっとう姿を見てて、
よう眠くならんなって感心しよった。
興味ある科目でも眠くなるけん無理、
受験向いとらんのやと思うわ。
年末年始は帰省する予定。
別に家族仲が悪くて
親と別居してるわけじゃないけんさ。
昔のうちは姉に憧れすぎて、
関東の大学に進学した姉に
ついて行くって言って聞かんかったと。
だけん今神奈川に住んどるって感じ。
書いたはいいけど、
別世界線のうちと仲良かったんなら
知っとる話かもしれんな。
この前も世界史の授業、寝とったもんな。
苦手そうなんわかるわ。
世界史もそこまで好きやないけど
1番は英語が駄目やね。
文法だとか熟語だとか例外だとか
どれだけやっても全然身に付かん。
やり方が違うっちゃろうな。
国語は文章読んでれば答えがあるけん好き。
漢文は好かんけど、
古文は結構読みたくなる問題が多い気する。
巡り巡って教訓にありつくところ
なるほどなって思う。
オチの作りがしっくりくるっちゃん。
吉永は好きな科目あるん?
じゃあおやすみ。
篠田澪』
ただの利害関係。
ただの使命感。
それだけのはずなのに、
以前よりも嫌悪感なく話せるのは何故だろう。
彼女も自分のために人を利用するような
悪い人だと知ったからだろうか。
澪「…。」
ペンを置き、布団に寝転がる。
ひと眠りしている間に吉永から
「今すぐ向かいます」と返信があり、
書きかけだった手紙を
乱雑ながらに締める。
『吉永へ
続け様にごめん。
本当に消えてしまうかもしれん。
さっき姉の肩を叩こうとしたら
一瞬すり抜けたような気がしたんよ。
怖くてもう1回はしてなくて
確認しとらんのやけど、
もし、ほんとに、本当やったらどうしよう。
もう誰にも声が届かん。
長くないんかも、消えるんかな。
文字にしとったら少し落ち着いてきた。
1時間くらい空けたかも。
この前いっとった吉永の推測、
もしかしたらあっとうかもしれん。
薬みたいな、使うほど耐性がつくってやつ。
触れられて他人に認知される時間が
だんだんと短くなっとるんよ。
初めは2週間くらい、
触れて次は1週間、5日って。
今度は2日。
怖い』
澪「…これは渡してもどうにもならんな。」
最後に「おやすみ」も「篠田澪」とも
書かなかったこの手紙は
そっと机の上にある小さな3段の木箱、
そのうちの1番下の引き出しに入れた。
うちだって気持ちが暗くなるような話ばかり
したいわけではない。
できるのであれば
何も考えていなさそうな、
明るいとは言わなくとも、
暗くはなさそうな人だって思われたい。
随分と身勝手なのだ。
***
それから数十分して、
吉永がうちの家の最寄り駅にまで
来てくれることになった。
たまたま近くのスーパーに
買い物に行った帰りで、
すぐに出れる格好だったと言う。
何ひとつ整えていなかったうちは
その言葉に甘えて、
彼女がこちらにくるまでの間を
準備時間に当てた。
駅に向かうまでの間、
北風がひたすらに顔を打ちつけた。
霧雨のような細い細い雨が
折りたたみ傘を濡らしていく。
上着を着ていても
マフラーがないと寒いほどに
あたりは冬と化している。
改札近くに向かうと、
見覚えのある身長の人が1人。
どうやら学校ではないからか、
珍しいことにしたの方で
ひとつ結びをしていた。
澪「…。」
吉永が視界に入る中、
不意に足が止まってしまう。
前後から人が通っている。
たまたまうちを避けているのか、
うちが透けているのかは知らない。
知りたくない。
ただ、たまたま誰も
うちにぶつかってこなかった。
声をかけずにこのままいたら、
吉永は気づかず帰ってしまうのかな。
こんなところまで来させておいて、と
憤慨するのだろうか。
それとも。
寧々「…!篠田さん!」
澪「…っ。」
こうして見つけてくれるのだろうか。
立ったままでいると、
断りも入れずすぐさまうちの手をとった。
今日ばかりは吉永の手は暖かかった。
電車内が暖かかったのだろうか。
それとも、うちの手が冷たいだけだろうか。
ぎゅっとうちの左手を両手で包む。
嫌でも温まる手を
振り払うことはできなかった。
寧々「今日は冷えますね。」
澪「そうやな。」
寧々「すみません、こんなことしかできず。」
吉永は握った手を見つめながら
囁くようにそう言った。
目は合うことがないままに
なんとかして言葉を返そうとするも
言葉が見つからなかった。
どう考えても吉永のせいではなく、
彼女が謝ることでもないことだけはわかるのに。
どのくらい経ただろう。
会話という会話もなく、
改札近くの柱に
隠れるようにして手を握られる。
たった数秒かもしれないし、
1分くらいはあったのかもしれない。
これまでて1番長く
触れていたことには違いないだろう。
そっと手が離れた時、
ここぞとばかりに冬が滑り込む。
また北風が強く吹いた。
寧々「この後どこかには行きたいところですが…。」
澪「勉強は大丈夫と。」
寧々「お互いさまです。」
澪「そうやけど。」
寧々「ではお互いのことを思って今回は解散しておきましょう。」
澪「わかった。」
寧々「では」
澪「待って。」
慌てて吉永を引き止める。
このまま帰るのであれば、
本当にたったこの1分にも
見たないような時間のために
わざわざここまで来てくれたことになる。
時間を返すことはできないけれど、
せめてと思い財布を取り出す。
澪「往復いくらやったん。」
寧々「いいです、受け取れませんよ。」
澪「いいや、時間もかけてもらったっちゃけん…元はと言えばうちのせいみたいなもんやし。」
寧々「私が来たくて来たんですから。」
澪「でも。」
寧々「じゃあ、わかりました。」
両手を合わせて音を鳴らす。
近くを通る人々は
興味なさそうに歩き去っていった。
寧々「篠田さんのこの現象が無事解決した時に受け取ります。」
澪「何それ。」
寧々「少しでも罪悪感があるのであれば、まずは現象を解決することに尽力しましょ。」
澪「悪魔的やな。」
寧々「どちらにとっても悪い話ではないですよ。」
もしうちがこのまま
透明になってしまったら
吉永には悪い話でしかないのにと思うも、
その言葉は口から出なかった。
出さなかった。
予定なことだと思ったから。
寧々「対策を考えなくちゃいけませんね。」
澪「この前吉永のいっとった耐性ってやつがついてきとるんかもな。」
寧々「人間らしいといえばそうですが…困りましたね。」
澪「やな。」
寧々「家に帰ってからも少し考えてみます。」
真剣な眼差しを向けられる。
その度に彼女は本気で
うちのこの件に取り組もうと
していることがわかってしまう。
寧々「ではまた明日。」
澪「また明日。」
手を振られて、答えるように手を上げる。
姉とですらできなかったことを
吉永としていた。
今更ながら疑問とくすぐったさが
脳内の隅で巣を作り出しては
そこに定着していった。
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