半側空間のこちら側
ピピピピ…。
ピピピピ…。
脳のしわに入り込んでくる電子音。
まるでとんかちで全身を
くまなく遊び程度に叩かれているような
不快感と共に朝を迎える。
澪「…。」
今日も中古の日差しを前に
気だるげにあくびをした。
伸びをするだけで
関節はぱきぱきと音を立てる。
こもっているはずの空気が、
朝日のせいで輝いて見える中、
怠け者のようにゆっくりと
布団を剥いでいった。
途端、冬のような風が
素肌に当たり散らす。
澪「…さむ。」
もう10月も終わる。
冬がやってくる。
今後やってくるイベントといえば
模試と受験だけ。
文化祭も終わってしまって、
気が軽くなるようなイベントなんて
年度末頃にしか待っていない。
無論、受験が終わるというイベント。
ただ今年の私次第では、
来年まで受験が続くなんてことが
あり得てしまう。
志望校はおろか、
滑り止めにすらD判定なのだから。
自分の中では
結構落とした方だと思っていたが、
なんならそのラインすら危うい。
だからと言って、モチベーションが
山のように上がるかと問われれば
それは別問題だ。
やらなきゃという危機感はある。
でもどうにも体も頭も動かない。
それでも。
澪「…。」
それでも、形だけでもと思い
机に向かった。
座った。
参考書とノートを開いた。
そしてペンを持った。
なんとなく、そして意味もなく
一直線を引いてみる。
黒鉛がすり減り、
やがて歪な形に落ち着いた。
その黒鉛を指でなぞる。
指の腹の皺に黒鉛が一直線のまま
びっしりと溜まっていた。
澪「……。」
ああ。
今日も意味のない日になるだろう。
清々しい空気なんて誰が言ったのだろう、
足先が冷えて辛いだけの朝を脱ぎ捨てて
漸くリビングに向かった。
姉と共に住み始めて早3年目。
長いこと一緒に過ごす中で、
酷く人を刺す言葉を
通話しつつ誰かに陰で吐いていたと
知ってしまったあの日までは
姉のことが好きで好きでたまらなかった。
その出来事も、誰かの差し金で
言わされていたと推測ができ、
大きな大きな、約2年にもわたる
姉妹喧嘩を通して漸く仲直りをした。
かと言って、今では姉を
好きすぎるかと言われると
そうでもない。
ただ、程よい距離間で
悩み事があれば相談できて、
家事を分担できる。
そう、ただの家族。
依存にも陥らない、
尊敬はしているが崇拝はしないほどの関係。
そんな姉は早起きなもので、
いつだって6時前には
起床している。
今日だって例に漏れず、
早起きしては美味しそうな
焼き鮭の香りを漂わせていた。
裸足のままぺたりと音を鳴らし、
キッチンを覗き込む。
パジャマにエプロンをつけている
姉の姿が目に入った。
澪「おはよう。」
雫「…。」
気づいていないのか、
眠たげな目を擦りながら
くるりと背を向けて冷蔵庫を開く。
香ばしい香りと音だけが
この空間を満たしていた。
変な汗をかいたような気がして
そっと首元に触れる。
さらりと指の指紋が
首筋をなぞっていく。
黒鉛が付着していたことを忘れたまま。
澪「お姉ちゃん。」
雫「ふんふー…。」
澪「…。」
冷蔵庫から食材を取り出しては
鼻歌を歌いながら袋から出した。
ぺたり。
たん。
床から足の剥がれる音、
そして足をつく音。
うちには全て聞こえている。
冬の始まりの音すら
聞こえてきそうなほど。
足から痺れるように凍えていくのが分かる。
きっと朝のせいだろう。
澪「ねえ。」
姉に近づいて、今度は肩に手を添えた。
すると、姉は勢いよく振り返って
ありえないものを見るような目で
うちのことを凝視していた。
何のことかわからず
きょとんとするうちを他所に、
大きく深呼吸する彼女。
包丁を手にする前でよかった。
もし野菜を切ろうと
包丁を手にしていたら、
この驚きようであれば
手から滑り落ちていただろう。
雫「わ…っ!?…あぁ…びっくりした…。」
澪「声かけとったんやけど。」
雫「ごめんね、ぼうっとしてたかも。」
うちもうちで
声が小さかったのかもしれない。
寝起きだったし、鮭は焼いていたしで
音が霞んでいたのだろう。
雫「もう少しでご飯できるよ。」
澪「ん。ありがと。」
姉の普段通りの
春の日向のような声をよそに、
うちの声は水に落とした鉄の如く
沈んでいった。
朝ごはんを頬張り、
姉に「行ってきます」と声をかけるも
どうやら耳に届かなかったようで
そのまま家を出てきた。
視野いっぱいに広がる景色は
いつもとほぼ変わりはない。
行く人が違うだとか、
天気が異なっているだとか
多少の変化はあれど、
昨日今日でそこらに
海ができることもなければ
森ができることもない。
普段と何ら変わらない、
見飽きるほどの生活のはずだ。
澪「…。」
…ふと、今朝の姉の
驚いた顔を思い出す。
心底ぎょっとしたような顔をしていた。
瞳孔が点になるほどと言っても
過言ではないだろう。
そこまで驚くことだろうか、とすら思う。
…。
足元に、くしゃくしゃになった
レジ袋が風に吹かれて転がっていた。
それを眺めていると、
肩に強く衝撃が走る。
バランスを崩しながら
ぶつかってきたものを見やると、
そこにはスマホを手にしたまま
歩いていたらしい男性がいた。
声に出して謝罪することもなく、
目を伏せて会釈し
その場を歩き去ってゆく。
うちが前を向いて
歩いていなかったし、
相手方も同様にスマホばかり
見ていたから起きた
ただの事故なのかもしれない。
けれど、こういう場面に遭遇するたび、
頭の奥でやけに生々しく
それで持って不可解な仮定が浮かんでしまう。
澪「…やっぱり。」
…そこまで言いかけて、口を噤む。
きゅっと唇も靴紐も結び、
また通学路を辿る。
最近立て続けにこのようなことが起きる。
電車で人にぶつかられたり、
先生の視界に入らなかったり、
遅刻してもいつからいたかと言われたり、
買い物や駅で順番を抜かされたり、
人に声をかけても
気づいてもらいづらかったり。
どれもこれも些細なものだけれど、
小さな違和感が蓄積している。
でも、この仮定を声に出したら。
思考し正解だろうと思う域にまで
もし達してしまったら。
うちは。
…この先の未来を
想像できてしまって
少し怖いのかもしれない。
だから、今はこのまま
なあなあにしていたかった。
なあなあにするべきだと思った。
学校に着くと、今日は少しばかり
遅く家を出たせいか、
既に多くの生徒が教室にいた。
あと10分も経たずして
ホームルームが始まるけれど、
席を立って話している人が目立つ。
ふと鈴香と目が合うも、
まるで無視するかのように
自身の席に座った。
ひやり、と嫌な予感がまた
背筋を伝ってゆく。
些細なこと、些細なことでしかない。
そう何度も言い聞かせて
自分の席に向かうと、
普段は後ろの席で
だべっている生徒が座っていた。
うちが来るのが遅かったし、
今日も遅刻してくるだろうと
思ったのだろう。
澪「ねえ。」
声をかけて鞄を置く。
席を取られているのは
素直に邪魔だと思う。
だから考えることなく
慣れたように声を出した。
声をかけること自体は別に
そんなに怖くはない。
むしろ相手方がうちのことを
避けているまである。
もしかしたらうちが
ヤンキーやヤクザといった
裏社会の人間と繋がっているなんて噂も
立っているのかもしれない。
理由は知らないが、
距離を置かれているのはわかる。
そんな彼女たちだが、
何事もないように会話を続けていた。
けたけた、と笑い出す。
本当、何事も起こっていないよう。
…いや。
もしかしたら本当に
起こっていないのかもしれない。
はたまた、皆してうちを
無視しようという話でも上がったのか。
澪「ねえ。」
もう1度声をかける。
今度はちゃんと聞こえるだろうほど
声を張り上げて。
けれど、彼女たちの耳には届かない。
駅にいるわけじゃないのだし、
ある程度声を張れば
聞こえるはずなのに。
澪「…っ。」
本当に、本当に嫌な予感が
現実になってしまう。
認めざるを得ない状況に
なりつつあるのかもしれない。
背筋からは涼しくなってきた季節にそぐわず
じっとりとした汗が伝う。
まるで筋肉が硬直してしまったかのように
手先が痺れ出している気すらする。
まずい、と思うと同時に
半分受け入れそうな自分がいる。
自分から願っておいて、
それからすらも目を背けようとしている。
澪「ねえって!」
「うわっ!?」
教室の至る所で作られていた波は
一斉にして止んでしまった。
皆の視線が刺さるのがわかる。
背を向けていても、
その針が背に向かっているのが
嫌でも理解できてしまう。
目の前にいた生徒は
目をまんまるにして束の間固まり、
ややあってから「ご、ごめん」と
席から離れてくれた。
相手方も自分に驚いているだろう、
目の鼻の先にいた人物に
全く気づかなかったのだから。
足まで廊下側に向けて、
顔だけを後ろの席に
向けていたとはいえ、
流石に鞄を置かれたら普通気づく。
教室に喧騒が戻ってから、
後ろからは
「綾、ガチで気づかなかったの?」
「マジ?やばすぎ。」
「いつからいたのか知ってた?」
「いや、うちもさっき声かけられてから知った。」
「影薄いどころの問題じゃなくね?」
と、ほぼ怪奇現象も同義、
テンションが曲がった方向に
上がっているようだった。
恐怖と楽しさが混ざったような、
それで持って気が動転しているような、
まとめてこれ、と表せない感情が
湧き上がっている様子。
それに耳を傾けることもやめ、
何となく伏せて眠るふりをした。
わかりたくないけれど、
わかってしまっている。
気づきたくないけれど、
目を背けたいけれど…。
きっと、多分でしかないが…。
澪「…。」
人に感知されなくなっている。
まるで少しずつ存在が
薄れていくような、
実感はないけれど
周囲の反応からそうなんじゃないかって
闇雲に推測してしまう。
…もしかしたら三門も
こうだったのかもしれない。
…もしかせずとも、
うちの願いは叶おうと
しているのかもしれない。
°°°°°
澪「…死にたいとは思わんかった。そう思ったらいかんような気がしとってん。」
陽奈「…。」
澪「でも、無意識のうちにいつからか思うようになっとったんやろうな。」
陽奈「…。」
澪「透明になりたいなーって。」
陽奈「…っ。」
澪「そんなん、消えたいも同義やんって思うかもしれん。でも、うちの中ではちょっと違うと。」
陽奈「…。」
澪「こう…うまく説明できんけど、透明がよかったと。」
°°°°°
澪「…。」
あの時の奴村の顔。
唖然としていて、何だか面白かった…
なんて無理に思おうとしても、
何故かあの悲壮感に満ちた表情が
心臓を抉るように刺してくる。
透明が良かった。
ずっと、いつからかそれを願ってた。
願うだけで叶うなんてことは
あり得ないけれど、
それでもいつか奇跡が起こりますようにって
願い続けていた。
それが、叶いかけている。
本当に透明という意味合いなのか
はたまた少し曲がって
叶えられようとしているのかまでは
わからないし、
最後までは知ることはできないだろう。
答え合わせをする頃、
うちの自我が残っているかも知らない。
澪「…。」
ぎゅ、と瞼を閉じる。
遠くから海の音が聞こえてきてほしかった。
泡の弾ける音や、
波が薄明の朝と戯れるような音でもいい。
あのさざめく蝉の声じゃなければ、なんでも。
授業が始まり、
この時に席を立ったって
バレないんじゃないかとよぎるけれど、
流石にそれをすることはできなかった。
いつもの、規範通りの行動を
やめてしまったら、
その時もし気づかれなかったら、
うちは本当に人として
過ごすのをやめてしまいそうだったから。
ただ、昼休みにいつも一緒に
昼食をとっている鈴香は、
今日ばかりはうちの元に来なかった。
何とか意思を固め
鈴香の元に行くと、
「途中から教室にいなかったから
どこに行ったのかと思ってた」
なんて口にされる始末。
鈴香ですらこれならば、
本当にうちのことを
認識できている人は
ほぼいないのだろう。
放課後までずっと、
授業中は空を見て過ごした。
それでも何も言われなかった。
何故か回し読みでは
順番を飛ばされ、
何故かグループワークは
うちを抜きにして始まった。
声を強く上げなければ
基本気づかれないらしい。
皆が机をいくつか合わせて話し合う中、
うちだけが元の位置のまま
外だけを眺め続ける。
それでも誰も気づかない。
幽霊になった気分だった。
もう既に命を絶ってしまったんじゃないかと
時折不安になるくらいには
事態の異常は進んでいる。
帰りのホームルームでは、
ノートを集めるとのことで
帰る前に学級委員に
提出して欲しいと連絡があった。
成績評価のためらしいが、
自分が勉強する用のノートを見て
一体何が評価できるというのだろう。
ノートを書いているか書いていないか。
それだけが基準なら、
黒板の写真を撮って貼り付ければ
いいんじゃないかと思ってしまう。
自分が見返してわかればいいものであって、
写真にメモを書き込んでいたって
何も悪いことではないのではと思う。
それが本人にとって
丸く収まる勉強方法かもしれないのに、
ノートにシャーペンで板書をしていなければ
それはまともに授業を受けていたことに
ならないらしい。
正確にいえばなりづらい、かもしれない。
一応規範だから従うけれど、
そこのシステムには前々から
疑問を持っていた。
今回だってそう。
どうして必要なのか
全く理解できないままにノートを出す。
澪「…。」
が、そこで手が止まった。
皆それぞれノートを提出して
帰っている人もいるのに、
うちは席から立たずにいた。
けれど、このままいたって仕方がない。
ややあってから
思い切って立ち上がり、
ノートを回収していた生徒の元にまで寄った。
が。
澪「…!」
運悪く、その人はノートを集め
終わったと思ったのだろう。
鞄とノートの束を持って
教室を出ていってしまった。
現に、ホームルームを終えて
幾分も経ているせいで、
教室に残っている生徒以外は
ほぼ退出していたし、
彼女自身の行動は何らおかしくない。
うちが見えていないように
動いていること以外は。
澪「待って。」
「…。」
澪「ねえっ!」
思わず声をあげて
その子の方に触れる。
すると、彼女はひどく驚いた顔をしながら
こちらを振り向いた。
あ、同じだ。
今朝の姉の表情と
全くと言っていいほど一緒。
急にそこからふと
鳩でも飛び立ったかのような衝撃でも
受けたのだろう。
澪「…これ。」
「あ、あぁ…ご、ごめんね!」
気さくにそう返してくれるも、
何だか怯えていそうなことくらいわかる。
目を伏せ、何かを言うこともなく
そのままふらりと教室に戻る。
それでもきっと、
うちは誰にも気づかれていない。
元より距離を置かれる存在だったから、
実際には見えているのか、
はたまたそうではないのかが
絶妙に分かりづらかった。
これまでずっとこれでよかったはずが、
今になって不安が波のように押し寄せてくる。
望んでいたはずなのに、
叶いそうになってしまって
怖気付いていた。
まるで海の底でもがいているような、
水が邪魔でどれだけ叫んでも
誰にも届かないような。
そんな不安感、圧迫感。
溺れるに近い感覚を
陸で味わっていることが奇妙すぎて、
悲観的ながらも笑いが
込み上げてきそうになる。
鞄を取ってさっさと帰ってしまおう。
そう思った時だった。
寧々「あんなに大きな声を出さなくても。」
廊下側に座っていた吉永が
皮肉ながらそう言った。
振り返ることも返答することも
しないでいると、
間髪入れずにまた口を開く。
寧々「教室まで聞こえてましたよ。」
澪「…。」
だからなんだと言うのだろう。
そんな人、いくらでもいるのに。
うちの状況を知らずして
適当に言っているだけ。
そうわかっていると
どうにも気にする対象じゃないと
脳は理解しているようで、
耳は一切の言葉を受け付けず
教室を後にした。
澪「……ちっ。」
理解しているのに。
わかっているのに。
話していないのだから、
うちのことも、
うちの身に起きていることも
知らなくて当たり前なのに、
それでも突っかかってくる彼女に
密かな苛立ちが募っていた。
これもまた、うちの器が
小さいだけの話だった。
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