第30話 天地
十一月も最後の日、天から地へと、雨は静かに降り注ぐ。
日付けが変わる前から、間もなく夜明けを迎える今まで、雨は止むことなく、葉を濡らし草を濡らし、屋根を濡らし土を濡らす。
天を映す水溜まり、それを踏みつける少女の足。
真っ黒な傘に守られ、少女は雨の中に立ち尽くしていた。
「アスター、いないね」
「山に行ったのか」
「大好きだよね、山」
少女はどこもかしこも黒い。
身に纏うセーラー服もスカーフも、タイツも靴も、二つに縛った長い髪も、片腕に抱えた生首すらも、全て黒。
黒くないのは瞳くらい。
アーモンド型の瞳は血のように赤々しく、傘の隙間から眠たげに、天を眺めている。
「こんな雨降りの日だと、臭いを辿るのも難しいね」
「もうそんなことができるのか」
「アスターの匂い、覚えた。シャムロックの匂いも覚えているから、いなくなっても見つけ出せるよ」
「……そうか」
赤い目を伏せて返事をすると、生首は黙り込む。しばし無言で少女は天を眺め続けていた。
吐く息が白いが、震えたりなど寒そうな様子はどちらにもない。過保護な従者が傍にいれば、すぐにでも建物の中に連れて行くだろうが、彼はどこにもいない。
ふいにぽつりと、少女が何か呟く。
「何か言ったか」
「かぐらづきって言ったの。神楽舞いの神楽に、お月様の月で、神楽月」
「何だそれ」
「十一月の別名。一般的には、霜月が一番知られているけど、他にもいっぱいあるの。その中でも神楽月がさ、一番綺麗で可愛くない?」
「……よく分からん」
「そう」
少女は特に気にした様子もなく、視線を下ろし、今度は水溜まりを見つめる。
「アスターが教えてくれた」
「この国の出身でもないくせに、何で知っているんだあいつ」
「違うからこそ、知りたいんじゃない? アスターから教えてもらえるの、楽しいから、アスターの授業がカエデは好き」
「一度言ってやれ、泣いて喜ぶ」
「なら、その涙はカエデがもらうから」
少女の言葉に、呆れたような溜め息をついて、生首は目線を上げる。位置的に二体の視線は合わないが、そうせずにはいられなかったのだろう。
「カエデ、お前はもう──吸血鬼なんだぞ? 同族の涙を口に入れる必要はない」
「絶対に駄目ってわけじゃないんでしょ? カエデの好きにさせてよ」
「……」
話している内に、辺りは明るくなり、雨足が強くなる。スカートの裾も僅かに濡れてきた。もう戻るべきだが、少女にその気はない。
「カエデにとっては、人間だった時から大好きなおやつなんだよ」
「いや、涙だから」
「──また魔法が使えるようになったらいいなとか、思ってやってるわけじゃないよ」
本当だよ、と何度も念押しするが、生首はゆるゆると首を振る。
「できれば、アスターの前ではやめてやれ。あいつは何かと気にしやすい奴だからな」
「……そんなに気にしなくていいのにね。アスターは何度もカエデ達のことを助けてくれているのに」
「……お前は少しは気にしろ」
「はーい」
戻らない。
帰らない。
雨を傘越しに浴びながら──南京錠で固く閉ざされた温室を背にしながら、いない従者を待つ。
「……アスターは、いつまで探し続けるんだろう」
「気の済むまではだろ、多分」
「カエデも手伝った方がいいよね」
「無理するな」
「やることなくて暇」
「映画でも観ていよう」
「アスターだけ働かせて?」
「……」
黙り込む生首。
少女は構わず話し掛ける。
「吸血鬼になってからさ、鼻が利くようになった。──山からね、少しだけシャムロックの匂いがする」
「……」
「諦められないんだろうな、見つかるまでずっと。でも、見つかった所で、どうするんだろう。正しい首と胴をくっつけたとしても、多分植園の魔法のことだから、くっつかずに灰になるんじゃないかな」
「……」
「協力してくれる魔法使い、探すべき?」
「……お前は吸血鬼になって日が浅い。無理に人目に出ることはない」
「いつになったらいいの?」
「そうだな……百年とか」
「過保護め」
── 一際大きな、水の跳ねる音がした。
生首と少女が音のした方へと視線を向ければ、ずぶ濡れ状態の従者が立ち尽くしている。少女は近付き傘の中に入れれば、さらりと持ち手を奪われ、少女が濡れないように傾けられた。
青白い顔の従者。無表情に少女と生首を見下ろし、白い息を吐きながら口を開く。
「いつからここに? 風邪を引いたらどうするのですか、早く中に入りましょう」
「風邪なんてもう引かないよ」
「吸血鬼でも稀に引くんですよ」
そう口にした瞬間、傷ついたような顔をした従者に、少女はすぐに口角を上げてみせた。
「そんな奇跡が起きたら、看病お願いね」
「……言われるまでもありません」
今にも泣き出しそうな笑みへと表情が変わった従者に、少女は安堵しつつ、ほんのり空腹を覚える。
じっと従者の赤い瞳を見つめていれば、生首がおいと声を上げる。
「お前達、本当に風邪を引くぞ。さっさと戻れ」
「すみませんシャムロック様。カエデも、行きますよ」
「はーい」
天に登ったはずの日は雲に隠れ、雨に濡れた地には二体分の足音が響く。
「今日の朝ごはんね、カエデが作ってみました」
「えっ」
「嫌?」
「まさか! 作れるのですね」
「ちょっとはね。たまには一緒に食べようよ」
「……そうですね、たまには、はい」
従者の嬉しそうな声に少女は気分を良くし、生首を抱えて走り出す。
生首の悲鳴と、転びますよと注意する従者の声が重なったが、少女の足は止まらない。踊るように軽やかに、危うげなくたのしげに、生首と共に回り始める。
更に注意しようとしたが、従者は口を閉じた。
普段、見ることのない、少女の子供らしい姿。奪われた時間を想うと、止められない。──たとえ主の危機であろうと。
「アスターァァァァァァァァ!」
「……神楽月に降る雨も、これにておしまいですね」
従者は視線を天に移し、ぽつりと呟く。
生首の悲鳴は絶叫に変わり、少女の気が済むまで踊りは続いた。
◆◆◆
時に他の魔法使いが訪れ、囲われそうになった。
時に他の吸血鬼が訪れ、闘いになりかけた。
時に生首の胴体の一部が見つかり、三体だけの宴が開かれた。
時に喧嘩をし、傷つけ合うことも、慰め合い、共に笑うこともあった。
そうして少女と生首と従者は、永遠に続く時間を、それなりに楽しく、幸せに、過ごしていきましたとさ。
神楽月に降る雨 黒本聖南 @black_book
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