第18話 椿

 淡い月の光は地下まで届き、格子の向こうにいる相手の、豊麗な白髪が仄かに輝いていた。


『何度言われても、小生の気持ちは変わらない。ここを抜け出し、この身を血に染めるつもりはない』


 その白さに目を奪われて、危うく返事を聞き逃す所だった黒髪の青年は、慌てて何かを言おうとしたが、特に言葉が思い浮かばず、口を閉ざして俯いた。その際に、耳に掛けていた髪がはらりと落ちて、青年の左目を隠してしまう。

 相手はつまらなそうに鼻を鳴らし、青年から顔を背けた。


『貴方は小生を説得する気があったのか? 言われたから来ただけか』

『……オレだって来なくていいならそうしたい。だが、断り続けていたら、従者にいらんことをする輩が出てくる。主として、たまには厄介な同胞に協力しないといけない』

『グレンヴィルの吸血鬼にも色々あるようだ』


 用は済んだだろう、もう帰れの言葉に黒髪の青年は二度も頷き、立ち上がってすぐに背を向けた。


『気が変わったらいつでも』

『お決まりの言葉もけっこうだ』


 白髪の吸血鬼、アヴィオール・シェフィールド。

 黒髪の吸血鬼、シャムロック・グレンヴィル。

 二体の初対面はこうして終わり、以後、黒髪の吸血鬼が自発的に白髪の吸血鬼のことを思い出すことはなく、従者と共にいつも通りの平穏な日々を送っていたが── 一通の手紙を受け取ったことで、記憶を呼び起こすことに。


 ──いつぞやのグレンヴィル、貴方に脱出の手伝いを願いたい。できるだけ内密に動きたいから一体で来てくれ。


 黒髪の吸血鬼は少し迷ったが、そろそろ同胞の頼みを聞かなければいけない時期、引き抜きに成功すれば当分は協力しなくて済むだろう。

 言われた通りに、そして大切な従者を危険には晒したくないと、適当な用事を押し付けて、単身で白髪の吸血鬼がいる洋館に赴いた。

 人気のない庭に静かに降り立ち、音に細心の注意を払いながら、目的地に向かおうとして──膝の裏を斬られた。


『……っ』


 片方だけだが、地面に崩れ落ちるには十分で、その瞬間今度は腕に鋭い痛みが走る。

 吸血鬼は治癒や再生能力が高い種族、常であればすぐにでも傷が塞がるはずだが、やけに治りが遅い。


『かずき……かず、き……か、ず、き』


 困惑と痛みに脳内を占められる中、女の声が耳に入る。

 かずき、カズキ? 誰かの名前か。

 カズキと呼ぶ声には愛しさが混じっていた。憎悪が混じっていた。そして──涙が混じっていた。

 女にとってカズキとは、どんな存在なのか。

 そんなことを考える精神的余裕など、黒髪の吸血鬼にはなかった。


『わたしのかずき、どうしてわたしをおいてったの? どうしてあいつをえらんだの? きゅうけつきにどうたいなんていらないの。あなたのかみやほほにふれていいのはわたしだけ。かずきカズキ一樹どうして私を選んでくれなかったの一樹!』


 まずは片脚を落とされた。戦闘特化のグレンヴィルの吸血鬼であろうと、黒髪の吸血鬼はあまりの痛みに悶絶し、前のめりに倒れこむ。次いで片腕、すぐに反対の腕も落とされた。悲鳴を上げれば蹴り飛ばされ、仰向けにされる。


『あぁ、一樹。帰ってきてくれた一樹。どこにも行かないで一樹。私の名前を呼んでちょうだい昔みたいに椿って一樹』

『……かっ……』


 首の周囲に何かが巻き付いたと思えば強く締め付けられ、黒髪の吸血鬼は小さく喘ぐ。生えない腕では抵抗もできない。


『呼んで、呼んでよ椿ってねぇ呼んで椿よ椿、椿、椿椿椿』

『……っ』

『椿椿椿椿椿椿椿椿椿!』


 女の目が赤く光っていた所までは、覚えている。

 黒髪の吸血鬼の意識はそこで途絶え──目が覚めた時には覚えのある地下にいて、ただの生首になっていた。

 傍らには、女によく似た顔立ちの、無表情の少女。枷のはめられた両脚は、変な方向に曲がっている。


『……痛くないのか』

『貴方こそ、胴体どうしたの?』


 少女の腕は無事だったから、生首は自身の涙を少女に取らせて脚を治し、その代わりに血をもらう。胴体があった頃よりも少なく済み、いくら満たされても、胴体が生えてくるようなことはなかった。


『ツバキ、というのは』

『カエデのお母様の名前』

『お前はカエデと言うのか』

『そうだよ。貴方は?』

『シャムロック・グレンヴィル』

『……カエデのお母様がごめんね、シャムロック』


 女は時に地下牢に来て、生首に愛を囁き、少女に暴力を振るう。

 動けない生首と違い、少女には十分に涙を与えているのに、どうして抵抗しないのかと生首が訊けば、お父様と約束したからと、少女は淡々と告げる。


『椿さんに良くしてあげて、椿さんに酷いことをしないで、椿さんの傍にいて。僕はもう何もできないからって』

『父親はどうして出ていった』

『……この家は元々、お父様の生まれ育った家で、お嫁に来たお母様が、この家の吸血鬼に酷いことをしたから、もう一緒にいられないって』

『……アヴィオール・シェフィールド』

『そう、アヴィオール様。知り合い?』

『そいつに会いにここへ来た。まさかとは思うが……そいつも、生首に』

『されたの』

『あぁ……』


 ほどなく、従者が救助に来て、女は行方不明となり、自身の消えた胴体が見つかるまではと言う名目で、少女と共に暮らすことになった。

 何度も口にする通り、生首自身はもう胴体への未練はないが、一人になった少女をそのまま放置することは憚られ、従者もまた同じ気持ちだった。

 実の母から非道な扱いを受け、実の父からは見捨てられ、傷付いていないわけがない。なるべく心安らかに過ごせる時間が少女には必要だ。

 傍にいて、同じ時を過ごす。

 本来は時間の速度が違う種族同士だけれど、ほんの一時でも、そうして少女を癒せればと、生首は、そして従者も思っていた。


◆◆◆


「シャムロック様!」


 従者の慌てた声に、生首は目を覚ます。

 派手に足音を立てて近付いてくる従者の腕の中には、従者の胸にしがみつく少女の姿があった。

 真っ黒な少女のアーモンド型の瞳は見開かれ、口は一文字に結ばれている。


「お隣失礼します!」


 手早く従者は少女を布団の中に入れるが、少女は上半身を起こしたまま、横たわろうとしない。


「アスター」


 じっと少女に見つめられ、耐えられないとばかりに従者は顔を背ける。


「温めたミルクをお持ちします、好きでしょう?」

「……うん」


 足早に従者は部屋から出ていき、残された生首と少女。

 布団の掛けられた少女の膝の上にはいつの間にか、強く握り締めた拳が置かれ、少女はそれに視線を落としている。


「……何かあったのか」

「……あった」


 ぽつりぽつりと、少女は語る。自身の見てきたものを、生首に。

 終えた頃に、沈んだ顔の従者が戻ってきた。


「アスター。温室の生首のことを聞いた。それと……ツバキ・ウエソノを、その、どうにかしたというのは、本当なのか」

「……」


 従者は無言で頷き、少女に湯気の立った赤いカップを渡した。当たり前のように受け取った少女に、構えた様子はない。


「──明日からのことなんだけど」


 息を吹き掛ける合間にそう言うと、少女は一口飲んで、しくじったとばかりに顔を歪めた。

 明日?

 生首と従者が揃って疑問の声を上げれば、そう明日と少女は繰り返す。


「今日はゆっくり休んで、明日から頑張ろうと思う」

「……何を頑張るのですか?」

「全ての生首を元に戻す」


 何てことないように放たれた少女の言葉。従者はその赤い双眸を驚きに見開いて、生首は固まってしまっている。


「カエデのお母様のせいで、そうなった。お母様はもういない。なら、カエデがやらないと」

「……カエデ、無理しないでください、君も被害者なのですよ」

「でも、娘だもん。カエデしか償いができる人、いないもん。カエデがやる、やりたい」

「この状態をどうにかできる心当たりはあるのか?」


 生首の問いに、ある、と即座に少女は答えた。


「吸血鬼を生首の状態で生かす魔法は、お母様の実家で作られて、カエデにも少しだけ、やり方教えてくれた。本か何か、お母様の部屋にあるかもしれない」

「……危険かもしれないが、母親の実家に方法を訊くというのはどうだ?」

「お母様の家、もうないの。吸血鬼、いなくなっちゃって」

「なら、部屋に賭けるしかないな」

「シャムロック様」


 咎めるような声で自身の名を呼ぶ従者に、生首は語り掛ける。


「カエデがやりたいと言うんだ。それなら、好きにさせてやろうじゃないか」

「……ですが」

「アスター」


 少女から静かに名前を呼ばれ、従者は肩を振るわせる。少女は次の言葉をなかなか言わない。徐々に、従者の額に汗が浮いてきた。


「──恨まないよ」


 少女の片手が、従者の手にそっと重ねられる。


「恨めないよ、アスターにはすごくお世話になって、これでも感謝しているくらい」

「感謝なんて!」

「カエデがアスターにしてほしいのは、謝罪じゃないよ。もう謝罪はいらないの」


 重ねた手に、力が込められる。


「協力して、協力させて」

「……っ!」

「一緒に生首達を、吸血鬼に戻してあげよう。もうアスターだけでやらなくていいの。アスターだけで頑張らなくていいの。これからはカエデも一緒だから大丈夫」


 ──だから、ねぇ、アスター。

 淡々とした声には、ほんの少しだけ温もりを感じられ──気付けば従者はゆっくりと、何度も頷き、瞳から赤い結晶を溢していった。

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