Ⅸ
〈地獄門〉に姿を見せた女王ヘカテーはシドを見つめ、次いで視線はシャロンへと向かった。
「麗しきは〈禍悪の花〉……よくぞ我が獄へと参られた」
「え……え?」
声を掛けられたシャロンは狼狽えるが、そんな彼女を背に隠したのはシドだった。
「そう簡単に話しかけるなよ〈死〉の君……」
「ふふ……殺気が凄まじいな、人間」
シドの様相は先よりも尚の事恐ろしい具合で、その表情は殺意により塗り固められていた。
距離を隔てて対峙するシドとヘカテーだが、そんな合間をヘカテーが自身の足で縮めていく。
「近寄るな」
「否。近寄ろう」
「……どうにもあんたは勘違いをしてるぜ。こいつは別にあんたに差し出す為に用意された訳じゃない」
「否。理由経緯などの如何はどうあれ、妾の目の前にあるとなればそれは妾のもの」
「聞く耳くらい持てよ糞ババアが……!」
シドは吐き捨てると腰を抜かしているファウストへと視線を寄越す。
「おい、ファウスト博士よ……手前はメフィストフェレメスに魂を売る程に魔の虜だろうが。だったらあいつをどうにかしろ」
「む、無茶をいうな! それこそは初代ファウストのみが為し得ることだし、そもそもあの女王に抗う事など我々〈黒魔術師〉には不可能だ!」
叫ぶファウストに対しシドは舌を打つ。
女王ヘカテーは古今〈黒魔術師〉にとって本尊とされてきた。
故にファウストのような〈黒魔術師〉に抗う術はないし、刃向うとなれば道を外れるも同義だった。
「……実に厄介だな。〈黒魔術〉における本尊は伊達じゃねーのかい、ババア」
「故に妾は女王。よくできた子だ、死霊の徒よ。この〈地獄門〉をよくぞ開いてくれたな……」
ヘカテーは立ち止まる。いよいよシドとの距離は数フィート程度となっていた。
シドは手の中にある拳銃を握り直し、背後に立つシャロンの腕を確かに掴む。
「な、なんなの……〈禍悪の花〉だとか〈死の女王〉だとか! シド、一体何が起きてるの⁉」
「ふむぅ……? ふふふ、よもや何も知らないのか〈禍悪の花〉よ。これはまた可愛らしい。無垢とはまさにそのことをいう」
「喋るんじゃねぇ、ババア。そしてそれ以上動くな……!」
語気を荒げたシドは弾丸を射出した。
それは間違いなくヘカテーの顔面へと向かったが、しかし弾丸が意味を成すことはなかった。
「ほぉ、退魔の弾……純銀の弾。それも宿す神性――〈セフィラ〉も並ではないな」
「ドレスデンがクロイツ聖堂の銀十字から造られた弾だボケ……それを余裕で粉砕する手前こそ普通じゃねーよ」
ヘカテーへと着弾するその瞬間、やにわに景色に火炎が踊った。
それは刹那でヘカテーを包み込み、迫っていた銀の弾丸は火炎に揉まれると蒸発してしまう。
その光景にシドは鼻を鳴らし、シャロンは目を見開き、ファウストは驚きのあまり鼻水を噴き出した。
「ややや、やめろ、魔殺し屋ぁ! そのお方をどなたと心得て――」
「手前みたいな異端者が愛する異端の象徴だろ、十分理解してんだよ」
「だったらやめろ、分かっているだろう! 如何に貴様が普通じゃないとしても、相手は〈死〉の神をも配下に置く存在だ!」
「それがなんだっつうんだよ、阿呆くせえ」
シドの反応は苛立つかのようで、彼は歯牙を剥き出しにすると最後の通告をする。
「ババア。こいつは……シャロンは何も知らねえ。己がどういった立場にあり、どういった異常性を抱え持つのかを知らねえ」
「それで?」
「今のこいつに手前等の求めるものは何もねぇっていってんだ」
「そうか?」
「聞き分けろ。そして理解したなら失せろ。何が花蜜だなんだと、甘露を啜りたいんなら生者でも襲ってろよ、お得意のブラックドッグを使役するなり死神を派遣するなりとよ」
相手はギリシア神話において冥府神の一柱、オカルトにおいては本尊。
だがそんな相手を前にしてもシドは傲岸不遜に対する。
そんなシドの言葉や態度を見て聞くヘカテーは静かに笑いを零す。
やがてそれは大きなものとなり、いよいよ彼女は抱腹する勢いで大笑いをした。
「は、ははは、あははは! なんともまぁ豪胆な人間だ! この妾を前にしてそうも不遜に対するとは実に天晴れ! 恐ろしくはないのか? 妾は〈死の女王〉だぞ?」
「さっきもいったけどな、その程度がどうしたってんだ。たかだかリンボで気張ってる糞垂れババア相手になんでビビんなきゃならねぇってんだ」
「ふふ、ふふふ。言葉の一つとっても酷いときた。これは愉快だ。妾という存在を知りつつも尚それか。こんな人間が今も尚存在するとは面白い。巷は実に滅茶苦茶だ」
が、そこで言葉を切ったヘカテーは動きを止める。
更には静かに天を仰ぎ、呼吸を一つ置いた。
そうして静かに吐き切ると、彼女は目を見開きシドを射抜く。
「……あまり図に乗るな、人間。貴様程度、何の問題にもならんのだぞ」
「……忠告はしたぞ、ババア。退く気はないんだな」
「退く? 退くだと? 馬鹿をいうな。確かにそこな〈禍悪の花〉は何も知らぬのだろう。自覚すらもないのだろう。だがな……嘘はいけないぞ、小僧。〈禍悪の花〉に何もないだと? ならば問おうか――」
女王ヘカテーは再度火炎を纏う。
その火炎こそはギリシア神話においてクリュティオスを屠った松明の火だった。
オリュンポス神の内でも別格の扱いを受けるヘカテー。
その実力は単独でギガースを倒す程だった。
伝説とも呼べる破滅の火炎は異界化した景色すら燃やし尽していく。
暗がりが赤く染まり上がり熱が生まれた。
居並ぶゴーストの群れは刹那で火達磨となり、テムズ川は火の海と化す。
ロンドン市のタワーブリッジは奈落に掛かる橋のようで、状況を完全に支配してしまったヘカテーは甲高い声で叫び散らした。
「そこな〈禍悪の花〉から発せられる異常的な悪性――〈クリファ〉はなんだというのか……! 答えてみるがいい、人間!」
「は、それこそ酷い勘違いだぜ糞ババア……そいつは俺の殺意だ糞ボケぇ!」
シドはシャロンを抱きしめると景色から飛び退いた。
突然の浮遊感に見舞われるシャロンだったが、そんな彼女は今し方居た地点に火柱があがるのを確かに見た。
極太の柱は天をも衝かん勢いで、もしあれに呑まれていたら――そこまで考えてシャロンは顔を蒼褪める。
「わ、私を、私を見捨てるな、魔殺し屋ぁ!」
「なんとか気張れよ不細工野郎……!」
景色は大荒れと化した。
至る所で火の海がうねり、橋の上には火球が落ちてきたり熱波が吹き荒れていた。
火炎の吹き荒れる景色だが、それらはまるで意思を持つようにして動きを見せる。
蛇のように蜷局を巻いては飛び交い、それらの向かう先はシドだった。
「おらぁ!」
襲い掛かってくる火の蛇、霰のように降り注ぐのは火の矢。
それらを避けつつ時に魔弾を射出して粉砕し、シドは立て直す機会を窺う。
「シド、シドぉ! もう無理、もう訳が分からないよ! これは一体どういうことなの⁉ 何が何でこんなことになってるのぉ⁉」
「落ち着けシャロン、今は兎に角喋る暇がねぇんだ!」
魔に連なるとなれば使役されるものが火であれ属性は魔。
したがってシドの誇る特性純銀弾は火炎の様々を粉砕することが可能だった。
だがいくら粉砕しても限りはなく、更にタワーブリッジもそこまで大きな規格とは呼べない。状況は押されるばかりで、シドは行き場を失いかけていた。
「どうした人間、あれほど啖呵を切っておいてその程度だとはいうまいな!」
「そうも睨むんじゃねぇよババア、折角の美人が台無しだぜぇ……!」
「嬉しくもない世辞もあったものではないなぁ……!」
そんなシドへと直接迫るヘカテー。
彼女は火炎を思うが儘に操作し、手元に火でつくられた鞭を握る。
撓るそれはシドへと目掛けて振るわれるが、それを魔弾によってシドは防いだ。
「シャロン! 俺の胸ポケットを漁れ!」
「え、えぇ⁉ こんな時に何をいってるの⁉」
「いいから早くしろ!」
シャロンは要領を得ない内容に頓狂な声を上げる。だがシドの反応は真剣そのもので、シャロンは恐る恐るといった手つきでシドの胸を弄った。
「……ん? 何かある?」
「それを寄越せ、早く!」
「わ、分かったけどぉ……!」
死神と対峙していた時と打って変わり、今のシドに余裕と呼べるものはなかった。
天地左右から迫る火炎は自由自在のままであり、更にはシャロンを抱えたままとなると行動も制限される。
最も恐ろしいこととして直接手を下すヘカテーの存在も挙げられる。
火の鞭を操る姿は正に女王に相応しく、シドは距離を詰められないようにと我武者羅に動き続けていた。
「と、取れたぁ……って、えぇ⁉ 何これ⁉」
そんなシドの救いとなるべくシャロンはようやく内容を取り出したが、その内容はとても予想し難い物だった。
「ば、薔薇の香水ぃー!?」
香水の入った小さな瓶で、微かに漂うのは薔薇の薫香。
何度もシャロンはそれを見て我が目を疑う。これが一体なんの役に立つというのかとシャロンは仰天するが、しかしシドは一人歪な笑みを浮かべる。
「それだ、それでいいのさ……!」
「こ、これで何が出来るの⁉ なんで銃しまっちゃうの⁉」
シドは駆け回りつつも一度拳銃を懐へと戻し、シャロンの手の内から香水の瓶を奪い取る。
そうして一度立ち止まった彼は、今度は香水の瓶を構えてヘカテーを睨み付けた。
「気でも違えたか、人間……それが何になる」
「さあな……何になるかはやってみなきゃ分からねぇぜ」
「ふん、窮したか。所詮は人間、大した程度ではなかったな……!」
シドの反応を敗北のそれと受け取ったヘカテーは手の内にある鞭を再度火へと戻し、今度は弓へと変形させた。
矢を番え弦を絞る。鏃は真っ直ぐにシドを睨んでいる。
それを前にしてもシドは不動だが、ヘカテーは何の慈悲もなく矢を撃ち放った。
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