第4話 家出
翌朝、トラムに乗り込んだモミカの通学カバンには、着替えとピピカとが入ったままだった。
「ずいぶんと大荷物ね」
昨夜の出来事が嘘だったかのように、アイカの表情は穏やかだった。
「体育があるのよ、お母さん」
「あ、そう」
「いってきます」
「いってらっしゃい」
いつも通りの挨拶をして、モミカは停留所でトラムを待った。停留所には、同じ学校に通う生徒たちが集まっている。朝のおしゃべりを楽しんでいた生徒たちは、モミカの顔を見るなり、黙り込んだ。
そういえば、先輩のこと殴ったんだった。昨夜の情報の洪水に押し流されて、すっかり忘れていた。やがてヒソヒソ話が始まる。
「あのガイドリアン・セスを怒らせたんだって」
「殴り飛ばして平然としてたよな」
「あの子って授業中もああなの?」
「ああって?」
「ニコニコした顔で難癖つけたりするのかってこと」
「そんなことはないけどこの前授業中にさあ……」
聞こえてますよ、と咳払いをしてみたが、ヒソヒソ話は一旦は止んで、また始まっての繰り返しだった。モミカは無視を決め込むことにした。
「ちょっと変な子だよね」
「同じクラスになったことある子が言ってたんだけど、昔から喧嘩が強かったってよ」
「え〜スポーツクラブで見たことないよ」
「クラブじゃないところで護身術かなんか習ってるって」
「なんか危ない子?」
「危ないっていうかぁ、頭良すぎておかしな人ってやつ?」
「あ〜。頭の性能を盛りすぎると、天才だけど変人みたいのが出来上がるっていうよね」
「そんなに成績いいの?」
「ずっと満点だって。生活態度以外」
「あ〜。……なるほど」
周りを見渡しても、似たような顔に、似たような成績、似たような家庭、しかも似たような年齢の子どもばかりの学校生活に、降ってわいた事件。渦中の人物であるモミカは、言われたい放題だった。
自分を中心に広がるヒソヒソ話を、モミカは俯いてやり過ごした。知らず知らずのうちにカバンの取っ手を握りしめる。やがてトラムが到着し、生徒たちは決められた席につく。モミカがいざこざを起こした先輩は、次の停留所で乗ってくる。
デザインなんてバカみたいだ。こんな子どもたちの何が優秀なの。おんなじような顔して、おんなじようなこと思ってることを確かめあって、知識と協調性を学んだら、社会に出て行って、またおんなじことを繰り返す。モミカの背筋が寒くなったのは、気温のせいだけではなかった。
ずっと、こうやって生きていくのだろうか。教えられたことを完璧にこなし、似たような人間たちと、みんなの役に立つとされることを仕事にして、決まった時間にトラムに乗り、決まった時間に帰り、その繰り返しが終わったら、病院で死んでいく。ゾッとした。
祖母は子宮母をしていたらしい。デザインを何人産んで、自分の娘をデザインにするだけの費用を得たのだろう。それで幸せだったのだろうか。一度は捨てた娘に、連絡をとっているのは何故だろうか。ネイチャーとして、この町のどこかに生きているという祖母。
トラムが止まった。ドアが開き、また紺色の制服の一団が乗ってくる。
最後の生徒が乗車して、扉が閉まる前に、やにわに立ち上がり、通学カバンを持ってトラムから降りた。決められた時間に、決められたことしかしないトラムは、モミカを置いて、レールの上を走っていく。トラムの中ではまた騒ぎになっているかもしれない。中の乗客が緊急停止ボタンを押せば、トラムを止めることができる。追手を警戒し、モミカは早急に停留所を立ち去った。
追手がかかることはなかった。
※※※
「いやんなっちゃう」
「なっちゃう」
「どうしてこんなに人がいるの」
「人がいるの」
通学トラムから逃げ出して三時間後、モミカは汚らしいベンチに座り込んで、ピピカと話していた。
モミカの住む街、第十三都市には、ネイチャーの集まる地区が三つある。ネオバベル、ボル・マーカット、ギョンゲ・チョルイの三つだ。第十三都市というシンプルな都市名に対し、仰々しい地区の名前なのは、住民が勝手につけた名前を受け入れざるを得なかったからだ。遺伝子編集技術が行き渡る前の、紛争と経済格差による民族移動を反映するかのような統一性のないぐちゃぐちゃな名前。
モミカがベンチに座り込んでいるのは、ネオバベルの一角である。これほど多くの人間を一度に見たのは、モミカは生まれて初めてだった。
街ゆく人々にモミカが見慣れた青い肌は一人もいない。褐色、うすだいだい、薄いピンク。とりどりの肌の色をしている。デザインの街と違い、狭くて古ぼけた建物がたくさん建っていて、たった一本の通り沿いに、モミカの学校の全校生徒より多い人々が暮らしている。区画の入り口には警察官の詰め所があり、この地区出身者から選ばれたネイチャーの警察官が睨みをきかせているが、ちゃんと見ているんだかいないんだか、学校の制服を着たモミカが目の前を通っても、ちらりとも見ずにカードゲームに興じていた。
外壁は落書きで埋め尽くされており、ゴミは放置されカラスが群がっている。住民は平日の昼間だというのに、道路にたむろして怪しげなものを売ったり、落書きの上に落書きを重ねたりしている。
ずいと目の前に紙を差し出され、モミカは反射的にピピカを抱きしめた。紙を差し出してきたのは小さな子どもで、紙には汚い字で『お金をください。レアモタルでもかまいません』と書いてある。
「現金は少ししか持ってないの」
「ないの」
モミカの言葉が聞こえているのか、いないのか、子どもはいつまでもそこに突っ立っている。
困ったな。モミカはカバンの中に何が入っていたか、記憶を探った。
そういえば、モミカは学校から支給されている通信機を持ったままだったことを思い出した。追跡機能がついているので、どこにいるのかすぐにわかってしまう。学校や両親と連絡がつかなくなることが恐ろしくないといえば嘘になるが、すぐに見つかったのでは家出をした意味がない。モミカは震える指先で、通信機を子どもに渡した。
「これ、どうぞ」
子どもは何も言わず、モミカの手から通信機をむしり取って走り去っていった。
「やんなっちゃう」
「なっちゃう」
停留所からここまで歩きづめで疲れていたが、ここで座り込むのは得策ではなさそうだ。モミカはピピカのスイッチを切り、祖母の手がかりを探すことにした。
真っ先にネオバベルを目指したのは理由がある。三つのスラムにはそれぞれ特徴があるが、ネオバベルが最も多様な人種が住んでいるからだ。手がかりはモミカ、アイカ親子に共通する赤い髪。アイカが昔、言っていたのだ。
「みんなと同じ髪の色じゃないけど、モミカの髪はお母さんから受け継いだものなのよ。気に入ってくれたら嬉しいな」
ではアイカの髪の色はどこから来たのか。そう考えた時に、思い当たったのが祖母だった。ネイチャーには珍しいが赤毛の人間がいる。自分の遺伝的アイデンティティーを赤い髪に残したのではないか、とモミカは推測したのだ。
アイカは自分の母親を嫌っている。自分の娘に祖母から受け継いだ特徴を遺伝させるのはおかしいかもしれないが、モミカは昨夜アイカが施設育ちと教えられていたことが気になっていた。アイカが育った施設を訪ねたこともあるから、それは事実だ。
「自分で捨てたくせに、つい昨日も連絡をよこした、面の皮の厚い女みたいな母親にはならない!」
とアイカは言った。アイカが母親に捨てられたと認識したのはいつだろう? 施設は乳幼児から十八歳になるまで養育する施設だ。記憶のない頃に別れ、連絡が来るまでは母親の顔を知らず、モミカを
また、モミカが祖母を赤い髪だと思う理由はもう一つある。赤い髪に対するアイカの発言からわかる通り、アイカは自分の髪の色をたいそう気に入っているようだ。だって素敵だもの、とモミカは思う。素敵なものは自分の子どもにも持たせたいと思うのではないだろうか。ネイチャーの祖母が大金を稼いで、わざわざ産んだデザインがアイカなのだから、良いと思われる身体的特徴は引き継ぐはずだ。
そんなことを考えていると、なんと目の前に赤い髪の人間がいるではないか。モミカは自分の強運に驚いた。
赤い髪をボサボサにしているその人物は、見すぼらしいコートを羽織り、地べたに座り込んでいた。残念ながら中年の男性だったので祖母ではないが、祖母の縁者かもしれない。もしかしたら親戚、叔父か、それとも従兄弟かもしれない。
「こんにちは」
モミカは赤毛のネイチャーに話しかけた。
「おじさま、綺麗な髪ね」
「うん?」
話しかけられたネイチャーは、モミカを舐め回すように観察した。あまり愉快な気持ちではなかったが、こんなところで突然デザインに話しかけられたのだから無理もない、とモミカは我慢することにした。
「……あんまり言われたこたねぇが。嬢ちゃんとお揃いだな、珍しい」
「でしょ! そうなの! そうなんです。あた、私、こういう髪の色の女の人を探していて。たぶん七十代かそこらのおばあちゃんなんですけど」
赤毛のネイチャーは、モゴモゴと何か言っていたが、急に大声を出した。
「そうか! わかったぞ。そりゃ、うちの母ちゃんだ。今は老化で白くなってるが、昔は俺みたいな赤毛だった。デザインの知り合いがいるって話してたことがある!」
「そ、そうなんですか? あの、あなたのお母様に会うことって……」
「もちろんだ! ついてきてくれ!」
「あ、はい」
「ほら早く」
男は親しげにモミカの肩を掴み、大股で歩き出した。男の変わりようには驚いたが、もしかしたら男の方でもモミカが姪だと気がついたのかもしれない、とモミカは解釈し、ついていった。
路地裏に入り、男はモミカの肩を掴んだまま、アパートらしき建物に入っていく。その汚さにモミカは驚いたが、なるべく表情には出さないようにした。叔父の住居にそんな反応をしたら失礼だと思ったからだ。
男がアパートの一室のドアを開けると、中には男と同じような見すぼらしい格好をしたネイチャーの男が三人いた。
「おかえりボス。なんだい、そのガキは」
「ああコイツは……」
流石のモミカもこの男を疑うようになった。このネイチャーたちは明らかに祖母とは関係がない。
「あの、おじさん。おばあちゃんはどこに?」
「おばあちゃん? ああ、もうすぐくるよ。俺が連絡したらな」
「肩を離してくれませんか?」
「ん? ちょっとぐらいいいじゃないか」
男の浮かべた笑みが不快だったので、モミカは肩を掴んでいた男の手を捻って外した。男は悲鳴をあげた。
「何すんだ、クソガキ!」
再び捕まえようとしてくる男を飛び蹴りし、一斉に飛びかかってきた他のネイチャーたちにぶつける。玉突き事故の反対といった様子で転がる四人の男を見下ろして、モミカはたずねた。
「殴ってごめんなさい。おばあちゃんはどこ?」
「俺にゃ母ちゃんも赤毛の知り合いもいねーよバーカ」
「あっそう」
「あと殴ってはいないだろうが」
「そうですね。蹴ってごめんなさい」
ならばこの男たちに用はない。モミカは悠々とアパートの外まで出た、のだが。
「さっきはやってくれたな、両手をあげてこっちに来い!」
話しかけられて振り向けば、さっきの赤毛が黒い物体をこちらに向けている。追いかけてくるのが遅れたのは、この物体を取り出していたからだろう。それは、モミカが生まれて初めて見る銃だった。銃のことはよく知らないが、流石のモミカも弾丸を全て避けることは不可能に思える。
男のもとに行くしかないのか、そうモミカが歩き出そうとしたその時、
「事情は知らないが、感心しないなぁ」
そう、涼やかな声が聞こえた。
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