第3話 祖母

 真夜中、掛け布団が寝台の下に落ち、寒かったので、モミカは目を覚ました。


 モミカはのそのそと布団を被り直したが、体が冷えたせいか尿意を覚えた。いつもは気にせず朝まで寝ることができるのだが、この時は妙に目が冴えてしまって、なかなか寝付けない。


 お父さんも、お母さんも、あたしに寝付きのいい遺伝子を組み込んではくれなかったようね。モミカは心の中で文句を言ったが、慢性的に寝付きが悪いのではなく、一時的な外的・心理的要因による寝付きの悪さは、遺伝子でどうにかなるものではない。


 モミカは仕方なく室内ばきを履いて、トイレに行くことにした。モミカは幽霊などの心霊現象を信じていなかったが、暗くて寒い中を一人歩くのは、心細かった。


 お父さんも、お母さんも、暗闇を怖がらない遺伝子とか発見してくれたらいいのに。またモミカは心の中で文句を言った。ちなみに、暗闇を怖がらない遺伝子なるものは発見されていないが、本能的な恐怖を高い確率で理性が上回るように設計デザインすることは可能で、モミカもそういった設計を施されている。年上で体格的に有利な先輩の拳に怯えなかったのは、そういう要因もあるのだが、モミカ自身に自覚はない。モミカにとっては、先輩の拳に対する本能的な恐怖よりも、暗闇に対する恐怖が勝るということだ。


 あるいは理性による推論で、無意識のうちに予知して、怯えていたのかもしれない。これから聴く事実のことを。


「モミカ」


 両親の寝室の前を通った時、自分の名前が聞こえたら、大半の子どもは興味を持つだろう。そしてモミカは聴力に優れていた。その聴力は盗み聞きのためのものではなかったのだが。


「モミカをどうにかしなきゃ」


 うわずった声は、たしかに母親のものだった。


「やめないか、これから寝るって時に……」


 眠そうな声は父親のものだ。


「何よ、これから寝るって。寝る前になるまで、私の話を聞いてくれなかったからじゃない」

「夕食と風呂の時に重苦しい話はしないと決めたのは君だろ、アイカ?」

「それはそうだけど……」


 今のところ母親が劣勢である。お母さん大変ね、とモミカは気楽にきいていた。どうせ先輩を殴ったことだろうし、それで父親が怒るとも思っていなかったから、これはアイカの、愚痴を聞いてもらいたいという気持ちの問題で、モミカには痛くも痒くもない話、のはずだったからだ。


「あの子、おかしいのよ。先輩を殴るなんて。完璧に設計デザインしたはずなのに」

「遺伝子はあくまで遺伝子さ。医者もそう言ってたじゃないか。一卵性双生児だって同じ人間にはならないんだ。どんな素晴らしい配列にしたところで、遺伝子は塩基配列に過ぎないよ」


 ヒトゲノムの解析が進んでわかったことは、ヒトの間にある違いなど、ほんのわずかな違いでしかないということだ。モミカの父親は、極めて当然のことを言っている。


 青い肌、ふさふさとした黒い髪、褐色の瞳で、キツネのような細面。モミカの父親は、良識的で常識的な、デザインらしいデザインだった。


「でもあの医者は続けて、『科学の力で大半のリスクは防げる』って言ってたじゃない」

「それは遺伝病の話だろ? モミカは至って健康じゃないか」

「ええ、そうね!」


 いつも通り冷静な父親と違い、母親、アイカの方は感情が昂っているようだった。母親の、娘には見せない一面を、モミカは興味深く観察した。論理的な話の組み立てという面では、父親が圧倒的に優勢だが、普段あまり感情的にならない母親が感情を露わにしているので、これは事情があるのかもしれない。


「私とあなたと、モミカでは何が違うの? 私は何か間違ったのかしら? 喧嘩もそうだし、少し前から揉め事ばっかり! あの子の担当教員は、頭はいいけど協調性がないって言ったわ。そりゃあ頭はいいでしょうよ。小さい頃から勉強をさせたし、護身術も教えた。あの子は他のデザインと比べても飲み込みが早かったもの。記憶力がいいのね、きっと」

「結構なことじゃないか」

「でも協調性がないっていうのよ! 頭が良くて、身体能力も高くて、優秀なのはけっこうだわ。モミカはその面では苦労しないでしょうよ。でも人とうまくやれないで、どうやって生きていくのよ。どこかに原因があるはず。あなたはもっと真面目に考えて! 私たちの娘なのよ!」


 母親の世にも珍しい感情的な一面の原因が、自分である。モミカは意外であると同時に、暗い喜びを覚えた。お母さんはあたしのことなんかどうでもいいんじゃないかと思ってたけど、本当は違うのかもしれない。もしかしたら、お母さんは……。モミカはますます真剣に聞き耳を立てた。


「他のデザインと何が違うのかしら。夫婦交代でモミカに接する時間は確保したし、勉強づけにならないように屋外体験にも連れ出した。休日は遠出もしたし、他の子どもたちとも遊ばせた。何が違うというの」

「……モミカが他の子と違う点は、分かりきっていることじゃないか」

「私が子宮母ユーテレス・マザーを使わなかったのが悪いっていうの!」


 その話はしないで欲しかったな、とモミカは眉を寄せた。子宮母ユーテレス・マザーとは代理母のことである。体外受精を行い、そのまま遺伝子編集を行うデザインは、受精卵を遺伝的な母親ではなく、別の女性に移植し、代理出産をしてもらうことがある。人類は未だに人工子宮を発明できておらず、ブタの遺伝子を組み替えて、ブタの胎内にヒトの子宮を作る試みも失敗したので、優秀なデザイン女性の体力を出産というリスクの高い行為で奪うことなく、生殖を行うために代理母という手段が取られるのである。もちろん全てのデザインが子宮母によって生まれるわけではなく、デザインの女性自らが出産する場合もあり、モミカは遺伝的な母親であるアイカの胎内から生まれている。


 代理出産という言葉は残っているにも関わらず、代理母という言葉が『子宮母』に置き換わったのは、代理母は母の代理をするのではなく、あくまで妊娠・出産の代理をしているといった認識が広く浸透したからである。他の呼び名もあったがだんだんと使われなくなり、結局は妊娠・出産という行為に由来した名前にならなかったのは不可解だが、妊娠の前に性行為があった時代の名残りで、セクシャルな印象が強い言葉を避けたのではないか、という学説が有力である。


 授業参観で子宮母について学んだ後、自身には子宮母がいないことを告げられたその日を、モミカは覚えている。モミカが眉を寄せたのは、衝撃の事実による驚愕ではなく、親が不用意な、しかも出生にまつわる事柄を口にしたことへの、うっすらとした嫌悪だった。


 遺伝的に優秀といった言い回しをはじめ、前時代では差別的といわれた価値観が許容される時代ではあるが、子宮母がいるかいないか、もっと露骨に表せば、産んだ人間がどんな人間かを話題にあげるのは、なかなかに失礼なこととされている。ほとんどがネイチャーで、他の職種では考えられないほどの大金を稼ぐ子宮母の存在は、社会を支えている反面、触れづらい話題なのである。


「大事な娘をネイチャーに任せるわけにはいかないでしょう!」


 大事な娘と言われても、モミカの心は晴れなかった。むしろ、ああこれか、とうんざりした。


 アイカはいつだって完璧なデザインで、今のように感情を露わにすることは珍しいが、これまでもうっすらと、ネイチャーへの嫌悪感を滲ませることがあった。


『私たちが優秀であることを再確認するために、ネイチャーを見下す必要性は特にないと思います』


 モミカが先輩に言った言葉は、そのままアイカに言いたかった言葉でもある。結局、アイカが取り乱したのは、娘のためではなく、これまでにもあったネイチャーへの嫌悪感のせいなのだ。そう結論づけ、モミカは盗み聞きをやめることにした。そろそろ尿意が限界だ。


 だがそんな時に限って、予期せぬ出来事はおきるものだ。


「まして子宮母なんて、私を捨てた女と一緒じゃない! ええそうよ、私は子宮母で稼いだネイチャーが大金をつぎ込んで産んで、何が気に入らなかったのか捨てられた娘よ。モミカにはこんな思いさせない。私は、自分で捨てたくせに、つい昨日も連絡をよこした、面の皮の厚い女みたいな母親にはならない!」

「わ、悪かったよアイカ」


 モミカは自分の耳を疑った。アイカは両親を事故でなくして、施設で育ったと聞かされていた。だから父方の祖父母には会ったことがあるが、母方はいないと思っていた。まさか祖母が生きていたなんて。


「でもいつまでも連絡をとらないのはどうなんだい? この町に住んでいるんだろう?」

「なんてこと言うの‼︎」

「シッ! さすがに声が大きい。モミカが起きるよ」


 父親が扉の方向を伺う素振りをしたので、モミカは慌てて、でも足音を忍ばせてその場から立ち去った。


 用を足して、自分の部屋に戻っても、モミカの頭の中には、先程の出来事が、鮮明にこびりついていた。


 おばあちゃんが生きている。ネイチャーで、この町に住んでいる。


 ネイチャーはスラム街に固まって住んでいる。この町に住んでいるのなら、居場所の検討はついた。まだ見ぬ祖母、血の繋がったネイチャーが、近くにいる。つい昨日、アイカに連絡をよこせるほど近くに。


 ピピカを抱き寄せたが、スイッチを入れる気にはならなかった。かと言って眠れるわけもなく、ふと思いたって、モミカは通学カバンに着替えを詰めた。指定のカバンは想像よりもずっと大きかった。抱いていたピピカを入れても、蓋がしまる。ちょっとした旅行なら、すぐにでも行けそうだ。


 着替えなんて持って、どうしようって言うんだろう。答えが確定してしまうのが怖くて、考えこむのはやめ、布団に入りなおすことにした。


 羊が一匹、羊が二匹、大丈夫、おばあちゃんがいたって、あたしの日常は変わらない。羊が三匹、羊が四匹、あたしは朝いつも通り学校に行く。羊が五匹、羊が六匹……。古典的な方法で興奮を鎮めながらも、モミカは用意した着替えを、通学カバンから出せずにいた。

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