1話 匂い

 退院して翌日、健介は半年前と同じように、母の運転する車に乗せてもらって通学した。体の弱さは変わっていないはずだからだ。


「お帰りー!」


 何人かのクラスメイトの盛大な祝いと共に、健介は教室に入る。


「健介久しぶりー」


 そう言って奥の席の方で手を振るのは健介の1番の親友、冬馬とうまである。小学校から高校まで2人で同じ学校に通い続けている。


 冬馬はかなりのハンサムで背も高い。女子からの人気も高いが、彼女を持ったことはない。


 健介は教室の中を歩いて自分の席に向かう。右前には冬馬がいる。


「やっほー」


 冬馬は相変わらず涼しげな表情をして、健介に手を振る。


「入院生活、どうだった?」

「どうだろうね……想像してたよりは楽しかったよ」

「どう? 美人な看護師さんいた?」


 冬馬はニヤけながら尋ねる。健介はすぐに海美のことを思い出して顔を赤くする。


「……いた」

「でも残念。その人多分彼氏いるから」

「だよな〜」


 懐かしさを覚えるような会話をして、健介は不意に笑ってしまう。


 午前授業が終わり、昼食の時間がやってくる。当然のように冬馬は机を後ろに向けて健介と面と向かって食事をする。


 健介のお弁当箱は、本人の食欲やら普段の運動量も考慮してとても小さい。


「冬馬、それなに?」


 健介は冬馬が食べようとしているものを指差す。


「これ? これは昨日食べたベトナム料理の豚肉だよ」


 それを聞いた健介の胸はざわついた。なにか、本能的に肉を渇望しているかのような感覚に陥ったのだ。健介の息は荒くなり、ひたすらに冬馬の持つ豚肉を見つめていた。


「どうした? 息荒いよ?」


 その言葉で健介はハッとする。


「体調悪くなった?」


 冬馬は心配そうに尋ねる。


「いや、そんなことないよ」


 そこで健介はあることに気づく。退院してから一度も過呼吸になったり、肺や胸が痛くなったりしていないことに。


—異変を感じたら、独りで来てくれ

 

 健介は柳生の言葉を思い出す。だが、今体調がいいのはまぐれだ、と結論づけて健介は柳生の言葉をむりやり忘れる。


 冬馬と健介はご飯を食べ終え、雑談だけで昼休みを過ごす。それから午後の平凡な授業が始まり、何事もなくその日の学校生活は終わった。入院していた時からリモートで授業をしていたので内容についていけないことはなかった。


 その日の帰りも母の車のお迎えが来る。歩いて帰れないからだ。


「楽しかった?」


「うん。久しぶりに冬馬に会えたし」


 健介の母は嬉しそうに微笑んだ。それから健介はスマホゲームを始めるが、ふとした時、頭に浮かんだ疑問を口に出した。


「お母さんは……柳生先生から何か聞いてない?」


「ん? あなたの手術のこと?」


 健介は弱々しい声で「うん」と答える。


「破裂した内臓とかを修復したりとか、どんなことやるのかは聞いたわ」


 母は知らなそうだ。そう思って健介は「そうなんだ……」と答えて話を止める。


 家に帰ると健介はそのまま父親の部屋に直行する。父親の部屋にはエアロバイクがあり、休日になると父親が動画を見ながらやっていたりする。


 中学生の頃、健介はエアロバイクを漕いでみたところ3分も待たずに体力が尽きてしまった。


 そんな過去を振り返りながら健介はエアロバイクにまたがる。


「えっと……確かこれが」


 健介は電源ボタンを押す。するとエアロバイクの画面に「現在0km」と表示される。


 ペダルの負荷を1から10の内の5に設定して健介は漕ぎ出す。


 1分、10分、1時間と時が過ぎても、健介は疲れなかった。また、運動すればするほど、耳に入ってくる音が増えている気もした。それは本当にまぐれかもしれないが。


 エアロバイクを止めて、健介は嬉しさと恐怖の狭間にいた。


 50mすらまともに走れなかった自分が、今自転車を1時間も漕いだ。どんなに目を擦っても、どんなに頬をつねっても、画面に表示されている数字が変わることはない。


 半混乱で健介は父親の部屋を後にして自分の部屋に行く。暑くて、部屋の窓を開けると、健介はあらゆるを嗅ぎ取る。


 正面の家はカレー。右前は中華のような匂い。左前は肉を焼いている。


 他にも異常はあった。夜のはずなのに、正面の家の庭にある木をじっくり見ると、虫が止まっていたりと暗視ができるのだ。


 とうとう健介は怖くなって柳生の言葉をはっきりと、何度も頭の中で繰り返す。


—異変を感じたら、独りで来てくれ


 さらに健介は激しい空腹感に襲われる。窓から見える、通りかかる人を見るたびに、美味しそうだと思ってしまうのだ。


 まるで自分ではない誰かに支配されたかのような感覚になり、健介は涙目になりながら急いで一階に降りる。


「か、母さん。ご飯まだ?」


 健介は母の顔をなるべく見ないようにして話した。


「うん。できたわよ」


 そう言って母が出したのはハンバーグだった。健介は喜びと悲しみの間のような表情で、ハンバーグが乗った皿を受け取り、急いで食べる。


「どうしたの……?」


 いつもはゆっくりと、辛そうに食べているはずの健介が、まるで獣のようにハンバーグを食べている。そんな光景を、母親は不思議そうに見つめていた。


「ううん。本当にお腹が空いただけだよ」


 健介は一個、二個、三個とハンバーグを平らげていく。


「そ、そんな無理しないでいいのよ?」、と母親は心配そうにする。


 健介はごくり、と口の中にあるご飯を飲み込んで、ハッとする。


「あ……あの、大丈夫だから。本当に……じゃあ」


 感じたこともない飢餓状態が終わり、健介は逃げるように自分の部屋に戻る。


 冷や汗を全身に流しながら、健介は息を荒くする。これは持病の発生ではなく、ただの混乱だということに、健介はなぜか怖くなった。


 生まれて初めてだった。あんなにご飯を食べたのは。運動だってそうだ。歩くことすらままならないような体力なのに、エアロバイクを一時間も漕いだ。それだけではない。人間の能力を超えたような視力、おまけに嗅覚。


 どう足掻いてもこれらはである。


 何をされた? 自分は手術の時に何をされたのだろう? 


 健介の頭には果てしない疑問が広がる。


 明日柳生に聞こう。そう思った健介は、様々な匂いの中で、いつもと同じように過ごした。




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