XⅧ


 景色の先から歩いてくるシドを見てシャロンは背を震わせた。

 元より凶悪なシドだが、醸す空気は殺し屋然としていて、五十口径の弾丸をレイラに向けて撃った事実に冷や汗を垂らす。


「シド……!」

「待ってろシャロン。直ぐに解放してやる」


 そういうシドは再度引き金を絞る。向かう先はレイラで、純銀製の特殊弾頭を持つマグナム弾は彼女の額へと目掛けて駆け抜ける。

 が、それをレイラは身を翻して回避した。更には地を蹴ると短刀二振りを構えつつシドへと迫っていく。


「シド……シド、シド、シド、シドぉおおお!」


 先までの様子から激変したのはレイラで、その表情は憎しみに塗れている。

 その憎悪こそはシドの登場と共に開花し、二者はいよいよ肉薄すると互いの得物を真っ向から打ち合った。

 レイラの振るった左右の短刀をシドは拳銃の銃身とナックルダスターで受け止める。だが互いは刹那の拮抗を解くと近接戦闘へと雪崩れ込んだ。


「何様のつもりなのよ、殺し屋風情が! 腐れ外道のゴミクズ野郎!」

「口の利き方すら忘れたのか、レイラ。目上の者に対する礼儀も知らんのか」

「あんたが、あんたがそれを口にするな……!」


 互いは幾合と剣を結ぶ。繰り広げられる速度は目に捉え難く、響く音、そして互いの交わす言葉のみが場を支配した。


「俺だからこそにそれを口にすることが出来るんだ、クソガキ」

「本気で殺してやるわよシド……それ以上の台詞は看過できない!」

「そうか? だが事実だぜ。何せ俺が……お前の面倒を見てやったんだからなぁ」


 数度目の鍔迫り合いの最中シドは歪な笑みを浮かべるとよく通る声でそういった。

 その一言が決定打だった。

 数瞬、レイラは言葉を失う。瞳は見開かれた。だがそれも刹那で様変わりをする。

 瞳は鋭くなり、口元からは歯牙が覗けた。緩く靡く黒髪は怒髪冠を衝く勢いで、肩で震えた彼女は身体を捻じるとシドの鳩尾目掛けて回転蹴りを見舞う。


「殺してやる……殺してやるわよ、シド。よくも、よくもそんな台詞を!」


 先の台詞を聞いていたのはレイラのみならず、シャロンやヘカテーも確かに耳にしており、二者は驚愕の表情だった。


「シ、シドが、面倒を見てた? 〈聖人〉を?」

「つまりは師弟のような間柄なのか……? それにしても疑問しかないが……」


 未だ地に縫い付けられる二人だが、シドの登場により多少なりとも余裕が生まれた。だが謎が増えた事実に二人は困惑し、シドとレイラの関係性に首を傾げるばかりだった。


「何をそうも憤る。感謝される謂れはあっても殺意を向けられる謂れなんざ――」

「私を捨てた癖に! 英国から追い出してヴァチカンに置き去りにした癖に! だのに感謝ですって⁉ あんただけは許さない、何がなんでも殺してやる、糞野郎!」


 レイラ・キャットウォークのその叫びは悲痛と呼べた。

 声色には怒気が半分、殺意が半分といった具合だったが、瞳に浮かぶのは涙のようなものだった。

 それを瞬いて掻き消したレイラだが、シャロンは確かにレイラの浮かべた悲しみを見ていた。


「捨てた、って……」


 聞き捨てならない台詞だとシャロンは思った。

 境遇は違うにせよ、シャロンも身寄りのない立場だった。

 老爺と言う存在がシャロンにとっての救いとなったが、では同じくしてレイラもシドに救いを求めていたのならば、その憎しみも当然だと思った。


「……そうだな。まぁ、そうさ。捨てたも同然だ」

「そうよ。あんたは私を捨てたのよ。七年前に」

「ああ、そうだ。お前をヴァチカンの腐れ教皇野郎に託したんだ」

「未だ十五歳だった私を置き去りにした。あの日から私の時は止まったままよ」

「憎しみに囚われている、と」

「囚われる? いいえ、違うわ。それこそが我が生涯に意味を成す王道となるのよ……!」


 レイラは独特な構えを取る。

 半身を押し出し、右の刃は逆手に備え、左の刃を通常からやや浅く握り、そのまま十文字へと備えた。

 その構えを察したシドは自然と笑みを浮かべてしまう。


「そうかい。だがその王道こそは俺が築いてやったんだぜ。お忘れかねフェアレディ。お前を心底鍛えてやったのは、戦い方のイロハを教えたのは、この俺なんだぜ」


 シドは懐へと巨大な拳銃を仕舞う。代わりに取り出したのは新たなナックルダスターで、それを右の拳に装着すると両の拳を打ち鳴らす。

 肉厚なナックルダスターは涼しい音を響かせ、シドは息を整えると左右の拳を天地へと備えた。それは先程レイラがとった構えと同様で、レイラは憎らし気にシドを睨み付ける。


「だからよ……例えお前が聖の座を得た存在だろうと、ローマカトリックの最終兵器と謳われようと、俺にとっちゃ恐怖ではないし、もっといえば……単なる子供でしかねーのさ」


 シドは言外にこう伝えた。

 お前程度では相手にならないと。

 レイラは震えた。

 それは恐怖によるものではない。怒りによるものだった。


「……幾度こうして対峙したかしら。あなたが出張ると聞けば毎度に駆けつけて横から殴りつけてやったわ。でもね、シド。あなたはやってしまったのよ、許されざることを。あんな幼気な、しかも〈魔の経典〉とまで呼ばれる少女を匿うとなれば、もう、もう――死んでも文句はいえないわよ、糞野郎ぉおお!」


 レイラの持つ特性とは〈聖人〉であるからして、その体躯には神秘が宿る。

 神秘とは神に通じる、或いは近しい力をいう。

 故に彼女の速度が神速だとか韋駄天だとかと呼ばれても何ら不思議はない。


 影を置き去りにするような、それも無拍子での一歩は、他者からすれば途切れた映像にも見えて、状況に目を見張っていたシャロンは驚愕に尽きた。

 何故ならば――


「この、ロリコンがぁああ!」


 シドの眼前にいつのまにかレイラがいたからだ。


「は、速い⁉」

「どころではないぞ、あれは!」


 振り翳した十字の剣閃はシドへと迫った。

 対してシドはたった今、この瞬間にレイラを視認したようで、刹那の変化に反応の一つも取ることが出来ない。

 だがシドの表情に焦りはなかった。寧ろ歪な笑みを浮かべ、次の瞬間には身を切り刻まれるだろうにもかかわらず、余裕のままだった。


「誰がロリコンだ、クソガキ」


 結果から言えば、それは実に余裕で対応されてしまった。

 シドは迫る刃を認識するが、それを把握する以前として両の手が動いていた。


 それは無意識での反射に等しかったが、シドは自身の身体の反応を当然のように受け入れ、更にはそれを頼りにしていた。


 開かれた掌の内で二本の刃を受け止める。

 拳鍔の掌底部位で激しい音が響くがシドの膂力はレイラの瞬発力を綺麗に流した。


「別に俺を憎んで構わねえ。いや……そう思われるくらいに俺は酷な真似をした。幾度もお前と殺し合いをして、その度に俺は思ったもんだよ。こいつの怒りってのは至極当然なことだってよ」


 レイラは即座にシドから距離を取ろうとするが、シドは彼女の両手首を咄嗟に掴んだ。その握力と言えば万力の如しで、減り込む拳鍔にレイラは呻く。


 状況を脱しようとレイラは蹴りを何度も見舞う。

 どの威力も神秘が掛かるものなので当然ながら並みの威力とは呼び難い。

 だがシドはそれらすらも問題とはみなさない。何故ならば彼は特殊な体質を持つ。

 それこそは聖悪の拒絶で、レイラの膂力等が神懸かりだとすれば、それも結局は神性由来のもので、従って彼はその能力を無効化することが出来た。


「それらを受け入れるのが俺の役目で、お前の気が済むまで……それこそ俺を殺すその時まで付き合ってやるのが道理だってよ」

「離せ、離せぇ!」

「けどな、レイラ。悪いが……あいつを狙うのだけはダメなんだ」


 そういったシドはレイラの胸倉を引っ掴むと自身へと引き寄せる。


「なにがダメよ……どうせまた捨てるんでしょう、私と同じように! だったら今殺してあげた方がまだ救いがある!」

「いいや、捨てない。そう翁に頼まれているからだ」

「なによ……なんなのよ! 私は平気で捨てたのに、あの子は特別なの⁉ 許せない、あんたはやっぱり許せない!」


 シャロンもヘカテーも二人の間柄を完全に把握した訳ではない。

 だが、先からシャロンには、どうにもシドが妙に思えた。


(なんだろう……なんていうか、わざと恨まれようとしてるような、辛辣な態度ばっかり……?)


 それは演技にも等しくて、不器用なりにも優しさを持つシドとは思えない程、不器用な演技だとシャロンは思った。

 同じくヘカテーすらも呆れた表情をしており、シャロンと視線が合うと瞳を伏せて、己は知らぬとだけ呟いた。


「まっ、てよ、シド……!」

「シャロン……」


 シャロンにとってその光景はとても居心地が悪く、もっといえば気に食わないような、不愉快なものだった。

 故に彼女はヘカテーの態度も無視して立ち上がると、身を引きずるようにしてシド達へと歩み寄る。


「なんでさっきから、そんな酷いことばっかり……!」

「……少し待ってろ、シャロン。辛いだろ。そこの〈聖十字架〉を吹っ飛ばす」


 レイラの胸倉を引っ掴んだままに無造作に懐から拳銃を引き抜いたシドは引き金を複数回絞る。向かった先はアスファルトに突き刺さっていた〈聖十字架〉で、五十口径の弾が複数着弾すると銀十字は身を傾けて倒れてしまった。

 それにより周辺を支配していた〈術式〉は解除され、柵から解放されたシャロンとヘカテーは身体の軽さを取り戻し、ようやく生きた心地になった。


「おぉ、楽になったぞ。おいそこな小娘、最早貴様に勝ち目などないぞ? 妾一柱でも十分だが、小僧すらも圧倒出来ないのであればお話にもならんなぁ?」

「大層な口を利くババアだ。俺に勝てもしなかった癖に」

「黙れ小僧! 兎角、小娘よ、貴様は既に窮地ぞ! 大人しくその首を寄越すがよい!」


 自由を得たヘカテーは得意気にそういうと再度火炎の刃を展開する――が。


「だから、ちょっと待ってよヘカテー! シドも!」

「ぬぐっ⁉」


〈禍悪の花〉を閉じたシャロンはヘカテーから無理矢理悪性を奪い取った。

 それにより再度人形のサイズに変化してしまったヘカテー。

 シャロンはそんなヘカテーを腕の中に抱えるとシドへと駆け寄り、未だ膠着状態にある二人を見つめて辛い表情をした。


「シド、何でそんな意地悪ばかりいうの?」

「意地悪じゃない。事実としてコイツは敵だ、お前の命を狙ったんだぞ」

「そうだけど、悪役になり切ろうとしてるシドがよく分からないよ! もう勝負もついたし、これ以上軋轢を加速させてどうするの⁉」


 聖魔を相手取るシドは各教会とも敵対関係にある。

 更には〈禍悪の花〉を持つシャロンを保護していることからして余計に立場は危うくなったともいえる。

 現状、敵はローマカトリックが誇る〈聖人〉レイラ・キャットウォーク。

 これを仮に殺すとなれば、いよいよその敵対関係は全面戦争、ではなく全対個へと展開する。


「離して、シド。その人を離すの」

「……お前はよ、シャロン。ファウストの時もそうだがあまりにも優し過ぎる。そいつばかりは――」

「命令だよ! シド!」

「……はーあぁ」


 シドはうんざりとした顔だが、渋々とレイラの胸倉から手を離す。

 解放されたレイラはそのまま後方へと下がろうとするが、しかしシドは銃口を即座に彼女へと定めた。


「シド⁉」

「撃ちゃしねぇよ。レイラが何もしねーんならな」

「だ、ダメ、もういいよ! それに、シドに近しい人なんでしょ⁉」

「だが敵対している」

「そ、そうかもだけど……!」

「ええい、お前も煮え切らん奴だなシャロンよ! さぱっと殺してしまえばよいではないか!」

「そんなのもっとダメだよ、ヘカテー!」


 シャロンは懇願する程だったが、彼女のそういったものは幼さ故であり、とても自身の状況を理解しているとは呼び難い。

 だが、そんな優し過ぎる程にお気楽な少女の命令にシドは気が和らぐ。


「……理解出来るか、レイラ。自身の命を狙ってきた奴であろうとこいつは簡単に受け入れちまう。ファウストもそうだった。もう戦意がないからと、殺し合う必要はないだろうと、それで済ませた」

「…………」

「ところが今は未だ何も解決しちゃいない。だっつーのに……シャロンは見ていられないからとこうして出張ってくる」

「御大変ね」

「ああ、実にな。だがそれ程こいつにとっちゃ納得のいかないことなんだろう。最悪、〈禍悪の花〉を完全展開されたとありゃ、流石の俺やお前でも死ぬ思いをするかもしれんぞ」

「従う他にない、と」

「さてな。俺は犬だ。主の命令に従うのが常だ。例え納得し難いことだろうがな」


 二人は睨み合う。

 未だ互いは殺意を抱くが、それでも先よりは大分静かな具合だった。


「シド、さっきあの人が……レイラさんがいった、捨てたっていうのは、どういう意味なの?」

「……あいつは昔俺が引き取ったガキだ。だが七年前に捨てたのさ」

「はっ……徹底して糞野郎よね、あなたって」

「そいつはどうも。イギリス人の嗜みってやつさ、性と呼んでもいい」


 適当にいうシドだがレイラの心を傷つけるには十分だった。

 レイラは二振りの短刀を振り上げそうになるが、それでもシャロンがシドへと接近する方が早かった。


「シドのバカ!」

「おっと」


 シャロンはシドの腹を殴った。

 その腕力は大した程度ではないし、シド程の偉丈夫には何一つとして通じない。

 だが、何度も何度も拳を叩きつけるシャロンは激怒の表情だった。


「なんでそんなこというの⁉ それを向けられる人の気持ちをなんで考えないの⁉」

「事実をいったまでだ」

「嘘つき! だったら言葉を交わすことすら嫌でしょう! 人を嫌うっていうのはそういうことだもん! シドの性格から考えても、心底嫌いな人とはお喋りしないでしょう!」

「そいつは勘違いだ。俺は嫌いな奴だろうと言葉を交わす。敵対する間柄となりゃ互い憎しみもあるし、厭味の一つだっていいたくなるだろう」

「んなっ……このぉ、なんでそんなに素直じゃないの⁉」


 シャロンは怒っていた。

 それが理解出来ないシドだが、それでもシャロンは必死だった。


「そういうの、よくないよ! まだ二人がどのくらいの関係だったのか分からないけど、身内にも等しい人にあんなこというなんて有り得ない!」

「いっただろう、シャロン。俺はあいつを捨てたし、あいつは俺を憎んでるし、今は敵だ。だからそんな――」

「それでも育ててくれたのはシドじゃない!」


 叫んだシャロンは泣いていた。

 涙を零しなんとか嗚咽を堪えるが、しかし昂る感情を抑えることはできなかった。


「経緯は分からないけど、レイラさんが憎むのも当然だよ! そんな酷いこといわないでよ! 私だって同じだったもん、お爺ちゃんに育ててもらったんだもん! 親同然の人にそんな酷い事いわれたら、辛いよ……!」

「シャロン……」

「シド、孤独は怖いことなんだよ! 優しさだとか、温もりだとか、それを与えられるって凄く幸せで、それを覆されたら生きるのも嫌になる! お爺ちゃんが死んで一人ぼっちになった時、私は絶望しか抱けなかった! レイラさんだってきっとそうだよ、捨てられただなんて思ったら、そんなの……そんなの……!」


 ついにシャロンは嗚咽を漏らしシドに縋りついた。

 自身の境遇も併せ、レイラの抱く憎しみや、あるいは過去に抱いたであろう幸福を思えば、シドの所業は許せなかった。


 シャロンはまったく納得できなかった。

 少なかれシドという人間の性格を知る彼女は、とても人を見離すようには思えなかったし、先までの態度もやはり演技のように見えて、それは自身から嫌われようとしている風に思えた。


「……いいんだよ、憎んでくれりゃ。それの方がいいじゃねえか」

「そうよ。どうせそいつに理由なんてある訳――」

「あるだろうな。というか明らかだろうて」


 あっけらかんというのはヘカテーだった。

 その言葉に顔を顰めたのはレイラだったが、ヘカテーは構わずに言葉を続ける。


「そも、〈聖人〉というのは通常、死して初めて認められるものよ。例外はいくつかあるがそれも稀有。そんな稀有な例が小娘、お前だ」

「だから、何よ」

「鈍いな、まったく……いいか、そんな稀有な存在がだ、恐ろしくも憎たらしい魔殺し屋だとかという奴の懐におるわけだ。そうなれば教会側としては当然面白くはない。もっといえば……小僧自身が複雑だろうて」


 レイラは顔を伏せ、シドは他所を向いた。

 そんなことは分かりきっている――二人はまるで同じ気持ちを持つかのようだった。


「どうせ小僧のことだし、己の傍にいるよりも教会の下にいた方がいいと判断したんだろうなぁ。更に小娘の様子からして……ふふふ、小僧に対する愛情は深く強い様子だったみたいだな?」

「はっ、何をいうかと思えば……耄碌したんじゃないかしら、陛下?」

「ふん……愛憎は紙一重とはよくいったものよ。転じて愛とは同程度の憎しみとなるが、殺意を抱き自身の手で殺めたくなるくらいにお前は小僧に拘っている。並ではないな? 小僧の完全な〈死〉を望むのであれば大軍でも率いてくればいいではないか。小僧とて完全で無敵で最強な訳ではない。不死不滅ではないのだぞ、小娘」


 元より今回のレイラは独断専行。教会、ひいては教皇の意見を聞くこともなく勝手に突っ走った。

 理由は〈禍悪の花〉という凶悪な戦力を手にしたからというが、ヘカテーの言う通り、それならば尚のこと〈十字軍〉での遠征でも仕出かした方が合理的だった。


「だがまぁ? こういった修羅場も? 全てはそこの小僧が原因だろうし? 何もかも貴様が悪いな、小僧よ」

「はっ、知らねぇな」

「大方図星で焦っておるな、こいつ」

「うるせえよ」


 シドは頭を掻くと懐へと拳銃を仕舞い込んだ。その動作を見たレイラは刃を再度構えようとしたが、しかし不思議と腕が上がらない。

 先から彼女の胸中には妙な靄があった。シドの手元から離れてから常に彼を殺すことばかりを考えていた彼女だが、シドの性格をよく知る彼女であるから、ヘカテーのいうことを、心のどこかでは信じていた。


「……何でいつも答えてくれないのよ、シド」

「…………」

「私を捨てた理由。私をヴァチカンに預けた理由を。何でなの?」

「だから、一々理由なんてのは持ち合わせちゃあいねえ――」

「シド! いい加減にして!」


 今度は鳩尾に拳を叩きつけたシャロン。

 軽く息の漏れたシドだが、寄せられるシャロン、そしてヘカテーの視線に少々口をまごつかせる。


「自分の尻くらい自分で拭けよ小僧。貴様があの小娘を呼んだも同義ではないか。つまり今回の危機はシャロンのみならず貴様も関与しているという訳だ」

「そいつはいい過ぎだろう」

「いいや事実だ。というかな……女を泣かせるだとか傷つけるだなどというのは外道の所業よ。それこそ地獄行きぞ」

「……糞垂れのババアめが」


 言葉をそこで終えたシドは瞳を伏せると空を仰いだ。

 未だ結界の最中とは言え景色の色合いは通常で、丁度昼の空には天に座す太陽がある。眩さを瞼越しに感じ、シドは何となく、その眩しさに似た何かを思い出した。


「……赤い瞳」

「え……」

「お前の瞳を初めて見た時、眩いと思ったっけかな」


 シドは静かに言葉を続ける。


「未だお前が幼い時分……五歳の頃か。何処とも知れぬ地で見つけて、拾って。最初はな、その身に宿す神性からして異常な存在だと思ってな。翁にも相談したし、それを誰かに渡すというのも恐ろしいから、俺が保護……するような形になった」

「…………」

「いつしか俺と同じく退魔の真似事をしたいとかいい出して、戦い方を教えてくれだとか……そんなことをいってきやがる。気付けば俺の隣じゃお前が得意気に魔を粉砕する姿があって、お前が十五になるとその存在は広く知られるようになった」

「広く……」

「……逃す訳がない。お前のような特別な存在を逃す訳がないだろう、各教会が。日夜聖に連なる馬鹿共がやってきて、しまいにゃ翁にまで迷惑が及んだりしたこともあった」

「え……?」


 聞いたこともない事実にレイラは驚きの声を漏らす。

 魔殺し屋と呼ばれるシド・フラワーショップだが、彼は聖魔双方の討伐で知られている。通常ならばどちらかに傾倒するが、彼は聖魔のどちらにも与することはなかった。

 魔の徒からは因縁を吹っかけられることがしばしばだったが、それとはまた別に、日夜襲い掛かってくる聖の徒を粉砕してきた。強襲の理由で最も多かったものが――〈聖人〉レイラ・キャットウォークの独占だった。


「そんな中でもお前を誰にも渡すまいと思ってた。何せ、ほれ……お前はお転婆だろう、レイラ」

「っ……」

「けどな、本当の居場所ってのがあるんだ。お前には帰るべき場所がある。お前にはレイラ・キャットウォークという名前をやったが、本当はな、お前は――」

「やめて、聞きたくない……!」


 シドの台詞を遮ったのはレイラの叫びだった。


「分かってるわよ……肌の色も瞳の色も英国人のそれとは違うし、この体に宿る神性からして英雄に連なる系譜だってことくらい自覚してる! 教会に仕えることこそが己の使命だって! それを受け入れたし、だからこそ私はサン・ピエトロに、ヴァチカンに戻った!」

「なら十分だろう。お前は俺の下にいるべきじゃなかったんだ。お前を保護した俺は真っ先に教会に知らせて、その存在を明らかにするべきだったんだ」

「違う、そうじゃない! 私はそんなの望んでなかった! ただ、ただ一緒に……一緒にいられたら、よかったのに……!」


 レイラの瞳から雫が零れ、それが静かに地へと落ちていく。

 その姿にシドは何もいえず、彼にしがみ付いていたシャロンは目元を拭うとシドから離れた。


「なのに無理矢理捨てていった、ヴァチカンに置き去りにされた……その時の私の気持ちなんて分からない癖に、私のこと、何も、なにも……!」

「なら……恨むべきだ。そうやって俺のことを殺したいと思う方が断然いい。そうして教会と共にあるべきなんだ、お前は」

「なんでそう、何もわからないの⁉ そういう風に、なんで勝手に正しい事だと決めつけて、私の気持ちもすべて無視するの⁉」

「…………」

「何処を探してもあの市国にはいなくて……名前を呼んでも答えてくれないあの悲しみをシドは知らない……! あの時の私の気持ちを、何一つ……!」


 シドのそれは、恐らくはレイラの将来を案じたが為であり、これまでの関係性を一方的に完結させ、新たな道へとレイラを送り出したようなものだった。

 だがレイラにとってそれは絶望であり、いつしか怨嗟へと成長し、打倒シドという目標までをも抱かせた。


「なってやったわよ……シドのお望み通り、教会が誇る最強の〈聖人〉に。私が誰に鍛えられたと思ってるのよ、最強無敵の野良犬に、きた、きたえ、られてっ……」

「レイラ……」

「ただ……ただ、答えて欲しかっただけなのに……あの夕暮れにシドの返事がいつまでも聞こえないのよ、シド。私はずっと一人なのよ……シドっ……!」


 レイラはそう絞り出すと、泣き崩れてしまった。

 彼女の記憶にあるのはヴァチカン、サン・ピエトロ広場での絶望のみ。

 夏のその日、彼女はシドに連れられてヴァチカンへと渡る。


『少し待っててくれ、レイラ。直に……戻る』

『うん、分かった!』


 レイラがシドと交わした最後の言葉だった。

 シドはきた道を戻るが彼女は彼を疑いもせず、素直に帰りを待ち続けた。

 

 だが、いつまで待ち続けても彼が姿を見せることはなかった。


 赤黒く染まる空の下、シドの行方を求め、名前を呼び続けた。

 だが返事はなく、彼女はその日、彼に捨てられたと悟り、ローマカトリックの手により保護される運びとなった。


「殺意こそが小娘の為になると、憎しみこそが生きる糧になると、そう思うたか」

「…………」

「お前はそうも身を削って生きるがな、誰もが皆、強くはないのだ。お前はあの小娘を救ったつもりでも、今も傷付け嬲っているようなものだぞ、小僧」


 ヘカテーはそういうとシドを睨む。


「なればこそ貴様が終わらせねばならんぞ。お前は魔殺し屋なのだろう。ならば殺してこい。あれぞ悪であり魔よ。〈聖人〉を苦しめる魔を殺してこい」


 泣き崩れる〈聖人〉というのはある種では神懸った様子だった。

 だが彼女を包む白い靄こそが彼女自身を苦しめているとも呼べた。


「その身に生まれたから、その血に生まれたから……あの人も私と同じなのかな、ヘカテー」

「ああ、そうともいえる。だがお前も、そしてあの小娘も、傷つき崩れるのみではないのだ」


〈聖人〉としての立場がなければ、とレイラは幾度も思った。

 そうであれば、きっと自身が各教会に必要とされることはなかっただろうし、シドに捨てられる――ヴァチカンに預けられることもなかっただろう、と。


「だがな、そうであるからこそに俺はお前を見つけられたともいえる」


 シドは確かな足取りでレイラへと歩み寄ると、同じ目線にまで身を屈めた。

 レイラは涙に塗れた顔でシドを見つめ、その口元を震わせていた。


「憎まれても構わないと思っていた。そうすることでお前が生きる目的を持ち、本来あるべき場所に戻り、神の庇護下で健やかに過ごせるなら……それが親代わりとしての……果たすべきことだと」

「シド……」

「だが……それは、独善的にも程があったんだろうかな」


 シドの大きく、無骨な手が伸びて、レイラの頭へと置かれた。

 更には深く頭を下げ、済まない、と言葉にする。


「レイラ、自分の出自を知ったんだろう。ならばどうあってでもローマに戻らなければならないことは分かっているだろう」

「…………」

「お前は……ペトロの子孫。ライラー・ペトロ……それがお前の真名であり、いずれは教皇の席を頂く存在だ。それはもう、自覚しているだろう、レイラ」

「そんな名前、いらないわよ。私はレイラ・キャットウォーク……シドがくれた名前が本当の名前でいい。それが唯一でいいのに」

「だが多くの者達はそう見ない。その赤い瞳も褐色の肌も、全ては使徒のそれを受け継ぐ証だ」


 聖ペトロこそはサン・ピエトロであり、つまり彼女は先祖の墓のあるヴァチカンに帰ってくるのが当然のことだった。

 その血縁を示すものは身に宿す神性であり、これを以ってレイラはカトリックから最重要の位置付けとして扱われることになった。


「けれども……そんな理由を持ち寄ったところで、結局、俺はお前の気持ちも意思も、全て殺してしまったようなものだよなぁ……許してくれとはいえねぇし、お前を理解してやることが出来なかった俺は、単純に見て悪だろう。世の人々や、聖に連なる者達はお前という存在があって初めて奇跡を見るかもしれない。けれども、最も重要なのは……お前の気持ちそのものなのに」


 シドはそういうと彼女の頭を撫で、ついで頬を撫でてやった。


「レイラ……遅れて済まない」

「……遅すぎるのよ、バカっ……」


 約七年越しの返事は彼女の生まれ育ったロンドン市。

 シドは咽び泣くレイラを抱き寄せると、自身の罪を噛みしめ、ただ黙して彼女の熱を確かめた。

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