XⅢ
十二月のイタリアはヴァチカン市国。
カトリックの総本山で知られるこの区域には絶えず人が集まり、その日の午後も市は賑わっていた。
「……困った事態だ」
観光客、他に巡礼の徒で溢れかえるサン・ピエトロ広場を見下ろすのは老齢の男だった。彼は眉根を寄せたまま溜息を吐くと窓辺に立って空を仰ぐ。
「よもや〈禍悪の花〉があの男の手元に渡ってしまうとは……」
ヴァチカン宮殿――いわずと知れたローマ教皇の住まいであり、この老爺こそが当代教皇だった。傍には従者が控え、彼等は頭を下げると気遣うように迫った。
「ああ、いい。風にあたりたかっただけだ。少し部屋で休む……」
ここのところ、彼は悩めることばかりだった。
先日、英国でクロウリー家の遺産とも呼ぶべき〈禍悪の花〉が一人の男の手に渡った。この報せを受けて喰いつくのは世界に存在する多くの教会で、その代表である教皇は彼の魔殺し屋、シド・フラワーショップに対する追及の時を待っていた。
世に聖悪と属性が存在するうちで〈魔の経典〉とまで謳われる悪しき〈礼装〉。これを破壊せねば何がローマカトリックかと教皇は確固たる決意を抱いた。
「クロウリーの血、それは災禍を齎す悪しきもの。それを見過ごせる訳があるまい。彼の野良犬の手元にあろうが、こればかりは我等ローマカトリックの意地にかけてでも……」
自室に戻った彼は椅子に腰を掛けるとそう呟く。
が、その表情は未だ晴れず、言葉とは裏腹に不安を抱かせるような感じだった。
「……正教の者等と結託をするか? いや、それでは我々の立場が揺らぐ。そもそも何を恐れる、相手は単なる人間ではないか。そうだ、あれは普通の、ただちょっとばかし頑丈で腕っぷしが強いだけの……」
果たしてその程度で済むのか――彼は額に汗を滲ませた。
「お困りですか、猊下」
「ぬ……⁉」
そんな苦悩に苛む彼の耳に軽やかなソプラノが届いた。
驚きのままに顔を跳ね上げた教皇は声のした方向――出入り口を見やる。
「お話は聞いておりますわ。なんでもあの狂犬が新たに武力を手にしたとか……」
戸の傍に立っていたのは一人の女性で、美しい姿だった。
緩く巻かれた黒い髪、大きな瞳に長い睫毛。
胸は豊満で括れは細く、尻の肉付きといえば世の男の十割が垂涎する程だった。
しかしそんな情報よりも尚の事目を引くのが彼女の着込む修道服だ。
ローブは超ミニで艶めかしい脚は露出され、小麦色をした肌に教皇は喉を鳴らす。
「な、何故ここに……!」
だが彼は彼女の登場に顔を青くし、立ち上がると一歩後ろへと下がる
まるで恐ろしい者を見たような反応だが、彼にとって彼女は恐怖の象徴だった。
「何故……何故とは何がでしょうか、猊下。私には問われる理由が分かりませんわ」
「お、怒っているのか……?」
「ふふ……いいえ、怒ってなどおりません。例えばあのシド・フラワーショップの下に〈禍悪の花〉が渡っただとか、あのドイツが誇るファウストの末裔までもが行動を示しただとか、そういった重要な情報を教えられていなかったことに関して……私は怒っていませんわ。ええ、教えられなかった事実には、別に、なんとも」
褐色の肌をする美女は静かな足取りで教皇へと迫る。
彼女の背には巨大な物体があった。背負う形で、それは拘束具により固定された、凡そ七フィート規模の物体だった。
拘束具とはまた別に白い布地で全面を覆われている為内容は把握できない。だが女性が持つには不相応な質量で、重量も推して知るところがある。
しかしそんな情報を当人である美女は一顧だにせず、教皇へと接近し、いよいよ互いの吐息がかかる距離にまで迫った。
「す、すまない、すまなかった……何せお前といえば、その……恐ろしいだろう!」
「恐ろしい、ですか」
「あぁ、そうだ! お前は確かによく尽してくれている! 我がローマカトリックの誇りとも呼べる!」
「それは嬉しいお言葉ですわ、猊下」
「だが、だがお前といえば……彼奴の話題となると誠に恐ろしいのだ……!」
教皇は全身から汗を滴らせた。
何せ目の前にしている美女といえば月花も恥じらうような美女だったが、しかし瞳に宿す殺意が異常的にも程があったからだ。
眼光からは狂気が滲み、口元は歪んだように笑んでいた。
震えるばかりの教皇だが、そんな彼の下顎を指でなぞったのは美女で、指を滑らせつつ甘い吐息を吹いた美女は、そのまま唇を教皇の耳へと寄せる。
「恐ろしきは彼の獣ですわ、猊下。これまで幾度も我等がカトリックは彼の暴虐に散々邪魔をされてきましたのよ」
「わ、分かっている、いるが……そう容易くはいかないだろう……! 英国との体裁だってある……!」
「何を仰いますか、現実として英国独自のプロテスタントも含め、各教会はあの御国を認めてなどおりませんわ」
「そうではない、政治面の話だ! 何もかも宗教によって世が巡るだなんて――」
「御労しいですわ、猊下」
彼の言葉を遮った美女は瞳を細める。
「かつては世界すらも纏め上げ、事実として世を独占せしめた我等カトリックが、あのような異教の者に後れを取るなど言語道断。まるでお笑いにもなりません……」
「それは過去の話だ、現代で罷り通ることではない!」
「罷りならぬとあらば……推して参るのが我が道でありますれば」
美女はそういうとようやく教皇から身を離す。
教皇と言えば気力を失うと椅子に腰を落とし、大きく深呼吸を繰り返した。
「お任せあれ、猊下。今回はこの私の独断専行によるものですので」
「ま、待て、待つのだ! お前はやはり、あの男に固執しているのだろう! 何故そうもあれにばかり気が向かう! お前はカトリックの身であろう!」
ピンヒールを鳴らし打ち、美女は教皇の下から去り行く。
そんな彼女の背に向けて教皇は叫んだ。
このまま行かせてはならないと理解はしているが、しかし彼は腰が抜けて立ち上がることすらできない。
「ええ、それは勿論。私は生まれた時から死ぬその時まで、全てを御神に捧げカトリックの下に散る命でありますわ」
彼女は笑み、静かに振り返る。
「故に……私は向かいますのよ、猊下。憎き異端の者を粛清しに。あの忌まわしき野良犬に躾をしてやらねば」
その背を見て法王は一人震える。
まるで天魔――そう思う程に彼女の放つ殺意は異常だった。
「待て、待つのだ、レイラ・キャットウォーク! お前はまた英国であれと、お前を育てたシド・フラワーショップと殺し合いをするつもりなのか!」
美女、レイラ・キャットウォークと呼ばれた彼女は言葉を返しもせず、高い足音を響かせて道を行く。
「ふふ、ふふふ……節操なしね、シド。今度という今度は殺してやるわよ、絶対に」
狂気のような笑いを響かせ彼女は向かう。
背に巨大な何かを負い、溢れるような殺意を解放するべく。
魔殺し屋の住まう英国、ロンドン市へと。
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