9 隠れ家にて①
* * *
シリーンは、はじめのうちは息を潜めるようにして過ごしていた。普段お祈りしていた時間になると、無意識に手を組みかけてはハッとして離す、という仕草を度々していた。お祈りをすると魔力を発するかもしれないからと止められていたので、そこは少し不自由そうだった。
「癖よね。つい手が動いちゃう。…ふふ」
ぼくが見ているのに気づくと、ちょっとばつが悪そうに笑った。
「…わたし、不安な時や苦しい時は、いつも祈りを捧げていたものだから…」
彼女はソファに座り直すとぼくが淹れたお茶に口をつけ、そして訥々と話し始めた。
「教会に引き取られる前…妹と二人きりになった時、明日がどうなるかわからなくて祈った。別々の教会に引き取られた時――今思えば、あれは競りだったのね――また会えるよう祈った。教会で、お
「お父さんは、厳しい人だった?」
「立ち居振る舞いや、物言いの隅々まで目を光らせていて、落ち度があれば延々と叱られたわ。ずっと立って聞いていると、説教の言葉で頭がいっぱいになってしまって、何も考えられなくなるの。それで返事がちゃんとできなくて、また叱られる。いつもびくびくしてた」
「…それは怖かったね」
「辛い時はとにかく祈った。何も考えられないし、祈っている間は無心になれる――何も考えなくていいから。だからいつも、辛いことや辛い気持ちがどこかへ行くまで祈ってやり過ごすようにしてたの」
それで合点がいった。
シリーンがパニックになりやすいのは、お父さんにいつも叱られていたからなんだね。
「聖女には、どうしてもならなきゃいけなかった。国や人々のためになるのは勿論素晴らしいことだけど、それよりも居場所を失いたくなくて必死だった。教会には同じように引き取られた娘が何人もいて、みんなも同じように考えていた」
「ニルファもそうなんだね」
「ええ。わたしたち、お
「今も?」
シリーンはかぶりを振った。
「わたしが契約した精霊は、とても誇り高くて。教会の有り様を見て呆れ怒ったわ。そして、わたし自身にも誇りを持てと
「それが、あの蝶の高位精霊だね」
「ええ。ウィルワリンと名乗ったわ」
「自分で名前を持ってるんだ。すごいな」
「天上の
「ふうん。そっか! それでシリーンはガレンドールに来たんだね。幸せになれる居場所として」
思わず感心すると、彼女は苦笑いした。
「つ、連れてきたのはウィルワリンよ。まだこの国に馴染むのに精一杯だから、幸せかどうかはわからない。でも前よりもはるかに息がしやすい気がするわ」
カップが空になったので、ぼくは一式を下げた。
そうか。シリーンは、今の暮らしはまだ幸せと言えるほどじゃないんだ。もちろんこのいまはそれどころじゃないけど、無事にやり過ごせたら、心から満たされた気持ちになれる日が来てほしい。そのためにぼくはどんなお手伝いができるだろう。
「ヨハンくん」
キッチンに向かいかけたぼくに、シリーンが声をかけた。
「何?」
振り返ると、彼女は逆にぼくの返事に驚いたように顔を上げた。どうやら無意識に呼んでしまったみたいだ。
「…あ、ごめんなさい」
「何か気になるの? いいよ、小さいことでも話して」
「いいの、何でもないの。…あれよね、お祈りができないと、手持ち無沙汰ね。ぐるぐる考えすぎちゃう」
慌てて手を振る彼女に、ぼくは笑って言った。
「そうだね! でもお祈り以外にも気が紛れることっていっぱいあるよ。掃除とか、料理とか。これを片付けたら一緒にやろう」
「あっ。やだヨハンくん。その片付けを一緒にやりましょ!」
シリーンは急いで立ち上がり、ぼくの後に付いてキッチンに入った。
「ありがとう」
「え」
また背中から声だ。ぼくもまた振り向く。
「いつも側にいてくれて。とても助けられてるわ」
「……」
急にまっすぐ見られて、返事に詰まってしまった。こくこくとうなずく。さらに微笑まれたので、もうどんな顔をしていいかわからなかった。
* * *
それから二人で茶器を片付けて、大して散らかってもいなくて埃もない部屋を形ばかり掃除していると、侍女さんが食材を持って帰ってきた。
そのまま皆で夕食の支度に入った。薬草園では、ぼくたちを含めて住み込みの従業員が五、六人いて、家事を分担していた。だからぼくもシリーンも人並みに料理はできる。この場所には別棟から調理済みの食事を運んでくることもできるけど、あえて手作りすることにしていた。侍女さんは、手軽で庶民的な料理で構わないことに喜んでいた。
「では、トスギルでは私のようなブルネットの方はいらっしゃらないんですね」
「ええ、多くは黄色から赤茶で、魔力が強い――というか古い血筋が濃いほど鮮やかな朱色をしていると言われています」
支度をしながら、トスギル人の髪色の話になった。
「朱色ですか。ヨハンみたいな?」
あ、やっぱりまた言われた。
「そうね。ヨハンくんくらいなら、名門だと思われてもおかしくないわね」
「そ、そんな。向こうではすごい扱いでも、こっちじゃ珍しくないでしょ。それに、トスギルはまっすぐな髪の人ばかりだって話だったじゃない。ぼく、こんなくせっ毛だよ?」
髪のことを言われるのはどうも恥ずかしい。赤毛は、珍しくはないものの多数派でもない。宰相様やそのお嬢様のアナスタシア様みたいに、赤みがかった金髪なら美しいと言われもするだろうけど。
ぼくは手元の人参に目をやった。小さい頃は、「やーい、にんじん」と囃されたりもしたな。
「おやヨハン、そんな卑下しなくても」
「そうよ、綺麗な色でわたし好きよ」
「トスギルの方からそう見えるんなら、ひょっとしてあっちの血が混じってたりするんじゃないかい?」
「まさか。うちは、母方の
昔親から聞いた話だと、曽祖父もヨハンという名前だった。赤毛の子が生まれたらヨハンと名付けてほしい、との遺言に基づき、ぼくがその名前をもらった。無口なタイプだったけど、何かと要領がよかったということぐらいしかわからない。
その頃ガレンドールの民になったらしいけど、どこからか流れてきたとも聞いてない。当時この国は領土を積極的に広げていたので、国境の方が曽祖父の住んでたところにやってきただけかもしれない。
「そうなの。でも
…髪のことだよね?
「さ、できたわ」
シリーンはそう言ってお鍋を下ろした。
「いつもはね、このタイミングででこっそりお祈りするのよ」
「え?」
「美味しくなりますように、皆の明日の力になりますように、って」
「え…気のせいじゃなかったんだ」
確かに薬草園でシリーンが食事当番だった時は、ご飯を食べると満足感があったしその後いつもより張り切れた。個人的なひいき目だと思ってたけど、お祈りの効果だったの?
「今はお祈り禁止だから、これは普通のご飯よ」
「そんな。言い訳なさることじゃありませんよ」
ところがお皿に取り分け、一口食べるとシリーンは「あ!」と小さく叫んだ。
「ごめんなさい。お鍋を下ろすのが早かったみたい。人参がまだ固いわ」
「ほんのちょっと歯ごたえがあるだけじゃない。全然問題ないよ」
「ふふ、ふ。お祈りがなかったら、わたしってこんなものね。ふ、ふ、ふふっ…」
そう言って恥ずかしそうにくすくす笑い出した。可愛いな。
……あれ。
ぼくはしょっちゅう彼女に「可愛い」って言われちゃってるけど、逆にぼくが彼女を可愛いと思うのは、今が初めてじゃないかな。
え。
シリーンが可愛い。
あれ、え…。
どうしよう。
あ、いや、どうもしなくていいんだけど。
……。
「ヨハンくん!? 熱かった? あ、ひょっとしてどれか
「あ、うん、違う。何でもない、大丈夫」
「真っ赤よ!?」
「うん、大丈夫。大丈夫!」
思い出した。髪色と同じくらいに顔が赤くなりやすいから、まとめて「にんじん」だった。
ああ、侍女さんが空気になろうとしてる。な、何を察したの…。
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