世迷い言

しとしとと音が聞こえてきそうな

曇り空の中、

今日も今日が始まった。


澪「おはよ。」


雫「…。」


今年で大学3年生の姉は

授業数も減ってきたようで、

最近はパソコンを開いては

自己アピールの文章作成や

面接練習の本、インターンの

参加についてばかり調べている。

集中しているのだと思いたい、

姉は返事をしなかった。


今日は幸か不幸か

アラームを設定し忘れていたようで、

そのままの流れで寝坊してしまった。

時計を見ると既に9時。

1時間目は始まっているけれど、

学校に行く気にすらならない。


姉が家に1人でいる時は

何をしているのか甚だ疑問だった。

これまではよく外出していたもので、

外でいろいろと練習していたから、

3年生、それも秋になって以降

家にいる時間が多くなってきて

少しばかり心配もしていた。

もしかしたら何か

思い詰めているところが

あるんじゃないかって。


けれど、姉は強い人。

そうだってうちが1番知ってるはずなのに

そのことすら失念してた。


澪「…。」


パソコンの隣に開かれたノートには

びっしりと文字が敷き詰められている。

面接でのアドバイスや

自己PRの文章の添削理由、

それからSPIの問題メモまで見えた。

その隣にあるスケジュール帳は

これまた予定が詰められている。

ただでさえバイトと練習、

大学の授業で忙しいはずなのに、

その隙間を埋めるように

インターンや勉強、

面接練習の予定が入っていた。


予定を立てるのが好きなだけな

姉ではないと知ってる。

これを全てちゃんとこなすのだ。

姉はうちじゃないから、

予定を立てて満足するような人じゃない。

…だからこそ、自分が疲れてることにも

なかなか気づきづらいんだと思う。


澪「…少しくらい休めばいいんに。」


ひと言愚痴をこぼしても

姉には届かない。

心臓を摘まれるような思いをするも、

1度キッチンへと向かって

お湯を沸かした。

それからココアを取り出し、

お湯で溶かして牛乳を入れる。

また姉の元へ向かうと、

まだ難しい顔をしたまま

画面と睨めっこをしていた。


澪「はい、これ。」


ことん。

音を鳴らすと、

どうやら目の前に突如として

コップが出てきたように見えたのか、

はっとして顔を上げた。


雫「あ、え!?」


澪「顔しわっくちゃやったけん。ちょっと休憩しい。」


雫「あ、うん…ありがとう…。」


澪「何ね、その顔。」


雫「え、あ、だって…学校は?」


澪「…お腹痛かったけん、少し遅れて行くことにした。」


雫「そっかそっか…ごめんね。」


澪「何が。」


雫「その…。」


姉は申し訳なさそうに

口をつぐんでしまった。

何を言いたいかは大体わかる。

「気づかなくてごめん」だろう。

普段の生活であれば、

うちら姉妹は朝1度は顔を合わせる。

それがなかった今日、

疑問すら感じなかった。

日常を忘れて、うちのことすら

忘れてしまった現状に謝ったのだろう。


寝癖でくるんとした髪を

手櫛で漉きながら言った。


澪「別に何でもいいけど。」


雫「…ぅ…ごめん…ご飯は冷蔵庫に置いてあるからね!」


澪「うん。ありがと。」


雫「あ、そうだ。少し先になっちゃうんだけど、12月の頭に休みが取れそうなの。2日か3日かに丸々1日休もうと思ってて。」


澪「そうなんや。」


雫「よかったら出かけない?」


姉は何だか仕切り直すかの如く

無理にテンションを上げているのがわかった。

試しにスケジュール帳をめくって

12月の予定を眺む。

すると、年末年始に2日間は

休みをとっているのは見えたが、

クリスマスもそれ以外も

大学やバイト、練習や仕事で詰まっていた。


思わずため息を吐く。

年末年始は休みとはいえ、

家族で集まるものだから

実質休みにはならない。

むしろあまり話したことのない

親戚までも集まるのだから、

一層疲れることだろう。


近くに転がっていたボールペンを手に取り、

2日と3日両方に

大きくばつ印を書いた。

今後ここには物理的に

予定を入れないようにするために。


雫「え、え?」


澪「ここ2日間は毎日12時間寝とき。」


雫「そんな寝れないよー。」


澪「寝るのも体力がいるけんな。」


雫「そうそう。だから外に出てた方が…。」


澪「目の下、くまできとるけん。少しは休みぃや。」


雫「え、嘘!?」


澪「ほんと。」


雫「うわー…ここ最近は特に気をつけてたんだけど…。」


澪「このスケジュールで動いとったらそりゃ疲れ溜まるわ。」


雫「ぅ…やっぱりそう思う?」


澪「ただでさえハードなんやから。」


雫「でも、今年いっぱいは頑張りたくって。」


澪「何でなん?練習…は切らんやろうし、バイトを減らすかやめるかしたらいいっちゃない?」


実際親からの仕送りや資金的援助で

不便しているわけじゃない。

姉自身のバイト代がなくても

2人で生きていけるくらいはある。

それでも。


雫「バイト先で仲良い子がいるし、あんまり辞めようとは考えてないんだ。」


澪「そうなんや。」


雫「うん!あと、練習するにも場所代とか、あと本番にも衣装代に場所代…いろいろかかるからね。」


澪「頑張っとるんやね。」


雫「うん。楽しいからへっちゃら。」


姉は心底楽しそうに笑った。

それがうちには随分と

眩しく見えて仕方がなかった。


雫「気遣ってくれてありがとね。」


澪「ううん。」


雫「じゃあここ2日間はできるだけ休もうかな。あ、でも一緒に出かけたかったら言ってね?」


澪「はいはい。休むことを頑張ってな。」


雫「うん。」


そう言ってココアを飲むのを

見届けることもせず、

朝食を温めに行った。


学校に向かったのは

昼休みが終わった後の

5限からにすることにした。

準備や登校時間を考えると

どうにも微妙になってしまって、

キリよく午後からの重役出勤。

また家を出る時には

姉には気づかれていなかったようで、

教室に入っても

当然のように誰1人として

こちらを見ることはなかった。


今日も案の定、

昼休み後だから仕方のないことか、

生徒が座っていた。

もう声を上げる気にもなれず、

鞄を机の上に置いて

そのままぶらりと散歩する。


澪「…。」


昨日の今日で、

また随分と1人になった気がする。

これまで約2年間

一緒に過ごしてきた鈴香ですら

うちのことが見えていないようで、

最近は自分の席で1人

スマホか参考書を

見つめている姿が視界に入る。

うちが休んだ時はこうして

過ごしていたんだろうなと

ぼんやり思うばかり。


廊下を歩いていると、

理系3年の教室の前をたまたま通りかかり、

そういえばとふと昨日のことを思い出す。





°°°°°





うちが自分の席に座って

ぼうっとネットサーフィンを

していた時だった。


「篠田さんいますかー?」


突如教室前方から

声が響いてきた。

見覚えのあるサイドテールが揺れている。


梨菜「…?」


教室全体を見渡しても

どうやらうちのことが

目に入っていないようだった。

嶋原とばっちり目があったと思っても、

彼女は気づくことなく

そっぽを向いてしまった。

やっぱり気づかれないんだなんて

半ば諦めながら伏せようとした時。


「篠田さん。」


また、あの特徴的な高い声が降る。

先生との面談があるからと

知らせてくれたあの声と同じだった。


寧々「嶋原さんが呼んでますよ。」


澪「…。」


寧々「どうして行ってあげないんですか。」


澪「…。」


寧々「嶋原さんには待ってもらっているので、行ってあげてください。」


そのまま無視してもよかったけれど、

嶋原は、今度はうちの方を

見やっているらしい様子が見えた。

うちが声を上げたわけでもないのに、と

吉永に睨むように視線を送る。

それでも彼女が狼狽えることはなかった。

仕方なしに席を立ち、

重たげな足取りで嶋原の元に向かう。

すると、いつものように

屈託のない笑顔で

うちのことを迎え入れてくれた。


梨菜「時間大丈夫だった?」


澪「まあ、何もしとらんかったけん別に。」


梨菜「そっかそっか、よかった!」


澪「珍しいやん。どうしたと。」


梨菜「あー…それがね。」


嶋原は気まずそうに眉を顰めると、

今度は耳打ちするように

声を絞って言った。


梨菜「いろいろ大変だって聞いて。」


澪「誰に。」


梨菜「えっと…去年…あ、今も…お世話になってる人たち…?」


澪「…?」


梨菜「まあとにかく、大変なことになってるんでしょ?」


澪「受験け。」


梨菜「もー、とぼけないでよ!」


澪「……はいはい。不思議なことが起こっとるって話な。」


梨菜「そう。……その…私にできることは少ないんだけど…何かあれば手伝うから!」


澪「…。」


梨菜「篠田さん?」


澪「じゃあ聞くけど、あんたは何ができるん。」


梨菜「え…?」


できることは少ないというなら、

何かはできるということ。

うち自身、この出来事に関しては

…自分の存在が

消え始めていることについて、

全くと言っていいほどわからない。

原理も期限も何もかも。

それに、どうしたいかだって…。

…。


そんな中で嶋原は何ができるというのだろう。

適当に言っているだけであれば、

言わないでほしい。

希望を持たせないでほしかった。

…いや、そもそも希望かすらも

断定できないけれど。


うちからこんな返事がくるとは

思ってもいなかったのだろう。

嶋原は目をまんまるにしてから、

少し考えるように俯いた。


梨菜「ありたりだけど、話を聞くだけ。何なら聞き流すことだってできるよ。でもね、言えることはひとつだけ。」


澪「…。」


梨菜「私は篠田さんの未来は選ばないよ。友達とはいえ他人の未来まで責任は負いたくない。」


澪「…負えない、やないんやね。」


梨菜「言葉のあやだよ。どうしたいかは篠田さんが決めること。」


澪「はーあ、嶋原からそんな真面目な返事が来るとは思ってなかったわ。」


梨菜「えへへ。いつでも呼んでね。手伝えることがあれば私も頑張るから。」


澪「ん。助かるわ。」





°°°°°





澪「…とは言ってたけど。」


梨菜「…。」


理系選択の生徒の集まる教室に入り、

嶋原の前に立ってみてもこの様だ。

どれだけ豪語していたって

うちが見えなきゃ意味ないだろうに。


澪「…あほらし。」


違う。

勝手に期待して勝手に裏切られたなんて

思っている方があほらしい。


澪「これもどうせ聞こえとらんのやろ。」


梨菜「…。」


澪「…ふん。」


やっぱり。

本当に時間の問題なのだろう。

いつ完全に認知されなくなるのだろう。

そうなった時、うちはわかるのだろうか。

捜索願いでも出されるのだろうか。

それとも、今朝の姉のように

うちがいたことすら

忘れ去られてしまうのだろうか。

姉はどうするのだろう。

今後の生活の中で、

うちのことを思い出す時はあるのだろうか。

泣くのだろうか。

疑問に思うだけで終わるのだろうか。


教室ではどうだろう。

鈴香はうちがいなくなっても

案外平然としているだろうか。

それとも、彼女の受験に

多少の影響が出るくらいには

気にしてくれるだろうか。

事件として扱われたら

ほぼ知らないも同義の同級生たちは

うちのことを引きずるだろうか。

いつ、教室からうちは

忘れ去られるのだろうか。

いつ、うちは教室を忘れるのだろうか。


もし本当に透明になったら。

うちは呼吸し続けるのだろうか。

それとも、透明を終着点に

本を閉じることになるのだろうか。

その全てが明日以降の

うちにしかわからないことを、

今のうちは知ってしまっていた。


もし。

…。

本当に透明になれたら。


澪「…っ。」


願っていたはずなのに。

ああ、何故だろう。

何でなんだろう。

何でこんなに不安なんだろう。

もし、本当にいなくなったらと思うと

どうしてこんな怖くなるのだろう?


わけもわからず教室を飛び出して、

今度は廊下の真ん中で

蹲りそうになる。

それでも誰も気づかない。

ぶつかりそうになりながら

何とか人を避けて自分の教室まで戻る。

人、人人。

それでも誰1人としてー。


寧々「…大丈夫ですか。」


澪「…話しかけてこんで。」


寧々「でも」


澪「うるさい。」


寧々「…。」


澪「……何でっ…。」


何で。

何でこんな時になってまで

あんたに話しかけられないかんと。


どうしてこれだけ多くの人に

見つけてもらえなくなっても

吉永だけは確とうちの方を見て、

うちを認知して、

うちに話しかけてくるのだろう。

どうして。

どうして?


逃げるようにして教室の窓際の

自分の席へと戻る。

もうすぐで授業が始まるおかげで、

幸いなことに席には誰も座っていなかった。

席に着くと同時に先生が

流れるように教室に入ってくる。

手には大量のノートが

重ねられていた。


席が前の人にノートを分配し、

それを返すようにお願いしているのが見える。


澪「…。」


お願い。

お願い。

今だけ、奇跡が起きて欲しい。

奇跡が起きて、

無事ノートが戻ってくるような、

そんなことが起こって欲しい。


こんなことはわがままでしかなくて、

うちが決めきれないのが悪くて、

弱くて仕方ないのに

強がっていることがよくなくて。

そんなことわかってる。

わかってるつもり、かもしれない。

けど、今だけは。


何故か突如として襲いかかる

津波のような感情から

目を背けることもできず、

膝の上で拳を作った。


手のひらのありとあらゆる皺に

汗が迸り出している。

髪の毛1本が揺れることすら

敏感に感知してしまう。

1分、1秒と過ぎ去るのが

異様なまでに長い。

長くて、先が見えないほど長くて。

目を閉じて、この場から走って

逃げ出してもよかった。

こういう時ばかり

好奇心を溝に捨てたかった。


先生「じゃあ授業を始めますね。116ページを…」


澪「…っ。」


わかってた。

諦めていた方がよかった。


うちの元にノートは戻ってこなかった。


結局いてもいなくても

いいような授業を最後まで見届け、

ノートを取ることもなく耳を傾け続けた。

そのどれもが頭の隅にすら残らず、

海馬のどこにも

住むべき場所がなかったのはいうまでもない。


ただ、何となく居続けた。

学校に行くのをやめてしまったら、

それこそ本当に

いなくなってしまうように感じたから。


澪「…。」


けれど、いたって同じなのだ。

今日は大きな声をあげておらず、

だから人に認知されていないのは

理解している。

だが、誰かを呼ぶ気にもならない。

もし声を出しても

誰にも気づかれなくなった時が怖いから。


あんなに願っていたくせに

いざとなったら取り消したくなるうちは

とんでもなく屑なのだ。


澪「…もう…。」


いっか。

そう思いかけた時だった。





°°°°°





梨菜「言葉のあやだよ。どうしたいかは篠田さんが決めること。」





°°°°°





澪「…っ。」


どうしてか、嶋原の言葉がよぎった。

きっと誰に言われたとしても

この言葉は今のうちのような状態であれば

言わずもがな刺さったに違いない。


放課後になり、生徒たちは

わらわらと各々の行先へと去っていった。

数人は教室で勉強し、

多くは帰宅するか塾に行くかしだす。

あれこれ悩んだ結果、

まだ迷っているのであれば、

一旦は措置をとっておいた方が

いいんじゃないかという決断に至った。


ただ、措置でしかなく

解決へと向かいたいわけじゃない。

現状維持でしかない。

そのために利用するだけ。

そう何度も言い聞かせたのち、

唯一うちのことが見える

彼女の席へと近づいた。

うちが吉永の席の近くで止まると、

思ってもみなかったのか

勢いよく顔を上げては目を丸くしている。

それほどまでに

予想外のことらしい。


寧々「…何でしょうか。」


澪「手を借して欲しいっちゃけど。」


寧々「え…?」


澪「…この前提出したノートが戻ってこんかったっちゃん。」


寧々「わかりました。」


澪「……は?」


寧々「は?…って。頼んだのはあなたじゃないですか。」


澪「…。」


そう。

それはそうなのだけど、

これまでのうちの言動を鑑みて

素直に申し出を受ける方がおかしいのだ。

話しかけられれば悪態をつくか無視をし、

事務的なこと以外話しかけてこなくなるまで、

否、それ以降も無碍に扱い続けた。

その影響もあってか、

吉永の周りには人脈が

できているのは見ていたが、

それでも懲りずに何かと

話しかけようとしていた。

どれだけ悪く濁った言葉を渡しても、

事務的なことでいいから

交流を図ろうとする場面がいくつもあった。





°°°°°





寧々「…先生からの伝言です。放課後、少し面談をしたいとのことです。」


澪「…。」


寧々「…よろしくお願いしますね。」





°°°°°





それなのに吉永は

すんなりと手伝うと言ったのだ。

恨みをかっていてもおかしくない。

それこそ、この状況を喜んでいても

何らおかしなことではないのに。


思わずたじろぐも

吉永はそれを微塵も気にしていないようで、

荷物をまとめてこちらを眺む。


寧々「荷物はいいんですか?」


澪「…今持ってくるけん。」


寧々「わかりました。待ってますね。」


特に笑うこともせず、

むしろ悲しそうな目を

しているように見えたのは、

うちの気のせいでしかないのだろう。


荷物をまとめて鞄を持ち、

そろそろ暖房が入り始めた頃であろう

職員室へと向かった。

吉永のやや後ろで足を進めながら、

廊下で道ゆく人を

今日もないけれど見つめていた。


スマホをいじりながら歩いている人、

受験生だろう、

願書関係の書類を持って走っている人、

テニスかバドミントンのラケットを

背負っている人。

それぞれの生活があることは

頭では理解しているのだが、

こうも目の前で繰り広げられると

何とも不思議な気分になる。


寧々「あの。」


澪「…。」


寧々「どうして私の後ろを歩いているんですか。」


澪「…横並びになる必要もないやろ。」


寧々「私のことが苦手だから…ですよね。」


澪「…。」


吉永は声を落として言った。

それでも、うちから見えるのは

短めのふたつ結びが

歩くペースに合わせて

ぴょこぴょこと動いている背中だけ。


彼女の問いに本気で答えるとしたら、

厳密には違うことになる。

うちは真面目な人間が嫌いなだけ。


だが、そんな嫌いな人間と

言葉数を交わしたくなくって、

話を切り上げるように口を開いた。


澪「人とぶつかるのが嫌やけん。」


寧々「…そうですか。」


現に今の状態じゃ

正面から人が走ってきても

うちが避けられなかったら

そのままぶつかるしかない。

相手は気づかないのだから。


うちの思考が届いたのか、

吉永は以降職員室に着くまで

言葉を発することはなかった。


職員室に入る彼女を見守り、

先生と話している姿を

遠巻きに見ていた。

近くには、去年あたりから設置された

僅かな席数の自習机があり、

受験生が占領しているようだった。

いつかはここで

勉強するのだろうなと思っていたけれど、

今日もこうして何もしていない。

思えば、透明になる現象が始まってから

全てを諦めたかのように

熱心に勉強するのをやめてしまっていた。


しばらくして吉永は

ノートを持って戻ってきた。

未だどこか不安げな顔をしながらも、

両手で手渡してくれる。

随分と小さい手だなと思った。


寧々「これで大丈夫でしょうか。」


澪「うん。」


寧々「他は何かお手伝いできますか。」


澪「…いいや。…今日は助かったわ、それじゃ。」


寧々「待ってください。」


澪「何ね。」


思わず、わずかに怒りの募った声を刺す。

それでもたじろぐことなく、

むしろ1歩踏み出してくるのが吉永だった。


寧々「おかしいと思いませんか。」


澪「…。」


寧々「何のことについてか、分かってますよね。」


澪「…別におかしくてもどうでもいいやろ。」


寧々「どうでも良くないです。」


吉永は力を込めて言うもので、

周囲の人がぱらぱらと

彼女に視線を向ける。

それも束の間、

各々の行動に戻っていった。


寧々「グループワークだってさっきのノートの件だって…そこにいるのに、いないような扱いをする。」


澪「…。」


寧々「…いじめなのであれば、私が止めます。」


澪「そんなんやない。わかっとるくせに。」


寧々「…。」


澪「何で先生はちゃんと授業を受けんうちを怒らんと思う?何で当てる時に順番を飛ばすと思う?」


寧々「…それは」


澪「いじめやない。誰にも悪意も悪気もなか。」


寧々「……。」


澪「それこそ、あらかた事情は知っとるやろ。うちが認知されなくなってきとるって。」


寧々「…っ!」


澪「もう時間の問題やろうね。」


吐き捨てるように言うと、

吉永は手に力を込めたまま俯いた。

こいつだってわかっているのだ。

また不可思議なことが起き、

三門同様うちもいずれ

なかったことにされるのだと。

なかったことになるのか、

存在は残ったまま

行方不明だか亡骸扱いだかされるかは

てんで予想つかないけれど、

このまま過ごせばうちは

事実上いなくなるであろうことはわかる。


諦めたのか動こうとしない彼女をよそに

帰ってしまおうと思った時だった。


寧々「じゃあ!」


澪「…。」


寧々「それならどうして私は見えるんですか。先生にもクラスメイトにも見えなかった篠田さんを、どうして私は見つけられるんですか。」


澪「…知らん。明日にはあんたの前からもおらんようになるっちゃない?」


寧々「縁起でもないことを言わないでください!」


澪「やかましいと。うちがあんたのこと嫌っとるって知っとるっちゃろ?これも優等生ぶるための算段っちゃろうね。」


寧々「違います。私はただ…」


澪「道具に使うんなら見える人にしとき。無駄やけん。」


寧々「話を聞いてください!」


澪「話すことなんてなか。」


真面目な優等生になるための

道具として使われるくらいなら、

誰にも干渉されずに

透明になった方がよかった。

姉との一件は勘違いで

ある程度自分の中で解決したとはいえ、

100%姉の言葉ではないとは限らない。

真面目な人間は信じることができない。

必ず何かしら裏がある。

その思考は簡単には解けてくれない。

今もそのせいで苦しんでる。


人間が容易に変わらないことくらい、

うちだって知ってるつもりだった。


無理矢理話を途切れさせ

そのまま振り返ることなく足を踏み出したが。


寧々「待ってください!」


あまり勢いよく腕を引くもので、

手にしていたノートが

蝶のように舞い落ちた。

こいつの声が通るせいか否か、

周囲の人が振り返って

こちらを見ているのがわかる。

それもそのはず。

周囲からすれば吉永は1人で

劇をしているようなものなのだから。


寧々「絶対方法はあります。この状態から抜け出す方法が!」


澪「別に望んどらんっていいようと。」


寧々「そしたらノートなんてどうでもいいじゃないですか。」


澪「…っ。」


寧々「ノートをとることだって、授業を受けることだって、学校に来ることだって…見えなくなっちゃったら必要ないじゃないですか!」


澪「…そう…やけど」


寧々「でもあなたはその道を外れなかった。それだけで理由は十分じゃないですか。」


どうして学校を休まなかったか。

遅刻してでも行ったのか。

気づかれなくても参加して、

知らずのうちに仲間はずれにされても

自分から話しかけに行って、

何とか認知してもらって。

本当に透明を願っているのであれば、

そんなことはただの邪魔な行動でしかない。

透明になることを

嫌がっている人しか

こんなことはしない。


吉永にノートを取ってきてもらうよう

お願いなんかしない。


自分でもわかってる。

この行動諸々が全て

矛盾していることはわかってる。

でも、どうしたらいいのかわからない。

自分の心も感情も

どうやら迷子になってしまった。


返す言葉もなく俯いていると、

ぐ、と強く腕を引かれた。

バランスを崩しそうになりながらも

顔を上げると、

吉永が神妙な面持ちで

声を顰めて言った。


寧々「…!…気づきませんか。」


澪「…は?」


寧々「……周りの人の声…。」


何を言っているのか分からなかったが、

ばくばくとなる心臓の音をよそに

そっと耳を傾けてみる。

すると

「あの2人何してるんだろうね」

「喧嘩じゃない?」

「職員室前はやばすぎ」

と、仲が良さそうな話し声がしていた。


辺りを見てみれば、

相変わらずこちらを無きものとして

扱っている人もいたが、

数人は面白げにこちらを見ては

また何人か噂をするように

ひそひそと話している。


もしかして。

そう思ったと同時に、

隣から彼女の声がした。


寧々「……今、もしかしたら見えてるんじゃないですか…?」


澪「…っ!?」


咄嗟に腕を振り払う。

彼女ののこめる力は弱くなっていたのか、

最も簡単にふり解けてしまった。

そのまま落としっぱなしにしていた

ノートを拾い上げ、

鞄に詰め込む前に

その場を走り去った。


人の目は明らかに

こちらを向いていた。

廊下を走っていても、

前から歩きゆく人が走るうちに気づいては

慌てて道を開けた。


澪「…何で…。」


廊下を走り、玄関を出て、

通学路を走っていても、

人は自然と避けて行った。

これまでの当たり前の景色なだけ。

それだけなのに、異常に見えて仕方がない。


澪「何で…っ!」


未だノートを鞄に入れず、

抱き抱えたまま足を動かしていた。


どうして突如として見えるようになったのか。

答えは出ているにも関わらず、

それから逃げるように

遁走し続ける他なかった。

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