「終わりだぞ、人間!」


 解き放たれた火炎の矢は螺旋を描き大きな火球となる。

 その大きさは巨岩程もあり、間近に見つめた時、シャロンは死を覚悟した。


「きゃぁあああ!」


 最早打つ手なし、そして逃げる術もなしとシャロンは悟る。

 恐怖に飲まれ、乙女らしい悲鳴をあげたが――


「あ、あれ……?」


 ところがいつまで経っても身を襲う衝撃はなく、更には熱量も感じなかった。

 一体どういうことだろうかとシャロンは強く閉じた瞼を開き、恐る恐るといった感じで状況を確認した。


「ふぅんむ……やぁっぱいい香りだな、こいつは」


 そこには迫っていた火球はなかった。更には不思議な現象が起きていた。

 シャロンを抱えているシドを中心として薄い膜のようなものが展開されていた。

 それは迫る熱波や火の粉をも掻き消し、内部に存在する二人は茹だるような熱気をも受け付けていない。


「な、なにこれ……?」

「聖水は分かるか、シャロン」

「聖水……?」

「これもエクソシズムじゃ定番の品さ。銀と同様に退魔の力を持つ」


 シドは言いつつ膜を銃身で振り払う。

 それに伴って形成されていた膜――聖水の防壁は掻き消えるが、シャロンは更に別の事柄に気付いた。


「あ、このニオイ……薔薇の香り……?」


 それは薔薇の香り。

 元よりシドの胸ポケットの中には薔薇の香水が入っていたが、よもやそれが漏れ出したか、と彼女は疑問符を浮かべた。


「……成程。どうにも貴様は風変りな人種のようだな、小僧」

「おいおい、何をそうもしかめっ面をしてやがる。折角のいい香りだ、存分に堪能したらどうだい」

「よくもいいおる。その聖水……薔薇の聖水か……!」


 シドは手の内にある小瓶を振るい、何が起きたかを見ていたヘカテーは忌々しそうに呟いた。

 火球がシドへと迫った時、シドは香水を景色に振り撒いた。

 それにより何が生じるかといえば、それこそは先まで展開されていた聖水の防壁だった。


「単なる聖水程度で妾の火炎を防げるわけがない。が……祝福の花に満たされた聖水ならばそれも可能、と」

「生命の象徴足る花々や樹木……特に薔薇や百合なんかは別格の位置にあると呼んでもいい。何せ神の祝福の際に用いられる程の神性を持つからな」

「猪口才な……」


 ヘカテーは歯噛みをしつつ鋭い双眸でシドを睨む。


「純銀の魔弾に薔薇の聖水……小細工が好きか、人間。だがその程度で妾をどうにかできるとも思ってはいまい」

「そいつはやってみなきゃ……分からねえよ」


 シドは全身に薔薇の聖水を吹きかけるとシャロンにも振り撒いてやる。濃い香りに少々眩むシャロンだったが、しかし彼女は不思議とそのニオイに親しみを覚えた。


(なんか、お爺ちゃんのニオイと似てる)


 薔薇を愛する老爺を思い返してか、同じく薔薇を愛するシドを見て、やはり二人は親しい間柄にあったのだとシャロンは結論した。

 そんなシャロンを腕の中から解放したシドは右手に拳銃を、左手にナックルダスターを装着してヘカテーへと向き直った。


「おい待て、シド・フラワーショップ!」

「あ? なんだ、生きてたのかファウスト」

「当然だろうが! いやそんなことよりも、これ以上ヘカテーを怒らせてはいけない! 真の意味で〈地獄〉が開放してしまうぞ!」


 何とか生きながらえていたのはファウストも同じく、纏っていた純白の外套は煤に塗れていたが、それでも彼はシャトの下へと駆けてくると諭そうとした。

 しかしそんなファウストの制止も他所にしてシドは拳を鳴らす。


「そうなる前にぶっ殺しゃいいんだろう。なぁに、相手は年季の入ったババアだ。勝機の一つや二つはあるさ」

「し、正気か貴様……!」

「それより……おい手前、もしもシャロンに指一本でも触れてみろ。その時はナマスにしてやるからな」

「お、おい、待て、おい!」

「シドぉ……!」


 先まで殺し合いをしていたファウストだが、今のシドにとっては敵にすら値しない存在だった。

 シドはこの現状を脱する為にヘカテーへと向き直る。


「いい加減に諦めたらどうだ、ババア。あいつをお前にやる訳には……いや、お前等みたいな〈悪魔〉に渡す訳にはいかねぇんだ」

「ふん、その理由とはなんだ? よもや貴様のような人種が世を憂うだとかする訳もあるまい? 大方貴様も魅入られたのだろう、〈禍悪の花〉に、あの少女に」

「手前等みたいなロリ狂いと一緒にするんじゃねぇよ。俺はただ……約束を果たすだけだ」

「約束だと……?」


 シドはいよいよジャケットまでをも脱ぎ捨てた。

 腰に巻くのは弾丸ベルトで、全ては五十口径の純銀製弾頭が備えられている。

 シャツの袖を捲ると覗くのは山のような筋肉だ。

 それに力を籠めれば惜しげもなく隆起され、背の盛り上がりも通常とはかけ離れた具合となる。


「死んだ恩師の頼みだ。あいつをどうか助けてやってくれと……あいつに迫らんとする害悪の全てを排除してくれと、俺は依頼を受けている」

「……敵うと思うか、貴様が」

「やってみなきゃ分からねえし、何が何でもやるしかねぇだろう。だから……準備はよいかね、陛下。覚悟の程は」


 シドは構える。

 銃を握る腕は真っ直ぐに、ナックルダスターの装着された拳は腰溜めに。

 目標はただ一つ、女王ヘカテー。

 人が〈悪魔〉の最上位格と対することは通常ならば不可能だ。

 ましてや聖に身を捧げた身でもないシドに勝機はないとも呼べる。

 しかしそうであってもシドは立ち向かう。


「では切った張っただヘカテー。塵と化すまで殺し尽してやらぁ!」

「上等だぞ小僧……この妾に対する不敬不遜の数多を存分に贖わせてやるぞ!」


 先に仕掛けたのはヘカテーだった。

 両の腕を振るうと彼女の左右に火炎の渦が生まれ、唸るとシドへと向かった。

 それに対するシドは片方に対して魔弾を撃ち込み、もう片方に対してはナックルダスターで殴り潰す。更にシドは地を蹴るとヘカテーへの距離を一気に狭めた。

 それらの反応を見てヘカテーに少々の驚きが生まれる。


(こやつ、恐怖を抱いておらん……!)


 魔――曰くは恐怖、悪意の顕現。それに近づくとなれば当然ただでは済まない。

 だがシドは何も気にせずに拳を振るう。

 寄越された一撃に対してヘカテーは避けようともしなかった。

 例え純銀製のナックルダスターとはいえ、それでも彼女にとって効果は薄い筈だった。


「やってみるがいい、小僧! そして思い知れ! 聖なる身でもない貴様が如何に神性を宿す得物を持ち寄ったとて、妾のような覇者には何一つとして通じないと――」


 そこで彼女の言葉は途切れた。

 正確にいえば無理矢理に塞がれた。

 その理由は単純で、今、彼女の端麗な顔立ちは――


「通じるんだよなぁ、これが……!」

「ご、おぇ……⁉」


 シドの拳により拉げていたからだった。


 彼女の頬に突き立てられたのはシドの剛拳だった。

 それは確かにヘカテーへと触れ、どころか万遍なく効果を発揮していた。


「がはぁっ⁉」


 寄越された衝撃により景色を吹き飛ぶヘカテー。

 一、二と跳ね、大橋の上を数フィート程滑り、そこでようやく止まったが、彼女は自身に何が起きたかを理解出来ていなかった。

 それでも立ち上がり、今し方起きた事実を反芻した彼女はようやく確信を得た。


「貴様、小僧……歪だと思ってはいたが、そういうことだったか……! 通りでこの〈地獄門〉でも平気な訳だ、通りであの少女の傍にいても平気な訳だ……!」


 シドと接触したその瞬間、ヘカテーはとあるものを感じ取った。

 登場を果たして最初に彼女が口にしたのはシドの特異性だったが、それを肌で感じた彼女は、まるで塵芥を見るかのような蔑んだ顔でシドを睨んだ。


「通常、人類が聖魔に触れることは不可能だ……それこそ呪術的な業を以ってしてはじめて可能になる! だが妾こそは冥府神にして〈悪魔〉の身! そうなれば必然的にそれを許容するだけの器がなければならぬ! だが貴様にはないのだろう……何も、〈何もない〉のだろう!」

「ははは……ああ、その通りだぜ糞ババア。俺には何もない。何もだ。世を形成する万物に宿る神性、そして悪性――〈セフィラとクリファが俺には存在しない〉のさ」


 その二つこそが世の善悪、正否、是非を意味するもので、これにより世界は成り立ち意味を成すことが可能になる。

 それは生き物であれ無機物であれ確かに宿るものであり、どちらかが欠けるということもありない。

 だがヘカテーはシドから感じ取る。

 万物に必ず宿るはずの神性と悪性がシドからは微塵も窺えなかったと。


「なんと奇天烈な……! それ故に聖魔の影響を受けないということか、感応すらもしないということか! てっきり〈強制中和体質〉かと思えば、その実は――」

「そうだ。俺のこれは〈拒絶体質〉……〈聖魔を拒絶する特異特殊な体質〉だ」


 シドは言葉を紡ぎつつも更に接近し、魔弾をばら撒きながらに拳を振り上げる。

 ヘカテーは咄嗟のことに後方へと下がりつつも魔弾を火炎で焼き払う。

 彼女が何よりとして危険視するのはシドの拳、あるいはシドの肉体そのものだった。


(魔弾程度ならば防ぐことは容易……しかし直接小僧に触れられるのはまずい。よもや妾のような上位の〈悪魔〉にすら通用するとは、出鱈目にも程がある……!)


 予想だにしない事態だった。

 この世に存在するはずのない特異体質者、それがシドの真実だった。

 世に依存する聖魔という属性。これを拒絶できてしまうからこそにシドは聖や魔に触れることが出来るし、それによって影響を受けることもなかった。


「おらぁ!」

「ぬうぅ……!」


 シャロンを開放した事によりシドに柵は皆無。

 彼は先よりも軽い動きでヘカテーと衝突を繰り返した。

 ヘカテーが炎の鞭を振るえば拳で防ぎ、火の矢を寄越されると魔弾で粉砕し、時に火柱や火球が迫れば地を蹴って危機を回避した。


「手馴れている……妾のような魔の大権現を相手にしても余裕のつもりか、小僧!」

「余裕と強がれるんなら、そりゃ自慢にもなるがね……!」


 一見優位に見えるシドだったが、しかしそれもまた否だった。

 どうあっても人外のヘカテーの誇る膂力や運動性能、機動性能は人外の域だった。

 速度は韋駄天であり振るう怪力は地を容易く粉砕する。

 削られる大橋を見てシドは喉を鳴らし、時に急接近するとヘカテーの攻撃をまともに喰らわないようにと動作でいなす。


 全ては限界の領域だった。

 迫る鞭が最も恐怖であり、これを上手く対処できなかった場合、シドはヘカテーの腕力によって無理矢理吹き飛ばされてしまう。

 拳で迎えつつも攻撃の起点を即座に把握し、早い段階で破壊を完了させていた。


「ちょこまかと、鬱陶しい人間め!」

「ぐっ……!」


 だがヘカテーも一方的な状況を許す訳がなかった。

 彼女は火炎を周囲へと出現させるとその渦中へと飛び込んだ。

 景色から掻き消えたヘカテーだが、産み落とされた火炎はシドへと纏わりつき、更には火炎の内側からヘカテーが顔を覗かせてくる。


 鞭を振るい、矢を射掛けては再度火炎の中へと逃げ込み、また姿を見せてはシドの死角を狙って攻撃を繰り返す。

 四方八方からの奇襲に対しシドはなんとか捌くが、全てを対処できる訳でもなかった。時に鞭に吹き飛ばされ、時に矢により身を削られた。

 悪性を拒絶するにしても生まれる衝撃や運動量をも拒絶できる訳ではない。

 結果的にシドは人外の暴力により嬲られるが――


「つ、かまえたぜ、ババア……!」

「うあっ!?」


 シドはただ待ち続けていた。

 ヘカテーが火炎の隙間から攻撃を仕掛ける際、体躯の一部が露出するのを。

 既に幾合のやり取りを繰り返し、シドは段々と息を切らせる。

 だがそんな彼の瞳はヘカテーの腕の出現を捉えると即座に身体を動かし、決して逃がさないようにと左手で握りしめた。


「弾丸はお好みかな、老婆殿」

「ぐっ――」


 引っ掴み、火炎の中から引きずりだしたシドはヘカテーを地に勢いよく叩きつけ、更に馬乗りになると彼女の額に銃口を宛がい装填されている弾丸を全て射出した。

 左手すらも振り上げると強く拳を握りしめ、それを振り下ろせばヘカテーの顔面と衝突をする。

 響くのは鈍いような、あるいは鋭いような音で、拳を振るうごとにシドの暴力は加速していく。


「おらおらおらおらおらおらおらおらおらおらぁあああ!」

「ぐ、がふっ、ぶっ――ぐうぅ!?」


 ナックルダスターで殴りつけ、拳銃の銃身で殴りつけ、幾度もそれを繰り返し、ヘカテーの身体が地に減り込んでも尚止まらない。


「人間を嘗めんじゃねぇぞ、糞ババアがぁあ!」


 シドは叫ぶと左拳を天高くへと振り上げる。

 ヘカテーは断頭台の景色を思った。

 さながらにこの男の拳はギロチンのようだと。

 そうして目前に迫った巨大な拳に目を閉じたヘカテーは、衝撃を素直に受け入れ、橋の奥深くへと減り込んでしまった。


「す……凄い……!」


 何が起きているのか理解が追い付かなかったシャロン。

 しかしそんな彼女にもシドの異常性というのは何となくのところで理解出来た。


 魔を相手に傷つきながらも勝利をおさめた事実。

 まるで叙事に語られる景色を見ているようで彼女は不思議な高揚感に包まれた。

 そんな彼女は〈死の女王〉に勝利したシドへと駆け寄ろうとするが――


「見事な人類だ……流石にこればかりは認めざるを得ないだろう」

「えっ……?」


 そんな彼女は挙動を失う。

 何故ならば彼女の耳元で悩まし気なソプラノが響いたからだ。


 その声の主は先程シドによって完膚なきまでに叩きのめされたヘカテーだった。

 シャロンは視線だけを自身の真横へと向ける。

 そこには確かにヘカテーの姿があり、彼女の脳裏に〈死〉という言葉が過った。

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