第8話 噓ついたら針千本


 すっかり日は傾き、遠くの空が茜色から夜の藍に色を変えた頃。

 リリーがもぞもぞと身を起こした。

 まだ少し目が赤いが、だいぶ落ち着いたようだ。涙の痕も、見えなくなっていた。

 

 俺は黙って水差しを持ってくると、コップに注いで彼女に手渡した。

 少しは心を開いてくれたようで、すぐに受け取ってくれる。

 俺も自分の分を注いで、脇に腰掛ける。


 「おはよう。少しは眠れたか?」

 「……ありがとう、ございます」


 リリーはコップの水を飲み干してから、ぎこちなくもお礼を返してくれた。

 彼女との距離感を測るように、慎重に言葉を選ぶ。


 「俺はゾルバ。リリーと同い年だ」

 「ゾルバ、さま……?」

 「様はいいよ。ゾルバで。だから俺もリリーって呼んでいいか?」

 「……うん、いいよ」

 「よかった」


 声が細くて聞き取るのに苦労したが、さすがは貴族の娘、よく教育を受けているようで、自分の置かれた現状も正しく理解しているようだった。

 これがうちの連中だったら、わけもわからず泣き叫ぶばかりだったろう。

 ……聡明であるがゆえにいろいろなことを理解できてしまうのが、果たして幸せなのかはわからないが。


 「ここにいるこたちには、みんな、おやがいないって。ゾルバも、そうなの?」

 「そうだよ。だから先生が……シスター・バレンシアが俺たちのお母さんで、みんな家族なんだ」

 「みんな、かぞく……」

 「ここじゃ俺が一番年上だから、俺がみんなのお兄ちゃん代わりだな。リリーには、兄弟はいるのか?」

 「うえのおにいさまと、したのおにいさま……それからおねえさまと……あと、まだあったことないけど、これからきょうだいになるってひとたちが」

 「……そうか。兄弟がいっぱいだな。なんか似てるな、俺たち」

 「にてる……? ……そう、かな。……そう、かも」


 だんだんと緊張がほぐれ、リリーの声にも少しづつ色がついていく。

 幼いながらも、整った目鼻立ち。

 白い陶磁のような肌は精巧な人形のようで、触れれば簡単に壊れてしまいそうだ。

 瞳と同じ色をした亜麻色の髪が、肩口をするすると流れ落ちる様子に思わず目を奪われる。

 五歳にしてこれだ。貴族のお嬢様ってみんなこうなのかな。


 そういえば、今は何時だろう。

 そろそろ夕食の時間だとは思うんだが。この部屋には時計が無くて困る。

 俺は空になった水差しを取ると、立ち上がって扉の方へ向かった。


 「ちょっと、お替り取って来るな。すぐ戻るか――」


 咄嗟に、シャツの裾が握られる。

 見ると、酷く怯えた様子でリリーが俺の服を掴んでいた。


 「ど、どこに、いくの……?」

 「だ、大丈夫。水を取りに行くだけだから。すぐ戻る」

 「うそ……。いなくなっちゃわないで……」


 ……迂闊だった。

 賢い子だと思って、つい大丈夫だろうと気を緩めてしまった。

 先生にも釘を刺されていたのに、馬鹿か俺は。そんなわけがないだろう。

 食堂で独り、苦しくて押しつぶされそうになっていたこの子を見ていたはずなのに。

 リリーはすっかり取り乱してしまい、顔をくしゃくしゃに歪めて、千切れそうなほどに俺のシャツを引っ張っている。

 俺は彼女に向き直り、そっと掌を重ねると、額に触れるか触れないかのところまで顔を寄せる。


 「大丈夫、すぐ戻るから。なんにも心配ないから」

 「……でも……」

 「そうだ。この布団、いくつも花の模様が描かれてるだろ? いくつあるか、数えてみようぜ。全部数え終わる頃には、戻って来るからさ」

 「ほんと?」

 「ほんとだよ。さ、手を離して。リリー」


 リリーはまだ少し渋っていたものの、俺の言う通りにしてくれた。

 いち、に、と布団の柄を数え始めたのを見届けて部屋を出る。

 食堂に入ると、ちょうど夕食が配られているところだった。


 「あ、にいちゃ、おそーい!」

 「どこにいたのー? ずっとさがしてたんだよー」

 「悪い悪い、ちょっとな」


 群がってくる子供たちを制して、先生の元へ。

 ついでだからと俺も配膳を手伝っていると、先生がすっと傍へ寄ってきた。


 「様子はどうかしら?」

 「途中までは良かったんだけどさー。部屋を出ようとしたら、置いて行かれると思ったみたいで、泣かれちゃって」

 「だったらすぐに部屋に戻りなさい。こんなことしてる場合じゃないでしょう?」

 「いや、まあ、そうなんだけど……ほら、あんまりこいつらほったらかしてるのも不味いかなって思って。これ終わったら戻るから」


 先生は呆れた様子で、ため息をついている。

 いや、確かにすぐ戻らなきゃとは思っているんだが、どうにも足が重い。

 さきほどリリーを泣かせてしまったことが、自分でも想像以上にこたえているらしい。でも、心を落ち着ける手段が働くことだというのは……我ながらどうかしてると思う。


 「ブリューばあちゃんは?」

 「下の子たちを見てくださってるわ。リリーのことはお伝えしてあるけど、顔を見るのはまたにするって」

 「そっか。明日はどうする?」

 「そうね……。朝ごはんはまたお部屋に持っていくわ。それで大丈夫そうなら、外で遊ばせてあげて。その後のことはまた考えましょう」

 「それは良いけど、家のことはいいの? ブリューばあちゃんだって毎日いるわけじゃないんだし、色々大変じゃ……」

 「それなら問題無いわ。実は、リリーのいたお屋敷から家政婦さんをお願いしてあるの。明日のお昼には来てもらうことになってるから」

 「か、家政婦? ちょっと、それ、大丈夫なの? 貴族様のお抱え使用人なんて凄い高給取りなんじゃ……」

 「子どもがお金の心配しなくてもいいの。それに、家政婦さんはあくまでリリーのご両親の御厚意ということだから。うちのお財布からは一切出て行かないわ」

 「……さいですか」

 「とにかくあなたは余計な心配しなくていいから、あの子についていてあげて。頼りにしてるわよ」

 「わかったよ」


 水差しを脇に抱え、二人分のトレーを持って部屋に戻ると、毛布にくるまるようにして蹲っていたリリーがぱっと駆け寄ってきた。


 「うそつきっ!」


 慌ててトレーを下ろし、胸に飛び込んできた彼女を受け止める。


 「おはなをかぞえおわったら、もどるってゆったのにっ。おみずをとりにいくだけって、ゆったのに……っ」


 真っ赤な顔を俺のシャツに埋めると、そのまま何度も俺の胸に頭をぶつけてくる。

 先生と話していたのは時間にして十分にも満たないほどだったが、それでもリリーには耐えられなかったらしい。俺が思っているよりもずっと、心が臆病になっているみたいだった。

 彼女の肩を抱き、正面から顔を覗き込む。

 ……ちょ、そのまま頭突きしてくるのはやめてくれ、さっきから結構痛いから。

 

 「夕食が出来ていたから、貰ってきたんだ。二人分を一度に運ぶのに、ちょっと手間取ってさ。……待たせてごめんな」

 「……おふとんのおはなは、にひゃくじゅうさんりんで、かぞえおわってもこなくて、ぜんぶでさんかいかぞえてもまだだめで、でも、いうこときかないときらわれちゃうかもって……。ゾルバが、わたしのこときらいになっちゃったら、きっともうきてくれないっておもって、だから……っ」


 ほんとに数えたのか……律儀な子だな。


 「嫌いになんかならない。俺がリリーを嫌いになんてなるもんか」

 「で、でも、でもっ」

 「リリーはリリーのしたいようにすればいい。それでリリーを嫌いになったりなんてしない。……ああ、もちろん、危ないことはして欲しくないけど」

 「……ほんと?」

 「本当だよ。小指を出して」


 キョトンとするリリーの手を取ると、彼女の小指に自分の小指を絡める。

 ゆっくりと、大丈夫、大丈夫、心配いらないよと柔らかく支えながら。


 「俺はリリーが好きだよ。いつも……あー、ちょっと忙しくてときどき離れることもあるかもしれないけど……でも、離れていても、リリーを大事に思ってるよ。だから信じて」

 「……うん」

 「嘘吐いたら針千本のーます!」

 「えぇっ!?」

 「はい、約束。破ったら、針千本呑む!」


 びっくりして目を丸くするリリー。

 絡めていた小指をやんわり解くと、リリーは呆けたように自分の小指を見つめていたが、やがて俺の言葉が理解できたのか、


 「やく、そく。やぶったら、はりせんぼんね!」


 と、花が咲くように笑った。

 そんな彼女が思いがけず可愛くて、笑ってしまったら、案の定今度はむっと唇を尖らせた。

 それがまた可愛らしいので頭を撫でてやったら、今度はしおらしくなって布団に隠れてしまった。


 俺たちがようやく夕食を食べ始めたのは、もう月が真上に差し掛かった頃だった。


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