第11話 脳筋が寝たきりの祖母を丸め込んで元気にする話
善は急げとばかりに駆けつけるは近隣の西新宿。
我が家の救世主であるまどかちゃんを連れ、お婆ちゃんの待つ武家屋敷に突入したわたしはしかし、庭掃除のため外に出ていたお母さんに見つかってすごい剣幕で怒られるのだった。
「まったくアンタって子は! 来るなら来るで構わないけど連絡ぐらいしたらどうなんだい!? こっちにだってお客さんを出迎える準備ってもんがあるし、寝起きに踏み込まれたらお婆様だって困っちまうだろ!!」
女性ながら身長178センチの長身に、体重は秘密ながら柔道着が内側から弾け飛びそうなほど隆々とした筋肉。
その腰に締める帯の色は紅白──実に柔道七段の女傑たる母親の一喝に、わたしは素直に「ごめんなさい」と頭をさげるより他になかった。
まぁ実際に悪いのはわたしだ。せめて一報ぐらい入れておけばお母さんも困らなかっただろうと反省の意思を示すと、わたしの誠意を認めたのかお母さんの顔が般若から大福になった。
「はぁ〜まったく、アンタときたらホンットに思慮が足りないんだから……ごめんなさいね? わざわざ来てくださったのに何のお持て成しもしないで」
そのままくるりと振り向いて揉み手をするお母さんに困惑したのか、まどかちゃんは「あ、いえ、どうかお構いなく」と言うのがやっとだったが……あの大福顔はわたしの友達がお婆ちゃんのお見舞いに来てくれたことが嬉しいんだろうな、きっと。
「ささっ、どうぞ母屋でお待ちになってくださいな。すぐにお茶とお菓子を用意しますからね」
そう言ってドスドスと母屋に駆け込んだお母さんの背中を見送ったまどちゃんときたら苦笑いの一言であった。
「さっすが梨花の母親……なんかすごい人だったな」
「うん。あんなんでも根っからの世話好きなんだよ」
何しろ我が家の愛犬が三匹まで増えたのも、わたしと沙耶が小学にあがって世話する時間が減って寂しかったというのが理由だし、わたしたちの足元に集まった野良猫たちも「家が荒れるから猫は嫌いだよ」と文句を言いつつも世話をしているんだから、お母さんの世話好きはわりと筋金入りだ。
「道理でこんなに野良猫が棲みつくわけだよ。いい母親じゃねぇか」
「まぁね。……それじゃあお母さんに何をグズグスしてるんだいって怒られる前にパパッと準備しよっか」
「オッケー」
こちらを見上げてゴロゴロと喉を鳴らす野良猫たちを撫で散らかしたまどかちゃんが手品の種を仕込む。
その後は縁側で靴を脱いで居間へと向かうが、当然のような顔をして着いてきた猫たちは縁側の下にある湿った雑巾に足の裏の肉球を擦り付け、念のためひと舐めしてから廊下に列を成した。
しっかり躾けられてるなと笑みをこぼしたまどかちゃんを純和風の居間に案内すると、ほどなく四人分のお茶とお菓子……そして猫のおやつを手にして現れたお母さんはまどかちゃんに大福顔で「いまお婆様を連れてきますからね」と配膳を済ませるや、再びドスドスと廊下の奥へと消えていった。
それから数分後……お母さんに支えられて姿を現したお婆ちゃんは元気そうではあったけれども、その小柄な痩身は一回りも二回りも小さく見えた。
普段着代わりに愛用している柔道気の腰に巻かれている赤帯もどこか物悲しい。
「待たせたね。今日はよく来てくれたね梨花。お友達の子も……っ、さっきから妙に調子がいいけど、やっぱり腰を使うと痛むね」
お母さんの手を借りて座るのもにも苦労するお婆ちゃんの姿を見ると心が痛む。
年齢的に1988年のバルセロナオリンピックから公開競技となった国際試合の出場経験はないけれども、子供の頃から柔道一筋に邁進して学生時代に無敗の女王と呼ばれ、後進に道を譲ってからも柔道の普及と発展に尽くしてきたお婆ちゃんにとって、柔道とはお婆ちゃんの人生そのものなのだ。
二月前に重度の椎間板ヘルニアと診断され、もう柔道ができないと絶望したお婆ちゃんが意気消沈するのも無理なからぬ話だ。
「ふぅ、すまないね……見ての通り腰をやってしまってね。挨拶ひとつまともにできなかったけど勘弁しておくれよ」
「ううん! それよりお婆ちゃん聞いて!?」
だが、それもこれまで──チラリと目配せしたまどかちゃんと渾身の一芝居を打つ。
「実はこっちのまどかちゃんがね、お父さんが腰を痛めたときにマッサージをしたらすぐ良くなったんだって」
「で、その話をしたら梨花にお婆ちゃんを助けてって頼まれたんで、ちょっと痛めたところを見せてもらえますか?」
脚本・わたし、主演・まどかちゃんという、いつもとは真逆の急増コンビ。
不安しかないと言われると返す言葉もないけど……だが通るはずだ。
子供の頃からわたしの嘘を容易く見破ってきたお母さんとお婆ちゃんの最強コンビは、何の資格も提示できない素人による施術という提案に眉を顰め、ジッとわたしの顔を見つめてきたけれども、こっちだって真剣だ。
説明はできない。だが勝算はある。だから負けるわけにはいかないと二人の
「優しい子なんだね。……いいよ。そういうことなら断れないね。そこに寝転がればいいのかい? 光江、手伝っておくれ」
「はい、お母さん」
お母さんの手を借りて畳の上にうつ伏せになるお婆ちゃんの姿を見て、わたしはミッションコンプリートと心の中で喝采を叫んだ。
そうなのである。実のところお婆ちゃんの腰を治療するだけならこんな小芝居は不要なのだ。
まどかちゃん本人の説明によると、一度目視した対象なら距離が離れていても回復魔法は届くとのこと。
ならばまどかちゃんに途中でトイレにでも行ってもらって、そこからこっそり魔法を使ってもらえば、どう見ても日本人とは思えない女の子を友人だと紹介する不自然さも、お婆ちゃんの前で魔法を使うリスクも回避して治療できる。
しかしその場合、なんかいきなり腰の痛みがなくなったという理不尽にお婆ちゃんは納得するだろうか? 正直なところあまり自信はない。
むしろ母屋や道場の神棚に毎日手を合わせるくらい信心深いお婆ちゃんだ。腰の痛みがなくなったのは自分を憐れむ神仏の思し召し。今後は自分の年齢に見合った生き方をしようと出家して柔道を引退するかもしれない。
それでは意味がない。お婆ちゃんにはぜひ元気を取り戻して、今後もビシバシと健太郎たちを鍛えてもらわなきゃ……!!
「お婆さん、ここが痛いんだよね」
「そうそう、不思議だね……あなたに腰を揉まれていると痛みが引いていくような気がするよ」
うんうん。それ勘違いじゃないよ。すでにまどかちゃんの回復魔法は使用済み。それもパーティ全体に効果がある、継続的な自然治癒の魔法をだ。
そしてお婆ちゃんのマッサージをしてるまどかちゃん自身も完全な素人ではない。
もとは故郷の神殿で似たような施術をしていたというまどかちゃんの手並は素人目にも熟練していて、患部の周辺を入念にマッサージされたお婆ちゃんは「ああ、そこそこ」って気持ちよさそうな声が止まらないのであった。
「ふぅ、ザッとこんなもんかな? 立てるかい、お婆さん」
「ああ、すっかり世話になってしまったね。今なら何とかなりそうだよ」
そうしてお婆ちゃんはまどかちゃんに手を引かれて立ち上がった。
さっきまでのように全身を支えられなくても、膝と腰を使ってほとんど自力で……。
「……お、お母さん」
感激屋のお母さんの声が震え、自分でも信じられないような面持ちで腰の辺りをさすっていたお婆ちゃんは、やがて腰の痛みがまったくないという事実を認めると、顔を
「まどかさんだったね? ありがとう……あなたは命の恩人だよ」
「ははっ、大袈裟だな。アタシは梨花に頼まれて、友達のお婆さんにマッサージをしただけだよ。……それより他に痛いところはあるかい?」
「んっ、そうさねぇ……」
お婆ちゃんはもっと丁寧にお礼を言いたかったのやもしれなかいが、苦笑するまどかちゃんが堅苦しいの嫌っていることを察したのだろう。
最後の軽口に応じたおばちゃんは体の調子を確かめるために柔軟体操を行い、立ったまま前屈姿勢になると不意に力が抜けたようにその場合でへたり込んだ。
「お、お母さん大丈夫ですか!?」
「たはは、こういうのを年寄りの冷や水っていうのかね? 光江の世話になりっぱなしの寝たきり生活ですっかり体が
そう言って今度は誰の手も借りずに立ち上がったお婆ちゃんは笑った。
たとえ体は衰えようとも生きる気力を取り戻したお婆ちゃんの姿は、諦観と絶望に支配されたさっきまでとは完全に別人だった。
「こうしちゃいられないね。さっそく道場で修行再開といきたいところだが、まどかさんたちも昼はまだだろう? 今日は豪勢に寿司を頼むからぜひ食べてっておくれよ」
「うわっ、いいんですか? ぜひ頂きます」
なんというか感無量だ。元気なおばちゃんが帰ってきてくれた。それだけでわたしの目頭は熱くなったが、お婆ちゃんの快癒を喜ぶのはわたしだけではない。
「まどかちゃんありがとう!!」
「ははっ、どういたしまして」
心優しい友人と抱き合ってお礼を口にしたわたしは、お婆ちゃんの身を案じる健太郎や妹に嬉々としてメールを飛ばすのだった。
さあっ、これから忙しくなるぞ……!!
「うおっ!?」
「わぁ……お婆ちゃんってばあんなにはしゃいじゃって、なんか恥ずかしいな」
「うん。本人は本調子じゃないって言ってるけど、全然衰えてないよね」
元のハッスル婆さんに戻った祖母に妹は複雑そうだったが、やっぱり嬉しいんだろうな。どんなに憎まれ口を叩いても目が笑ってるよ……あっ、また健太郎が宙返りさせられた。
「健太郎は相手の手足ばかり追う癖が直って全体が見えるようになったね。いいよ、そのまま精進するんだよ」
「はい、はいっ……
嬉しいのは子供の頃からの恩師に褒められたことか。それともお婆ちゃんの回復か。おそらくどっちも嬉しいんだろうなと、感激のあまり泣いてばかりの健太郎が道場の隅に戻ってくるといま一人の人物が立ち上がった。
「ご高名はかねがね……今度はワタクシがよろしいでしょうか?」
「ああ、こちらこそ光栄さね。梨花のような例外はさておき、その若さで五輪の勲章を手にするとは大したもんだよ」
金髪の縦巻きロールはそのままに、東京オリンピック女子超軽量級銀メダリストのアンジェリーナ・オリオールが国内最高段位……過去に15人しか手にすることが許されなかった
「って、マスコミが知ったら黙っていないようなすごい対決だよな。梨花はどっちが勝つと思う?」
「うーん、難しいな……」
上座のまどかちゃんのご下問に答えたいところだけど、これがなかなか難しい。
体格にさしたる優劣はないが、運動量は断然アンジェか。
お婆ちゃんの隙を探るために一定の距離を保って詰めさせないアンジェの運動量は、高齢な上に病みあがりのお婆ちゃんでは追いきれないだろう。
動き回るアンジェの体幹に乱れはなく、あくまで自然体のお婆ちゃんも涼しい顔をしているけど……。
「結局どこかで組まなきゃいけないわけだから、そのときアンジェがアレを理解してるかどうかによるけど、わたしは難しいと思うな……って、ほらやっぱり」
緩やかな円運動から急激な縦の変化──アンジェの左手がお婆ちゃんの右袖を捉えた瞬間にそれは起こった。
「きゃっ!?」
掴んだ側がその勢いのままに投げ飛ばされる理不尽。あれこそお婆ちゃん必殺の絶技。
「いっ、今のは……」
咄嗟に受け身を取って離れたので一本にはならなかったが、実際にアレを体験したアンジェは面食らったようだ。
だが、そんなアンジェをまじまじと見つめるお婆ちゃんのほうにこそ驚愕があった。あの合気合心の空気投げで一本を取られなかったのは、わたし以外にはアンジェが初めてだったからだ。
「筋がいいね。今のに初見で対応したのはあんたで二人目だよ」
「どうも……」
褒められても冷や汗が止まらないアンジェに、構えを解いたお婆ちゃんはそっと右手だけ伸ばした。
「ちょっとゲームをしようか。こっちに来てあたしと手を合わせたらまっすぐ立ってくれるかい?」
「は、はい……こうですか?」
そして合わせ鏡のように直立して右手を合わせるアンジェにお婆ちゃんが説明する。
「ルールは簡単だ。この場から動いてはいけない。腰から下を使うのもダメ。あくまで上半身の力で右手を押し合い崩れたほうが負けだよ」
「え、ええ。分かりましたわ……えっ? ちょ、いやぁん!?」
そして開始早々にお婆ちゃんを押し込もうとしたアンジェは魔法のように押し返され、その場にぺたりと腰を落とした。
何度も瞬きするアンジェを嬉しそうに見やったお婆ちゃんは、滅多にしない種明かしを行った。
「あんたはドアを開けようとしてドアノブに手を伸ばしたら、向こうにいた人に開けられて慌てて踏みとどまった経験はあるかい? 原理はそれと一緒さ。……押されるのに合わせて引き、崩れかけた上半身を引き戻そうとするのに合わせて押し込む。それが合気合心。身体だけではなく心も合わせ、力の流れを完全に読み切って逆に利用する。それが柔の真髄だよ」
「ああっ、なんてことなの……こんな貴重な教えをワタクシのような未熟者に授けていただけるなんて……」
「あたしが好きでやってることだから気にすることはないよ。あんたは筋がいいからね。今は無理でも時間をかけて会得するといいさ。……どれ、おいで梨花。久しぶりに合気勝負と行こうじゃないか」
「はいはい」
呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーンとお婆ちゃんのところに向かったら、途中で恋する乙女のようなアンジェとすれ違った。大丈夫かなあの子……。
まぁいい。もうすぐ警視庁の道場に向かったお母さんが大量の門下生を連れてきてしまう。それまでにお婆ちゃんとの勝負を堪能しますか、と道場の中央で礼をして構える。
道場の隅では健太郎とアンジェがなかなかに興味深い話をしているが、今はこっちに集中だ。
「あのな、師範の言う合気の理論をあまり真に受けないほうがいいぞ?」
「あら、健太郎は師の教えを疑うのかしら……とんだ不届きものですわね」
「違うよ。ただアレは目を瞑っていても同じことができる師範だからこそ言えることだ。アンジェも反応時間は知ってるだろ?」
「あっ……」
「相手の動きを見てからじゃ刹那の力の流れは追いきれないんだよ。だから同じ道を行くと苦労するぞって忠告したんだ」
「で、でも梨花さんは師範と組み合えていますわよ!?」
「そりゃお姉ちゃんは何も考えてないからね……」
「脳筋の思わぬ利点だな。脳の代わりに筋肉がその場で最適の答えを出してるんだろうな……」
やはりお婆ちゃんとの勝負は楽しい……この無敵の肉体が生み出すインチキじみたパワーなど、ことお婆ちゃんとの勝負に限ってはわたしに利することはないのだ。
むしろ安易に力勝負に持ち込めばアッサリと奪われて叩き込まれる。
純粋に技量と経験、そして読み合いの勝負はますます白熱して、歓喜のあまりわたしの全身の力を消し去った。
「
「わたしもだよお婆ちゃん……お婆ちゃんが元気になってくれて本当に良かった。まどかちゃん、本当にありがとう……」
なお勝負は千日手となり引き分けとなったが、大量の門下生に囲まれて祝福されたわたしたちはどちらも晴々と笑うのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます