息の吐き方
遅めの朝の電車でも
思わず苦い顔をする。
通勤、通学ラッシュでは
目の前には人の背中が敷き詰められている。
乗り換えの駅までは仕方のない光景だ。
3年間繰り返していれば
不快感はあれどあの光景にも慣れてきた。
今日ばかりは気が向かず、
けれど1日休むのも気が引けて
3限から学校に行くことにした。
澪「…。」
スマホの画面を開き、
勉強時間管理のアプリを見る。
すると、受験までの日数が表示された。
共通テストまではあと60日と少ししかない。
もう2ヶ月ほどしか
猶予は残されていなかった。
どこに行くにも何をするにも
受験のことが頭から離れない。
時に休憩も大切だと言うけれど、
本当の意味で頭を空っぽにして
楽しめたのはいつ以来だろう。
少なくとも今年になってからはないだろう。
大して受験勉強を
するわけでもないくせして、
立派な使命感、義務感だけは募り
気を抜いて休憩することができなかった。
ぐらりと大きく電車が揺れる。
近くにいたOLらしい
オフィスカジュアルな服装を纏った女性が
こちらに突進してきた。
澪「…っ!」
ずっとスマホに目を向けていたせいで
どうやら周りのことが
見えていなかった様子。
そのまま大きく足を踏み出しては、
何と運の悪いことに
うちの元にまで足が伸びた。
ヒールがほぼなかったことが
不幸中の幸いだったが、
思い切り足を踏まれた。
「あ、すみません!」
女性は申し訳なさそうに
咄嗟にそう口に出してくれた。
元はと言えば電車が突然
揺れたのが原因で
彼女が悪意を持って踏みにきたわけじゃない。
ただ、ある程度自分のいる範囲で
どうにかできそうな気はしたけれど。
満員電車ではないのだし、
足の踏み場なんていくらでもあったろうに。
澪「…いえ。」
ひと言言うと、女性は浅く会釈をして、
次の駅で降りて行った。
乗り換え駅のひとつなもので、
車両にいた人のうち
ざっと半分ほどが降車する。
そそくさと開いた目の前の席に腰をかける。
すると、今度はまた人が
ほのかに詰まってゆく。
澪「…。」
また電車に揺られながら
スマホを取り出しては
視線を落とすのだった。
制服を着た人のいない通学路を進み終え、
憂げを吸ったような重たげな雲の下、
冷えた靴箱に手をかけた。
教室内には既に何人もの生徒がおり、
その中でも勉強している
人達の姿が印象に残る。
たった2時間遅く来ただけで、
この教室では何時間、何日も
進んでしまったように見える。
無音になることを恐れるように
何人かの生徒は
昨日あったことから始まる
最近の話をしていた。
1番窓際の席に座る。
この前の席替えでは運のいいことに
窓側の席かつ後ろから3番目という
なかなかいい位置に着くことができたと思う。
後ろの席の人はクラスの中でも
人気者の方にあたるが故、
いつだって賑わっている。
今日も変わらず、
受験のことなんてそっちのけで
和気藹々と話をしているように見えた。
鈴香と話すタイミングがなく、
昼休みまで授業を受けるふりをして
適当に時間を潰す。
ぼうっと外を眺めていると、
不意にうちの机に手をついた人がいた。
視界の隅で紺色のセーラー服が見える。
鈴香「やほ、おはよ。」
澪「おはよう。」
鈴香「今日来ないのかと思ったよ。よかったー。」
澪「一応遅刻で連絡したんやけどな。」
鈴香「そうなの?いつから来てた?」
澪「3限から。」
鈴香「え、嘘!?全然気づかなかった…。」
鈴香は嬉しそうににこにことして、
だが反面悔しそうにしていた。
「話したかったのに」と呟く声が聞こえ、
ありがたいと思うが
本当にそう思っているのか疑問に思う。
鈴香の口ぶり的に、
もしかしたら時間があれば
何かを話したかったのかも
しれないなんて不意に感じる。
「また今度一緒に勉強しよう」なんて
彼女らしくないことを言っていたから。
が、うちは生憎その言葉を
呑むことができなかった。
劣等感を感じる理由にしてしまいそうで、
自分の醜い部分を見たくなくて。
歯切れ悪く断ると、
気まずそうに、はたまた申し訳なさそうに
「わかった」と言っていた。
時間は無情にも去ると有名なもので、
今回も鈴香との話は早々に途切れ、
次の授業の準備のために
うちの席を離れていった。
長々とした1日は
2時間が削れたところで変わりがなく、
やっとのことで
帰りのホームルームの時間になった。
先生は力を込めて
「体調にはくれぐれも気をつけて」と
みんなに伝う。
小学生ではないのだし
返事はもちろんのことないが、
皆がある程度真剣に
聞いているのだろうことはわかる。
うちだってその1人…。
…否、うちはフリだ。
鈴香にはまた明日と声をかけて
人より早く教室を去る。
室内より外の方が涼しい季節が来るだなんて
数ヶ月前まで嘘だと思っていた。
けれど、しっかりと時間は巡ってくるらしい。
受験だってそう。
なんとなく適当な大学を決めて、
適当に通って卒業して、
適当なところに就職でも
するのだろうなんて思っていた。
が、実際そんなものじゃない。
まだ20歳にもなっていないのに、
人生のうち5分の1も過ごしていないのに
人生の大部分を決める選択が多すぎる。
どうして皆平然と、
または平然に見えるようにして
未来を選んでいるのだろう。
どうしてうちは。
澪「…前に進めんっちゃろ。」
勝手に変わっていかないなら
変わりたくないのかも。
こういう考えこそ
若くて青臭くて仕方ないのかもしれない。
歳を取れば変わるのかも。
…なんて。
昼間に雨が降ったせいで
湿気の多い通学路を歩く。
煉瓦の上に置かれた花壇や
壁止めされたホースを横目に
見慣れた家にたどり着く。
鍵もドアノブも冷たくったって
何とも思わないようになっていた。
じんわりとした変化には
うちだって気づけないよう。
澪「ただいま。」
姉は大学に行っているのだろう、
姿が見えなかった。
お弁当を流しに出して、
自分の部屋に鞄を放る。
鈍い音を立てて床を転がるけれど、
そんなものは無視して
うちもベッドに寝転がる。
澪「……はぁ…。」
息ばっかり詰まって、
こうして寝転がることすら
罪悪感を覚える始末。
どうすれば根本から
変えることができるのだろう。
どうすればいいのだろう。
やっぱり少しずつ
慣れていくしかないのだろうか。
さっき思ったように、
わからないくらい徐々に変化すれば、
変化することも怖くないのだろうか。
澪「…。」
大きな変化は怖い。
それはわかる。
けれど、徐々なる変化も
怖いのだろうか。
昔はどうだったっけ。
変化の多い環境の中で、
うちはどうやって対処していたっけ。
うちの小さい頃は、
親の会社の人の付き合いに
よくついていっていた。
付き合いとはいえ飲みではなく、
会社内のイベント毎に
連れていってもらっていたと
言った方が正しいか。
バーベキューや球技大会、
ウォーキング大会、どこだか忘れたが、
スカイツリーのような高層の場所まで
階段で登るなど、
健康に重きを置いたイベントが
盛りだくさんだったと思う。
家族で参加しても良く、
むしろそれを推奨していたのか、
見知らぬ子供も多くいた。
性別も年齢も関係なく、
ある子は賑やかに友達を作って、
ある子は親の影に隠れながら過ごした。
姉は今とは違い
随分と控えめだった記憶がある。
今でこそ人前に立つようなことを
日々しているのだけど、
昔は面影もないほどに違った。
思えば彼女も大きく変化している。
うちは。
澪「…どんな子やったっけ。」
今人と関わることは
そう得意でない分、
逆に幼少期は人と話すのが好きで
色々な人と友達になっていたような気がする。
それこそ、1人でいるような子に
声をかけては一緒に遊んでいた。
…そんな気がする。
気づけば、固定のグループには
所属していないけれど、
いろいろなグループに顔を出しては
「澪ちゃんってどこにでもいるよね」と
言われてはいなかったか。
澪「…はは、どこにでもおるって何やねん。」
今更思い返してくす、と笑う。
小学生ってよくわからない
話の飛躍の仕方をすること、
当時は全くもってわからなかった。
とりあえず大人同士の会話が
酷く難しいことだけはわかってた。
会社のイベントなんて特にそう。
専門用語なのかどうかすら
わからない単語が次々に出てくる。
父が敬語を使うだけで、
よく知らない言語で話しているような
阻害された気分になる。
学校と家しか世界がないうちにとって、
世界の半分が未知に埋もれた。
イベントが終われば
けろっとしていつもの父になる。
それまで、うちら子供は子供同士で
いることを選びがちだった。
無論、うちだってそうだった。
°°°°°
「見て見て、綺麗なビー玉あったよ!」
ミオ「あ、ほんとだ、綺麗!」
「ね、もういっこ探そう。」
ミオ「探す!そしたらこれ、宝物ね。」
「うん。宝物にする!」
-----
ミオ「見て、見つけた、もういっこのビー玉!」
「青い、綺麗!」
ミオ「さっき見つけたの白かったね。」
「じゃあ、お互い見つけたやつ交換しよう!」
ミオ「いいよ!やった!」
「いつかビー玉屋さん開こうね。」
ミオ「ビー玉屋さんあるかな、この前ね、家族でガラス屋さん行ったよ。」
「ビー玉そこにあった?」
ミオ「あった!だから、ガラス屋さんね。」
「うん、そうする!」
ミオ「じゃあ次何するー。」
「かくれんぼしよう!」
ミオ「する、する!」
「じゃああたしが鬼ね!」
ミオ「わかった!」
「いーち、にーい…。」
°°°°°
その後、酷く思い詰めたような顔をした
奴村のことが目に入った。
蝉の声がうるさくって仕方がなくて、
けど耳を塞ぐ気にもなれなくて。
それどころか、あの幼い真夏の空間が
心地いいような、寂しいような、
離れちゃいけないような気がしてた。
その後、こう呟いたんだったか。
澪「…ずっとうちら、かくれんぼしっぱなし…。」
机の引き出しから、
見覚えのあるものを取り出す。
手のひらで転がすと、
部屋の光を吸って反射した。
そこにはひとつのビー玉が
可愛げのある形のまま残っていた。
当時は真っ青に見えていたけれど、
いざ部屋の中でよくよく見てみれば
部分的に濁っているようなところもある。
電球のみならず、
外の光に当ててみる。
服に吸いきれなかった光が乱雑に溢れた。
澪「……。」
実家に置いてきてもよかったのに
何故か引っ越しの時に
持ってきてしまっていた。
捨てていたっておかしくなかったのに、
何が記憶に引っ掛かっていたのだろう、
今日の今日まで持っている。
澪「不覚やな。」
そう無意識のうちに呟いて
再度ビー玉を引き出しにしまう。
場所だっていつからか決まっていた。
机の上にある小さな3段の木箱、
そのうちの1番下の引き出し。
からん、と乾いた音がする。
ビー玉を持ち続けてしまったことも、
かくれんぼが一方的に終わっていることも
全て、全て不覚だった。
気づかなければよかったとすら思う。
そういうことばっかり。
澪「…。」
相手は、あの子は…あの人は、
かくれんぼが終わっていることに
気づいているのだろうか。
…それを確認するまでもなく、
確認する気力すらないことは、
再びベッドに身を投げたことを見れば
一目瞭然だった。
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