呵呵

 雲の狭間を潜り抜ける駕籠の中で、山ン本五郎左衛門は呵々大笑していた。

 その笑い声が、晴れ渡る青空に黒雲を呼び、無数の雷鳴をはためかせることになっても、構わず笑い続けた。捩れた腹を抑え、足をばたつかせ、涙を流して笑い転げた。

 天晴――愛い愛い――善き哉善き哉――。哄笑の狭間にそんな声を混じらせながら、一頻り笑い吼えた後、ふうふうと荒い息を注ぎながら山ン本五郎左衛門は身を擡げる。その顔は、鬼灯の如く真っ赤に染まり、その双眸には金泥の輝きが宿り、下がった眦から溢れた一滴は、青い鬼火となって燃え上がりながら落ちていった。

 ――これほどまでに、満たされた過去はない。

 ――これほどまでに、爽快な気分はない。

 顔から笑みは消えやらなかった。溌剌としていた。彼岸を棲家にする物の怪だからといって、常に陰険な顔をしているとは限らない。実際、現在の山ン本五郎左衛門は陽気の頂きを極めたようになっていて、陰の宿る余地など一部もないのだった。

 ――これほどまでに、痛快な負けはない。

 完全なる敗北だった。残すところあと十五人という、本当にもうすぐのところでの挫折であり、ここまでの十数年間が全て無駄に帰すことになった。

 悲しむべきだった。恨むべきだった。

 あるいは、己の不甲斐なさを恥じるべきなのかも知れぬ。

 だがいずれの気にもなれなかった。腹の底から込み上げてくるのは愉快だった。

 この七月三旬の一つ一つを思い返すだけで、また笑いが込み上げてくる。

 楽しくて仕方がない。愛おしくて仕方がない。

 負け惜しみだと嗤うなら嗤えば良い。

 長年の宿願よりも大切な何かを、自分は今、きっと、手にしている。

 眦から零れ出た、もう一滴の涙が鬼火に変わる前に、山ン本五郎左衛門は鳥足のような細長く、節くれだった指でそれを拭った。そうしてしっとりと濡れた目に、稲生平太郎――自らを完全に降参させた豪傑なる若者との、ありとあらゆる手を尽くしきった我慢比べ知恵比べの日々を投影し、ひとり悦に浸った。

 そうしている間にも空を飛ぶ駕籠は数千の妖怪魔を伴い、碧空に突如生じた黒雲の深奥に向かって、進み続ける。地上は遥か下方に過ぎ去り、今もなお自分を見上げているはずの、永遠の好敵手の姿は、もはや豆粒ほどにも見えなくなっていた。

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