3 迫る危険①
* * *
「ねえヨハンくん、今日の市場はひときわ賑わってるのね」
「祝日だからね。はぐれないようにね、シリーン」
「ありがとう」
シリーンは、ぼくの差し出した手をすっと握った。ぼくもぎゅっと握って人混みの中を進む。暦では夏から秋へ切り替わる日だけど、さすがにこの環境では蒸し暑くて全然そんな気がしない。
「買い物はそろそろ十分かな?」
「結構な大荷物になったわね。ヨハンくん、そんなに担いで大丈夫?」
「うん、全然平気だよ」
ぼくは、買い込んだ荷物のほとんどを
「今日はみんな、暑さに耐えた体を休めたり、エネルギーを補給したりするためにご馳走を食べたりするんだよ」
「それで呼び込みが『ハーブたっぷりで塩気の利いたスープに!』とか『今日のためにつぶしたての豚に牛!』とか言ってるのね」
「うん。ぼくたちも、園のみんなとたっぷり作ってたっぷり食べようね!」
「うーん…わたしはお肉はちょっと遠慮したいかな?」
「えっ?」
振り返ると、シリーンは慌てて空いてる方の手を振った。
「あ、いいの! ちゃんと食べるわ。でもトスギルとはやっぱり風習が違うなって思っただけ」
「そうなんだ?」
「トスギルでは、今日は天主教の大事な祭日よ。この一年の間に、亡くなったけどきちんと弔ってもらえなかった人々の魂が、天上の主の恩寵により天に召し上げられる日なの。教会では、そのような誰にも悼んでもらえない魂のために祈りを捧げるのよ。そして、魂にお供えしたお団子とお菓子をいただくの」
「ふうん…。あ、それで今日、買い出しの後に教会に行きたいって言ってたの?」
「ええ。聖女にとっても大切なお務めの一つだったから…」
シリーンは一旦目を伏せたけど、すぐにまっすぐ前を見て続けた。
「わたしはもう聖女じゃないし、ここはガレンドールだけど、でも一人の教徒としてお祈りを捧げておきたいわ。この地でさまよう魂があれば、その魂のために」
彼女の横顔や声は堂々としていて、まるで教会の鐘の音のようにぼくの胸に沁み入ってきた。
ああ、そんなシリーンが好きだ。どんなシリーンもぼくは好きだ。毎日必ず、好きだと思う瞬間がある。そのたびにぼくは幸せを感じる。
こんな蒸し暑くて騒々しい道端で、買い込んだ荷物を背負って、シリーンの手を握って、胸の中に湧き上がってくる幸せを感じながら、ぼくは思い切り笑顔で言った。
「わかった! じゃあ、お団子とお菓子の材料も買って、それから教会へ行こう!」
「いいの?」
「もちろんだよ!」
シリーンのホッとしたような笑顔が、また嬉しくてたまらなかった。
* * *
市場を抜けた帰り道に、シリーンがガレンドールに来て初めて訪れた教会があった。路地の入口に警邏の詰所ができたとは言え、まだ時々ひったくりが出るらしい。よく警戒しながら、ぼくたちは中へ入った。
シリーンに出会うまで、ぼくは教会に通ったことはほとんどなかった。彼女が腰を落ち着けてからは、月に一度はここへ祈りに来ていたのでぼくも付き添っていたものの、当然今日の祝日に入るのも初めてだ。
ガレンドールの教会でも、今日は祈りが必要な日だというのはわかってるみたいだった。なぜなら祭壇に、お団子とお菓子ではないけれどお供えが盛られ、香も焚かれていたからだ。
「こんにちは」
控えていた司祭さんがぼくたちに声をかけた。毎月通うからすっかり顔見知りだ。
「こんにちは。お祈りさせてもらってもいいですか? …さまよえる魂たちのために」
「おや、今日がどんな日かご存知とは。シリーンさんは本当に敬虔な方ですね」
シリーンがお願いすると、司祭さんは人の良さそうな笑顔でどうぞどうぞと祭壇へ向けて手を差し伸べた。ぼくは
シリーンは祭壇の前でひざまずき、お祈りを始めた。心の中ではトスギルの聖句を唱えているんだろう。静かな時間だ。彼女の内側からほのかに光が発している気さえする。
ふと気づくと、蝶が彼女の側に現れていた。周りをくるくる回ったり髪を引っ張ったりして、ちょっといつもと様子が違う。シリーンは気づいたみたいだけど、無視して祈りに集中しようとしている。
と、出し抜けに何人かの人が彼女に近づいた。さっき信徒だと思った連中だ。
「あっ…」
一人が彼女の腕を掴んで、顔を確認した。ぼくはベンチを蹴って飛び出し、彼女を後ろから抱きかかえようとした奴を突き飛ばした。
「シリーン!!」
他の連中も押しのけて彼女を引き剥がすと、手を取って出口へ走った。視界の端で、司祭さんが目を丸くしていた。扉の前で振り返ると、連中が追いすがろうとして来ていたので外へ飛び出た。荷物は仕方ない。物盗りじゃない。
「■■…! シリーン■、■■■…!」
何かわからないことを叫んでいる。でもはっきりとシリーンの名を呼んだ。
こういうとき立ち向かってはいけない。ぼくはまだ、中途半端に力があるのはかえって危ないからと、短杖はおろか木剣すら持ち歩くことは許されてない。けど、持ってたとしても闘おうとしてはいけない。相手がどんな力を持ってるかわからないし、素人だったら裁かれるのはこちらになる。守るべき人がいるときは尚更、まずは戦闘になること自体を避けろと厳しく教えられている。
ぼくはシリーンの手を離さず、とにかく路地を走った。ここと大きな通りとの交差点に、警邏の詰所がある。奴らはいつの間にか追うのを諦めたようだけど、ぼくたちは構わず詰所に飛び込んだ。
「どうした!?」
留守番の警邏兵が立ち上がった。
「そこで…襲われて…そこの教会で…」
息を切らせながら言いかけると、シリーンが腕につかまって小さく首を振った。
「シリーン、でも」
問うと、もう少し強く首を振った。迷っていると、今度は司祭さんが駆け込んできた。
「ああ、君たち怪我はないかね!?」
司祭さんは、彼らを全く知らないと憤慨していた。
「各地の教会にお祈りを捧げて回っていると言ってやってきたんだ。変わった連中だなと思っていたんだが、自分たちと同じように若い女性が祈って回っていないかと聞かれて――だがそんな人はいない。すると、淡いベージュの髪色の人を知らないかと。それなら毎月通ってくる、敬虔な方だから今日も来るかもしれないと言ったら…」
動揺しながら経緯をまくし立てると、シリーンに深々と頭を下げた。
「あなたの知り合いだとしても、随分穏やかじゃない様子でしたね。申し訳ない」
警邏兵は眉をひそめて、その不審な連中の人相を確認した。司祭さんは素性を知らなかったけど、シリーンも知らないの一点張りだった。警邏兵は司祭さんと一緒に教会へ出向き、もう不審者が消えていることを確認して戻ってきた。ぼくたちの荷物は無事だった。
帰り道が心配だったけど、今日は人出が多いから警邏兵も余裕がなさそうだった。司祭さんが、お詫びとして箱馬車をおごってくれたので、ぼくたちは御者に急いでもらいながら薬草園へ帰ることにした。
「シリーン、あれはやっぱりトスギルの人たちなの?」
車中でやっとぼくは彼女に聞いた。俯いた頭がこくりとうなずき、動きに合わせてベージュの前髪がさらりと揺れた。
「シリーンを…連れ戻しに来たの?」
「…たぶん」
「鳩の人はどうなったの? また何か言ってきてるの?」
「ううん…あの一回きりで、何も言ってこないわ」
シリーンは少し考え込んで、それから説明した。
「彼らはお
「力?」
「癒やしの力と浄化の力よ。癒やしの力がある乙女は聖女候補とされるけど、高位精霊と契約できなければ浄化の力を見せることはできないわ」
「シリーンにはその力があるんだね」
「ええ…。ガレンドールでは精霊の力が薄いから、あまり発揮できないけど」
シリーンは自嘲気味に言った。でも薬草園で育ててる苗や出荷したものの質が上がったことは、園のみんなが認めてる。園の畑の土や水を浄化してるんだ。ただきれいにするだけじゃない作用を及ぼしてるらしい。
「その浄化の力って、シリーンの他にも使える人はいるの?」
「王太后様が使うことができたと言われているけど…少なくとも、わたしがいた頃にはいなかったわ。希少で尊いからこそ、真の聖女として王家へ迎え入れるのよ。…ニルファは鳥を眷属とする精霊と契約したようだけど、高位ではないのでしょうね。おそらく浄化の力がない。だからお
「浄化の力がないと、トスギルの王家は困るの?」
「どうかしら。真の聖女がいない時代は、災害や辛いことが多かったそうだけど…今は疑問に思うわ。聖女も精霊もいなくても、こんなに立派に栄えている国があるんだもの」
彼女の組んだ両手に、ぎゅっと力が入った。
「…わたし、戻らないわ。絶対に。それに、聖女じゃなくても祈りは届くと信じてる」
そして、ふっと窓の外に――どこか遠くに目をやった。
「トスギルのことは、トスギルの民みんなが祈ればいいんだわ」
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