Ⅺ
ヘカテーの顔は燻っていた。
揺れる火炎は彼女の表皮を覆い、形容し難い音を立てて再生を繰り返す。
「ヘカテー……!」
「ふっふ……実に驚きな人類ではないか、小僧。妾を一方的に痛めつけた人類は貴様が初めてだ」
焦燥のままに叫ぶのはシドだった。
拳を地面から引き抜くと立ち上がり、シャロンの隣に立つヘカテーへと向き直る。
だがヘカテーは涼しい顔で、彼女は手を伸ばすとシャロンの頬へと触れた。
「ひっ……!」
「そうも恐がるな〈禍悪の花〉よ……妾とて可憐な乙女に怯えられると悲しくなる」
シャロンは息を呑む。
自身に触れるのは間違いなく天魔。
頬を撫でる感触は人のそれと変わりはないが、自然と彼女の項は粟立った。
「美しい……〈禍悪の花〉よ、こうも可憐だとは思わなんだ。美とは罪であると知っているか?」
「う、うぅ……!」
「ふふ、しかしお前こそは罪の象徴とも呼べる……世に蔓延る悪徳、そして悪意をも飲み干す坩堝よ」
「何をいって……」
身動きの一つも取れないシャロン。
ヘカテーが口にする言葉にさっぱり理解は及ばないが、状況が危機であることだけは理解ができた。
(つ、罪の象徴? 悪徳、悪意? 訳が分からないよぉ……! ていうか、普通の人間が〈悪魔〉に触れたら即死するんじゃなかったの⁉)
老爺が亡くなってから僅か一日。
たったそれだけの時間で彼女は怒涛の連続を経験し、理不尽の様々に晒されてきた。だが今回ばかりは絶体絶命に等しく、シャロンは胸中で亡き老爺に縋った。
(お爺ちゃん、怖いよ……! 助けて……!)
亡き老爺の優しい笑顔を思い出す。
いついかなる時も彼女に対して老爺は優しかった。
その所作や態度に触れる度に安心感に包まれた。
だが老爺は死んでいる。
現実から逃れようと夢幻に思いを馳せるシャロンだが、肌を伝うヘカテーの質感ばかりは消え失せる事がなかった。
「ヘカテー! そいつに触るんじゃねぇ!」
「断る。人間よ……確かに貴様は強者だ。或いは何の柵もなく、それこそ護る者もいないような状況だったらば……結果は違ったかもしれぬなぁ」
ヘカテーは自身の唇をシャロンの額へと寄せた。
「しかし虚しきかな。貴様は妾を屠ることもできなければ他者を護ることもできぬ。この〈地獄門〉の景色において妾に不覚不足はない。故に残念だったな。〈禍悪の花〉は我が手の内よ」
「勝負を放り捨ててまですることか、それでよくもまぁ絶対者と名乗れたもんだぜ……!」
「優先すべきことがあろう? それに魔である者に潔さだとかは皆無。それこそ欲に忠実に行動するのが常よ……なぁ、〈禍悪の花〉?」
言葉を向けつつ、今、ついにヘカテーの唇がシャロンの額に接触を果たす。
「あ、うっ……⁉」
「シャロン!」
シャロンは不快感に包まれ、次いで身体から力が抜けてくる。
地に座り込みそうになるところだったが、そんなシャロンを抱き寄せたのはヘカテーだった。
体内では熱という熱が奪われるかのようで、次第に意識までもが朦朧としてくる。
視界に星が浮かび、明滅を繰り返す色彩に彼女は夢を見ているような気分だった。
そんな光景を見たシドは駆けだすが――
「手前等、こんな時に邪魔立てすんじゃねぇぞ糞が!」
景色に姿を見せるのは火炎に包まれたゴースト、他には死神の群れだった。
シドは額に青筋を浮かべると叫び散らし、拳銃を操作しナックルダスターで景色を薙ぎ払った。
「ファウスト! ヘタれてんじゃねぇぞ手前! ちったぁ手を貸せ糞ボケ!」
「も、元は敵だぞ私はぁ! そんな私をも利用しようというのか!」
「互い危機なのは変わりないだろうが! 手前の御自慢のゴーストを指揮しろ!」
「そうはいっても全てヘカテーの支配下にある! これを操作するなど私には……!」
「だったら自分の駒を召喚しろ! 他の手段を探せボケ野郎が!」
今まで地べたをはいずり回り逃げに徹していたファウストだが、こうなると最早生きる為に全身全霊だった。得意の死霊魔術を駆使して襲い掛かってくる亡者達を相手取る。
だがシドやファウストがいくら屠ったところで敵は無限のように湧いてくる。
シドは汗を額から流すと先の景色で瀕死状態に陥っているシャロンの名を叫んだ。
「シャロン! 糞、ああ、糞め!」
シドは我武者羅だった。
その身を凶刃により斬られようと、群れで迫られようと、構わずに前進をする。
それでもシャロンまでの距離は遠い。
迫りくる危機を全て排除した所でシャロンの救出が間に合うか、となるとそれは難しい問題だった。
「シャロォオオオン!」
響く声を聞いてシャロンは僅かに手を動かす。
胸に強く抱きしめるのは古めかしい本で、それは老爺から譲り受けた遺物だった。
ぼやける意識の彼女に景色の色合いは映らない。
ただ、彼女の名を叫ぶシドの存在が、妙に近しく感じられた。
(シド……)
シャロンはシドを思う。
出会って間もない間柄だが、少なからず彼女はシドの人柄を理解していた。
野蛮で暴力主義。だが不器用なりにも優しさを持つ男――それが彼女の総評だった。そんなシドが自身の名を呼んでいる。それは心配の声であり、響く声は慟哭のようにも思えた。
(心配するのは何でだろう。お爺ちゃんとの約束があるから? それとも単純に私の身を案じてるの?)
疑問は浮かぶが、どちらであっても帰結する答えは優しさだと彼女は結論する。
そんな彼女は残る力を振り絞り、自身の胸元へと手を寄せた。
(お爺ちゃん。なんでか知らないけど、私、狙われてるの。今なんてヘカテーっていう女王様に変なことされてる。力がどんどん抜けてくんだ。これってピンチだよね)
シャロンの腕の中には古い本がある。
それは緋色をした、薄汚れた風体だ。
何よりも目をひくのは錆に塗れた錠。
何故そのようなものが施されているのかシャロンには分からなかった。
ただ、シャロンは老爺の言葉を思い出す。
『お前はきっと、これから……予想だにしない危機に晒されるかもしれない。もしそうなった時、その本を開きなさい』
(きっと……お爺ちゃんは分かってたんだね。こうなるかもしれないって。私が〈悪魔〉だとか悪霊だとかに狙われるかもしれないって)
シドという男を後見人として用意したこと、数多の遺産を用意していたこと。
それ等は全てシャロンの為だ。
それ等は直接的な力になる訳ではない。
結局は何かに依存する形で発揮するもので、決定的な力とは呼び難い。
(シド、ごめんね。開けちゃダメっていってたよね。でも……何もしないで終わるくらいなら、怒られてでも、こうするよ)
だがしかし、老爺は確かに彼女の為に絶対的な力を遺していた。
シャロンは掴んだ。
それは胸に下げている古めかしい鍵だった。
老爺から託された本の錠を解く、たった一つの正解だった。
シャロンはぼやけた視界のまま鍵を操作する。
向かう先にそれを宛がうと、当然のように捻った。
それに抵抗はなく、それは彼女のか弱い力を受け入れた。
「シャロン! ダメだ、そいつを開くんじゃない!」
「む……〈禍悪の花〉! お前、何をして……!」
――凛と音が鳴る。
それはシャロンの腕の中にある本が解錠された音だった。
「お爺、ちゃん……! 助けて……!」
彼女の縋るような言葉に呼応するように、ついぞその本は開いた。
それは意思を持つ一つの生き物のようだった。
まるで呼吸をするように輪郭を帯びる程の存在感があった。
シャロンの涙が頬を伝い、それが雫となり、本に滴る。
それと共に、景色に眩いばかりの暗黒が駆け抜けた。
「う、わ――」
「なんっ、これは一体なんぞ――」
シャロンとヘカテーの言葉を遮り、駆け抜けた衝撃が〈地獄門〉の全域を大きく揺らし、突然の変動と理解し難い状況に人も魔も関係なく、誰もが皆等しく目を伏せ、その身を護る為に伏せた。
「何が、起きやがった……!」
益荒男を思わせる巨躯を以って、シドだけはその衝撃に抗っていた。
腕を翳して目に染みる程の暗黒の輝きを遮り、変動の中心にあるシャロンとヘカテーの様子を探る。
そうして一歩、また一歩と歩みを進めつつ、彼は目を細めて、いよいよ何が起きたのかをその目で見た。
混沌に狂う〈地獄門〉の景色の中、その瞳に悲哀の色を浮かべながらに。
「……これが実物か」
或いは、その光景は絶望に等しかったかもしれない。
または、奇跡に等しいものだったかもしれない。
つまり、それは世に存在する聖と魔の二つの属性が相反するのではなく、一つに混ざり合ったように見える程に歪で、それでも荘厳で美しさをも醸すものに映った。
「それを扱えるからこそに……お前は特別なんだ。故に魔の者等はお前を求める、お前を狙う。何せ〈お前だからこそ〉にそれが許されるからだ、シャロン……」
景色は激動していた。
シドのみならず、今、立ち上がった各々の視線の先に、それはあった。
本を手に宙を浮く少女の姿がある。
先までは〈死の女王〉の手中にあった少女だった。
そんな彼女は今、黒い輝きに包まれていた。
目に染みるような暗黒はさながらに狂気の顕現だった。
多くのゴーストの群れは己の顔面を手で覆い、呻くとその場に蹲った。
死神の半数までもが地に膝を突いてしまった。
そういった変化とはまた別に、空気が唸り〈地獄門〉の景色が震えた。
駆け抜ける衝撃が〈地獄門〉の天を衝き、それにより不可思議な現象まで起きる。
「じ、〈地獄門〉が、拉げたように……!」
ファウストは我が目を疑う。
果て無き虚無の空が、まるで握り潰された紙のように歪に変化した。
端的に崩壊の一歩手前を意味するが、現状、この〈地獄門〉を支配するのは〈死の女王〉ヘカテーだった。
その隔絶領域を突破するとなれば相応の力が必要になる。
もっと簡単に語ればヘカテーを倒すことがシンプルな答えだった。
だが、そんな手段すらも吹き飛ばすくらいの出鱈目が起きていた。
生まれ落ちた黒い輝きは隔絶された世界を崩壊へと導くかのようだった。
「おぉ、おおぉ……! それが真の姿か、少女よ、いやさ〈禍悪の花〉よ! なんと禍々しき悪性よ……我が獄をも無理矢理にねじ伏せようだなどと、一体お前はどうなっている! お前は、お前という人間は、世の悪を全て喰らうつもりなのか……!」
異界をも歪める輝きの中心、そこに少女はいる。
名前はシャロン。
金髪碧眼で容姿端麗、笑顔の愛くるしい美少女だった。
だが、今の彼女に幼気なものは皆無だった。
人も魔も、誰もが彼女を見つめ、誰もが額に汗を流し、静かに身を震わせる。
輝きが集束を始めた。
向かう先は中心点にいたシャロンだった。
輝きの集束と共に彼女の身体に変異が起きる。
背に集中するように黒い光の粒子が舞い、段々と、何かを形成する。
「〈禍悪の花〉か……思った以上に綺麗じゃねぇかよ、シャロン」
それは、花だった。
暗黒に染まる一輪の花だった。
少女の背から日輪のように花弁を広げ、咲き誇るように存在を誇示した。
「……なに、これ?」
果たして少女に意識はあった。
少々眩んだ視界だが、ピントを修正した彼女は自身の変化を見て口を阿呆のように開ける。
背に暗黒の花を負い、全身には黒い刺青のようなものが浮かび上がっていた。
その刺青の一つ一つは文字だった。
のたうつ蛇のように滲み、保つ形は樹木のような、ないし枝葉を思わせるようなもので、それは一見して魔術的要素を強く印象付けるものだった。
「な、ななな、何これぇ⁉ なんか背中にお花が浮かんでる! しかも全身にタトゥーが入ってる⁉ ていうか空飛んでるぅー⁉」
息を呑む周囲とは打って変わり、変化を果たした当人は混乱していた。
何がどういうことなのかと騒ぐ彼女だったが、しかしそんな彼女へと火炎を振り撒いて迫る佳人がいた。
「ふ、ふふふぅ! 禍々しい見てくれとなったな〈禍悪の花〉! だがそれでこそ〈魔の経典〉と呼べる!」
「え、え⁉ 〈魔の経典〉ってなに⁉ ていうか近寄らないでぇー!」
慌てふためくシャロンは迫りくるヘカテーを捉えると宙を出鱈目に動き回る。
兎に角変化を果たしたにせよ勝手が分からないシャロン。
そんな彼女は手に持つ本を滅茶苦茶に振り回すが――
「ばっ、やめろシャロン! その本を振り回すんじゃねぇ! 何が起こるかも分からねぇんだぞ!」
「ふぇっ⁉ あっ……!」
シドの叫びは遅かった。
制止を求められたシャロンだったが、手の内にある本から一枚の羊皮紙が飛んだのを彼女は確かに見た。
それは軽やかに宙を踊る。
向かう先には狂気を振り撒いて駆けてくるヘカテーがあるが、その紙片がヘカテーの頭上へと到達した時、全てが決した。
「ふ、ふふふぅ! その溢れる超濃度の悪性! 全てはこの妾がもらい受け――」
威勢よく叫び散らすヘカテーだったが〈死の女王〉の言葉はそこで終わった。
火炎を振り撒いていた筈のヘカテーだったが、何故か唐突に彼女の火炎が掻き消える。更には宙を浮いていた彼女だったが、やはり唐突に自由を失うと地へと落下した。
「な、なにごとだ……⁉」
ヘカテー本人ですらも理解の及ばないことだったが、しかし状況を見ているシド、そしてファウストばかりは理解していた。
ヘカテーの頭上に浮かぶ一枚の羊皮紙がある。
その紙片の中心から墨のような染みが生まれ、それは景色にまで滲んだ。
彼女の頭上一帯は暗黒の墨によって満たされてしまった。
「あれが……あれが幻の〈礼装〉か、シド・フラワーショップ……」
「ああ、そうみたいだな。誰もが……それこそ聖魔の皆が恐怖した、世に存在しちゃならねぇ代物だ」
墨の広がる天。そこから突き出てきたのは巨大な樹だった。
それは地へと向かい伸びてくるとヘカテーの体躯を容易に穿った。
「あぐぅ⁉ なっ、妾の体躯を、こうも簡単に……!」
自由を奪われたヘカテーだが、彼女ですらもその樹を粉砕することが出来ない。
もがく彼女の抵抗を他所に、巨大な樹が新たな変化を見せた。
天地逆さに生える大樹の根――墨で満たされた天から幾本もの蔦が伸びてきた。
それは変幻自在に動き回り、鞭のように撓るとヘカテーの体躯へと絡みつき、まるで食虫植物が獲物を捕食するように彼女の全身を覆い尽くさんと枝葉を伸ばした。
「ええい、たかだか樹木の分際で! 妾の火炎ををも奪い喰らうとは無礼千万極まるぞ! 悪徳を求め荒れ狂う化け物めが……〈クリフォトの樹〉めがぁあ……!」
必死で抗うヘカテー。
しかし虚しくも彼女の力が通用することはなく、巨大な樹は急成長を続けるようにその丈を伸ばし続け、蔦が完全にヘカテーを覆い尽くしてしまった。
「〈魔術礼装〉禍悪の花――〈クリフォトの花〉。世に存在する魔に連なる全て……悪意、悪徳、そして〈悪魔〉をも糧として世に根を張る悪の極地、または〈魔の経典〉。その実態は謎も謎、存在は知られていても正確な情報は何一つとして確立されちゃあいなかったが……」
一度言葉を切ったシドは額に汗を浮かべながらに言葉を続ける。
「……とあるお困り極まる異常者が残した秘宝、か。実に恐ろしいな、こりゃ」
悪、そして魔を象徴する大樹は〈地獄門〉の景色に根を張り、更にはヘカテーを取り込むとその頂に一輪の花を咲かせた。
それは宙を浮かぶシャロンの背にある花と同じもので、それこそは悪の樹に咲いた一輪の花だった。
「ななな、何がなんなのぉー⁉」
ただ、シャロンには何がどういうことなのかがさっぱりだった。彼女は自身の手により危機を排除した自覚もないまま、泣き叫ぶと本を強く抱きしめる。
そんな彼女に抱きしめられる本に変化が生まれた。
先まで記されもしなかった題名、そして著者の名が浮かんでいた。
題こそは〈禍悪の花〉。
そして刻まれた著者の名前は――
「アレイスター・クロウリー。クリフォトの探究者にしてオカルトの始祖、か。碌なご先祖様じゃねぇよなぁ、シャロン……」
シドは嘆息すると先から驚愕の表情をするファウストを蹴り飛ばす。
そうして天を見上げ、次第に晴れていく〈地獄門〉の景色を理解すると、未だに泣き叫んでいるシャロンを手招いた。
「もう、もうぅ! 説明してよ、シドぉ!」
「ははは……こうも泣く姿は天使のそれだっつーのに、実体は魔の象徴だから、世の中分かんねえよなぁ……」
背に暗黒の花を負う少女。
名をシャロン・クロウリーと呼ぶ。
孤児だった彼女は老爺の下へと招かれた。
深い愛情を与えられ何一つ不自由なく育ってきた彼女は誰が見ても麗しい天使の姿に見えた。
だが真実は大きく違う。
彼女こそは世の悪を極めた、史上最悪な〈黒魔術師〉の末裔だった。
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