第5話 シスター・バレンシアの追想
◆◆◆
ふぅ、と深く息を吐いて、よいしょと腰を上げる。
椅子から立ち上がるだけでこんなにも体が重たく感じるのは、歳のせいだろうか。
それとも、先ほど聞いたばかりの聞きたくなかった話のせいだろうか。
最後に顔を見たのはもうずいぶん前になるけれど、手紙は欠かしたことがない。彼女は私にとって掛け替えのない人であるし、向こうもそう思ってくれていることは知っている。だから出来るだけ力になってあげたいけれど。
窓の向こうに、裏門の前で話し込むあの子とハロルドの姿が見える。
声までは聴こえないが、ハロルドが困ったような顔で杖を取り出し魔法を使ったところを見ると、またいつものおねだりをしたのだろう。
あの子にも困ったものだ。変に大人びていて、生意気で、頑固な子。
優しいけれど危ういところもある、不思議な子。
……本当は年相応に、何も考えず無邪気に遊んでいてほしいのだけれど。
去年に私が倒れてからというもの、あの子は私の手伝いをすると言って聞かなかった。
それまでもどこか他の子とは違うところがあると感じていたけれど、あの日を境にすっかり人が変わってしまったようだった。まるで中身だけが急激に造り変えられたみたいに。
ときどき、あの子を見ていると怖いと感じることがある。
大人のように考えて話すことが不気味なのではない。
ただ、あの子がああなってしまったのは私のせいなのかと思うと、それがどうしようもなく悲しくて。
リブロー様がお亡くなりになられてから、私はなんとか子どもたちを守らなくては、と老骨に鞭打ち、教会の皆にも助けてもらいながら、孤児院を続けてきた。
でも、寄る年波には勝てず、もう私の体は以前のようには動かなくなってしまった。
朝昼晩に教会へ少し顔を出したら、あとは赤ちゃんたちの面倒を見るだけで精一杯。合間に家事と書き物をしていたら、もうそれだけで一日が終わってしまう。
先日などは、昼過ぎから机に向かっているうちについうたた寝をしてしまって、気付けば陽が沈んでいたこともあった。
正直に言って、私がいま何とか頑張れているのはまぎれもなくあの子のおかげ。
他の子たちの面倒を見て、隙を見ては必要な家事を手伝い、小さな体でもできることは何でもやってくれる。
最近ではハロルドやブリューさんとも遣り取りして、日用品や薬品の注文までこなすようになった。
なんて……なんて賢いのかしら。
あの子は誰に教わるでもなく、自らやるべきことを見つけ、考え、仕事をこなしている。ハロルドの話では、四則演算は完全に習得しているらしい。あれでまだ五歳だなんて、とても信じられない。
この頃は勝手に私の書斎に忍び込んでもいるようだし、そのうち聖書の一節でも諳んじてみせるかもしれない。
あの子は何者なのだろう。
あの子と出会ったとき。
息も凍るほど冷たい冬の晩、降り積もった雪が月明かりを反射して辺りを白く染め上げ、夜だというのに眩しいくらい明るかったのを覚えている。
その晩は妙に胸が騒いで眠れなくて、ちょっとの散歩のつもりで、教会の外周をぐるりとまわってから、温かいミルクでも飲もうかと思っていたところだった。
耳が痛いくらいに静まり返った世界で、ふと聴こえてきた不思議な声の方に吸い寄せられるように向かうと、そこで教会の門下に捨てられていたあの子を見つけたのだ。
消えゆく命に祈りを……と覗き込めば、この寒いのに肌着一枚で、持ち物は首にかけられた簡素なネックレスだけ。包まれた毛布の上からでもわかるほど細くって、目元は青白く震え、今にも息を止めてしまうのではないかと思うくらいに弱々しく泣いており、もはやそのまま天に向かうものとばかりに思えた。
ただ、この国では見ない、鴉のような真っ黒な髪と瞳に目が離せなくて。
恐る恐る差し出した指を掴んだ小さな手の、不思議な温かさと儚げな力強さが、私の心の内にじんわりと沁み込んできた。
気が付けば、私はその子を抱え、教会の暖炉の前で精一杯の手当てをしていた。
眠っていたリブロー様を叩き起こして、お隣のブリューさんのところへ駆け込み……神職に就いてからこんなに走ったことはないというくらい、走った。
ようやく様子が落ち着いた頃には、私の方がくたびれてベッドに倒れてしまった。
けれど、私の腕の中で安らぐあの子を見ていたら……。
リブロー様は反対なされたけれど、心は決まっていた。
伝手をたどってお金を工面し、教会の使用していない敷地を改装して、そこにあの子と暮らすための家を建てた。
街のいろんな人に頭を下げて、許しを貰って。その頃にはリブロー様も折れてくださって、メーテル教系の正式な孤児院の開設を決めた。
それはきっと、神の御導き。
この子を守り慈しむことが、私の使命なのだと。
柔らかく甘い肌をそっと撫でると、ふにゃふにゃとした笑みを浮かべ、こちらを見上げてくる。
私も思わず頬が蕩けそうになる。
「ここが今日からあなたの家よ」
真新しい家の窓から外を見つめながら、わたしはあの子とともに春の訪れを迎えた。
――あれから、五度目の冬が来る。
「……どうしたものでしょうね……」
ハロルドから荷物とともに受け取った手紙を、もう一度広げる。
もう何度目かになる溜息が、窓ガラスを淡く曇らせる。
私はあの子たちを守っていけるだろうか。
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